半島一奇抄 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
「やあ、しばらく。」
記者が掛けた声に、思わず力が入って、運転手がはたと自動車を留めた。……実は相乗(あいのり)して席を並べた、修善寺の旅館の主人の談話を、ふと遮った調子がはずんで高かったためである。
「いや、構わず……どうぞ。」
振向いた運転手に、記者がちょっとてれながら云ったので、自動車はそのまま一軋(ひときし)りして進んだ。
沼津に向って、浦々の春遅き景色を馳(はし)らせる、……土地の人は(みっと)と云う三津(みと)の浦を、いま浪打際とほとんどすれすれに通る処(ところ)であった。しかし、これは廻り路(みち)である。
小暇を得て、修善寺に遊んだ、一――新聞記者は、暮春の雨に、三日ばかり降込められた、宿の出入りも番傘で、ただ垂籠(たれこ)めがちだった本意(ほい)なさに、日限(ひぎり)の帰路を、折から快晴した浦づたい。――「当修善寺から、口野浜(くちのはま)、多比(たひ)の浦、江の浦、獅子浜(ししはま)、馬込崎と、駿河湾(するがわん)を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢(ぜいたく)でございますよ。」と番頭の膝(ひざ)を敲(たた)いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず怯(おびや)かされた。が、乗りかかった船で、一台|大(おおい)に驕(おご)った。――主人が沼津の町へ私用がある。――そこで同車で乗出した。
大仁(おおひと)の町を過ぎて、三福(さんぷく)、田京(たきょう)、守木、宗光寺畷(そうこうじなわて)、南条――といえば北条の話が出た。……四日町を抜けて、それから小四郎の江間、長塚を横ぎって、口野、すなわち海岸へ出るのが順路であった。……
うの花にはまだ早い、山田|小田(おだ)の紫雲英(げんげ)、残(のこん)の菜の花、並木の随処に相触れては、狩野(かの)川が綟子(もじ)を張って青く流れた。雲雀(ひばり)は石山に高く囀(さえず)って、鼓草(たんぽぽ)の綿がタイヤの煽(あおり)に散った。四日町は、新しい感じがする。両側をきれいな細流が走って、背戸、籬(まがき)の日向(ひなた)に、若木の藤が、結綿(ゆいわた)の切(きれ)をうつむけたように優しく咲き、屋根に蔭つくる樹の下に、山吹が浅く水に笑う……家ごとに申合せたようである。
記者がうっかり見愡(みと)れた時、主人が片膝を引いて、前へ屈(かが)んで、「辰さん――道普請がある筈(はず)だが前途(さき)は大丈夫だろうかね。」「さあ。」「さあじゃないよ、それだと自動車は通らないぜ。」「もっとも半月の上になりますから。」と運転手は一筋路を山の根へ見越して、やや反(そ)った。「半月の上だって落着いている処じゃないぜ。……いや、もうちと後路(あと)で気をつけようと、修善寺を出る時から思っていながら、お客様と話で夢中だった。――」「何、海岸まわりは出来ないのですかね。」「いいえ、南条まで戻って、三津へ出れば仔細(しさい)ありませんがな、気の着かないことをした。……辰さん、一度聞いた方がいいぜ。」「は、そういたしましょう。」「恐ろしく丁寧になったなあ。」と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽(なかおれぼう)を被(かぶ)り直した。「はやい方が可(い)い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路(むらみち)の午(ひる)静(しずか)に、渠等(かれら)を差覗(さしのぞ)く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店(こみせ)の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着(はんてんぎ)の若い男は、軒の藤を潜(くぐ)りながら、向うから声を掛けた。「どこへ行(ゆ)くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築(つ)くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで掛(かか)るんだとよう。」「いや、難有(ありがと)う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともあるものが、道路の交通、是非善悪を知らんというのは、まことにもって不心得。」……と、少々芝居がかりになる時、記者は、その店で煙草(たばこ)を買った。
砂を挙げて南条に引返し、狩野川を横切った。古奈(こな)、長岡――長岡を出た山路には、遅桜(おそざくら)の牡丹咲(ぼたんざき)が薄紫に咲いていた。長瀬を通って、三津の浜へ出たのである。
富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干(まわり)があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山(いわやま)の巉崕(ざんがい)を切って通した、栄螺(さざえ)の角(つの)に似たぎざぎざの麓(ふもと)の径(こみち)と、浪打際との間に、築繞(つきめぐ)らした石の柵(しがらみ)は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。
「お宅の庭の流(ながれ)にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾(すそ)を引いた波なんですな。
「いや、構わず……どうぞ。」
振向いた運転手に、記者がちょっとてれながら云ったので、自動車はそのまま一軋(ひときし)りして進んだ。
沼津に向って、浦々の春遅き景色を馳(はし)らせる、……土地の人は(みっと)と云う三津(みと)の浦を、いま浪打際とほとんどすれすれに通る処(ところ)であった。しかし、これは廻り路(みち)である。
小暇を得て、修善寺に遊んだ、一――新聞記者は、暮春の雨に、三日ばかり降込められた、宿の出入りも番傘で、ただ垂籠(たれこ)めがちだった本意(ほい)なさに、日限(ひぎり)の帰路を、折から快晴した浦づたい。――「当修善寺から、口野浜(くちのはま)、多比(たひ)の浦、江の浦、獅子浜(ししはま)、馬込崎と、駿河湾(するがわん)を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢(ぜいたく)でございますよ。」と番頭の膝(ひざ)を敲(たた)いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず怯(おびや)かされた。が、乗りかかった船で、一台|大(おおい)に驕(おご)った。――主人が沼津の町へ私用がある。――そこで同車で乗出した。
大仁(おおひと)の町を過ぎて、三福(さんぷく)、田京(たきょう)、守木、宗光寺畷(そうこうじなわて)、南条――といえば北条の話が出た。……四日町を抜けて、それから小四郎の江間、長塚を横ぎって、口野、すなわち海岸へ出るのが順路であった。……
うの花にはまだ早い、山田|小田(おだ)の紫雲英(げんげ)、残(のこん)の菜の花、並木の随処に相触れては、狩野(かの)川が綟子(もじ)を張って青く流れた。雲雀(ひばり)は石山に高く囀(さえず)って、鼓草(たんぽぽ)の綿がタイヤの煽(あおり)に散った。四日町は、新しい感じがする。両側をきれいな細流が走って、背戸、籬(まがき)の日向(ひなた)に、若木の藤が、結綿(ゆいわた)の切(きれ)をうつむけたように優しく咲き、屋根に蔭つくる樹の下に、山吹が浅く水に笑う……家ごとに申合せたようである。
記者がうっかり見愡(みと)れた時、主人が片膝を引いて、前へ屈(かが)んで、「辰さん――道普請がある筈(はず)だが前途(さき)は大丈夫だろうかね。」「さあ。」「さあじゃないよ、それだと自動車は通らないぜ。」「もっとも半月の上になりますから。」と運転手は一筋路を山の根へ見越して、やや反(そ)った。「半月の上だって落着いている処じゃないぜ。……いや、もうちと後路(あと)で気をつけようと、修善寺を出る時から思っていながら、お客様と話で夢中だった。――」「何、海岸まわりは出来ないのですかね。」「いいえ、南条まで戻って、三津へ出れば仔細(しさい)ありませんがな、気の着かないことをした。……辰さん、一度聞いた方がいいぜ。」「は、そういたしましょう。」「恐ろしく丁寧になったなあ。」と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽(なかおれぼう)を被(かぶ)り直した。「はやい方が可(い)い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路(むらみち)の午(ひる)静(しずか)に、渠等(かれら)を差覗(さしのぞ)く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店(こみせ)の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着(はんてんぎ)の若い男は、軒の藤を潜(くぐ)りながら、向うから声を掛けた。「どこへ行(ゆ)くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築(つ)くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで掛(かか)るんだとよう。」「いや、難有(ありがと)う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともあるものが、道路の交通、是非善悪を知らんというのは、まことにもって不心得。」……と、少々芝居がかりになる時、記者は、その店で煙草(たばこ)を買った。
砂を挙げて南条に引返し、狩野川を横切った。古奈(こな)、長岡――長岡を出た山路には、遅桜(おそざくら)の牡丹咲(ぼたんざき)が薄紫に咲いていた。長瀬を通って、三津の浜へ出たのである。
富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干(まわり)があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山(いわやま)の巉崕(ざんがい)を切って通した、栄螺(さざえ)の角(つの)に似たぎざぎざの麓(ふもと)の径(こみち)と、浪打際との間に、築繞(つきめぐ)らした石の柵(しがらみ)は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。
「お宅の庭の流(ながれ)にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾(すそ)を引いた波なんですな。
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