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名人地獄 - 国枝 史郎 ( くにえだ しろう )

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    消えた提灯(ちょうちん)、女の悲鳴 「……雪の夜半(よわ)、雪の夜半……どうも上(かみ)の句が出ないわい」  寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ好(よ)い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。
「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見
 立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。
「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」
「しかし随分寒うござるな」
 侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」
「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。
「よい上の句が出ないと見える」
「よい打ち手がめつからぬと見える」
 二人は哄然(こうぜん)と笑い合った。
「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも呟(つぶや)いた。
「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。
「さよう。しかし余寒でござるよ」
「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。下萠(したもえ)、雪解(ゆきげ)、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」
「盆石(ぼんせき)、香会(こうかい)、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「喘息(ぜんそく)の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」
「いよいよもって下(さ)がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。鳩飯(はとめし)などは最もおつで」「ところが私(わし)は野菜党でな、うどにくわいにうぐいすなときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ頭(がしら)はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒火事流行(はや)る」
「その泥棒思い出した。噂に高い鼠小僧(ねずみこぞう)、つかまりそうもありませんかな?」ふと主人(あるじ)はこんな事をいった。
「つかまりそうもありませんな」
「彼は一個の義賊というので、お上(かみ)の方でもお目零(めこぼ)しをなされ、つかまえないのではありますまいかな?」
「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」
「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」
「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」
「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の郡上様(ぐじょうさま)といえば、名与力として謳(うた)われたものだ。その貴郎(ひと)の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、堤(つつみ)を駕籠(かご)が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」
水神(すいじん)あたりのお客でしょうよ。この大雪駕籠を走らせ、水神あたりへしけ込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」
「お互い年を取りましたな。私(わし)はもうこれ五十七だ」
「私(わし)は三つ下の五十四でござる」
「あっ」と突然寮のあるじ一|閑斎(かんさい)は声を上げた。「提灯が! 提灯が! バッサリと!」
 その時|墨堤(ぼくてい)の方角から、女の悲鳴聞こえて来た。
「ははあ何か出ましたな」
 ――与力の職を長男に譲り、今は隠居身分ながら、根岸肥前守(ひぜんのかみ)、岩瀬加賀守(かがのかみ)、荒尾但馬守(たじまのかみ)、筒井|和泉守(いずみのかみ)、四代の町奉行歴仕して、綽名(あだな)を「玻璃窓(はりまど)」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、
「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと黒石(くろ)を置いたものである。「まずこれで脈はある」
「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「刃(やいば)の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴、殺されたに相違ない!」
「いや私(わし)は碁(ご)の事だ」
「ナニ碁?」と、いかにもあきれたように、「人が殺されたのだ! 人が殺されたのだ! 行って見ましょう。さあさあ早く!」
「いや、それなら大丈夫」平八老人は悠々と、「提灯の消えたのは私にも見えた。が、私にはお前様のいう、刃の稲妻は見えなかった」
「フ、フ、フ、フ、実はそのな。……」
「お前様にも見えなかった筈だ」
「さよう、実は、おまけでござるよ」
芝居気の抜けぬ爺様だ。刃の稲妻の見えるには、いささか距離が遠過ぎる」
「……が、あの悲鳴は? 消えた提灯は?」
「それがさ、変に間延びしている」
殺人(ひとごろし)ではないのかえ?」
「ナーニ誰も殺されはしない」

    登場人物はまさしく五人

 しかし主人は不安そうに、「確かかな? 大丈夫かな?」
三十の歳(とし)から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数え二十年間、私(わし)はこの道では苦労しています」
「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」
「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」
 おりから同じ方角から、鼓(つづみ)の音が聞こえて来た。ポンポンポンポンポンポンと、堤に添って遠隔(とおざか)って行った。
 すいかけた煙管(きせる)を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が顰(ひそ)んで来た。
 梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん武蔵(むさし)一円、経帷子(きょうかたびら)に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の辺(あた)りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。
「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい音(ね)だなあ。……しかし待てよ? あの打ち方は? これは野暮だ! 滅茶苦茶だ! それにも拘らずよい音だなあ」
 ついと平八は立ち上がった。それからのそりと縁へ出た。
「さて、ご老体、出かけましょうかな」
「ナニ出かける? はてどこへ?」一閑斎は怪訝(けげん)そうであった。
「刃の稲妻……」と故意(わざ)と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか?」「玻璃窓の平八お出張(でば)りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵!」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も従(つ)いておいで。


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