古代人の思考の基礎 - 折口 信夫 ( おりくち しのぶ )
一 尊貴族と神道との関係
尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、竟(つひ)に表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、屡(しばしば)行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召された、武官の相手になるのは、宮中の女房である。其も、時代が下ると、位の低い女房に変つて行つたが、元は位の高い、采女の中から出た。采女と称せられる、女房の範囲は広かつたが、平安朝になつて、此中から、上流の女房といふ階級が出て、采女の地位は、低いものになつて了うた。御歌会に、女房と武官とが対立の位置に立ち、此が発達して、宮中の歌合せとなつた。
宮中の正式な歌合せは、此一つの原因ばかりから出来たのではないが、此形式を取り込んで、厳粛なものになつて来たのである。
采女と地下の武士とが、何故に歌合せに出るやうになつたか。其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領――地方の郡の長官――の女であつた。其が召されて京に上り、任期を終へて、稀には京にゐつく者もあつたが、帰国するのが例になつてゐた。帰国した者は、宮廷の諸儀式を、自分の家に伝へ、或は、其家の勢力範囲へ伝播した。
此采女に対立して、やはり郡領の息子が、京に上つてゐる。此は、近代まで続いてゐた、大番役のやうなものであつた。これ等、郡領の一族から出たものを、総括的に舎人と言ふ。此舎人も、後には、任期を勤めあげて、京にゐつくものもあつたが、奈良朝以前には、大抵帰国して、宮廷の信仰を宣伝してゐる。
宮中には、神代以来の歴史を誇る、武官の家々があつたので、舎人等が、地方から沢山上つて来ると、人数があり余る。すると、王氏は勿論、位置の高い者にお下げになる。随身(ズヰジン)がそれである。随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、資人又は、帳内とも言うた。要するに、本体は、宮廷の舎人として考へられる。貴族の家々にゐる女房も、同様に宮廷から下されたものだ、といふ仮定も成り立つ訣で、このやうに、宮廷の生活が、次第に下へ移され、貴族の家々でも、宮廷と同様な方式があつたから、舎人・采女によつて移された、宮廷の生活様式を、直ぐに受け入れる事が、出来たのである。
平安朝末になると、武官はほんの召人として、軽く扱はれてゐるが、清輔の「奥義抄」の巻頭に、此事をまじめに書いてゐる。平安朝も末期の記録では、軽く見られてゐるが、元は、意味深く考へられてゐた。
初春朝賀の式が行はれる時に、天皇が祝詞を下されると、群臣が其に御答へとして、寿詞(ヨゴト)を奉る。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、竟(つひ)に表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、屡(しばしば)行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召された、武官の相手になるのは、宮中の女房である。其も、時代が下ると、位の低い女房に変つて行つたが、元は位の高い、采女の中から出た。采女と称せられる、女房の範囲は広かつたが、平安朝になつて、此中から、上流の女房といふ階級が出て、采女の地位は、低いものになつて了うた。御歌会に、女房と武官とが対立の位置に立ち、此が発達して、宮中の歌合せとなつた。
宮中の正式な歌合せは、此一つの原因ばかりから出来たのではないが、此形式を取り込んで、厳粛なものになつて来たのである。
采女と地下の武士とが、何故に歌合せに出るやうになつたか。其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領――地方の郡の長官――の女であつた。其が召されて京に上り、任期を終へて、稀には京にゐつく者もあつたが、帰国するのが例になつてゐた。帰国した者は、宮廷の諸儀式を、自分の家に伝へ、或は、其家の勢力範囲へ伝播した。
此采女に対立して、やはり郡領の息子が、京に上つてゐる。此は、近代まで続いてゐた、大番役のやうなものであつた。これ等、郡領の一族から出たものを、総括的に舎人と言ふ。此舎人も、後には、任期を勤めあげて、京にゐつくものもあつたが、奈良朝以前には、大抵帰国して、宮廷の信仰を宣伝してゐる。
宮中には、神代以来の歴史を誇る、武官の家々があつたので、舎人等が、地方から沢山上つて来ると、人数があり余る。すると、王氏は勿論、位置の高い者にお下げになる。随身(ズヰジン)がそれである。随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、資人又は、帳内とも言うた。要するに、本体は、宮廷の舎人として考へられる。貴族の家々にゐる女房も、同様に宮廷から下されたものだ、といふ仮定も成り立つ訣で、このやうに、宮廷の生活が、次第に下へ移され、貴族の家々でも、宮廷と同様な方式があつたから、舎人・采女によつて移された、宮廷の生活様式を、直ぐに受け入れる事が、出来たのである。
平安朝末になると、武官はほんの召人として、軽く扱はれてゐるが、清輔の「奥義抄」の巻頭に、此事をまじめに書いてゐる。平安朝も末期の記録では、軽く見られてゐるが、元は、意味深く考へられてゐた。
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