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呉清源 - 佐藤 垢石 ( さとう こうせき )

  • 昭和24年文藝春秋新社発行 呉清源 中盤戦術
  • 署名本・川端康成・『呉清源棋談・名人』・初版・函・帯
  • 現代の名局 全6巻◆新装復刻版 呉清源 高川格 坂田栄男/美品格安
  • 囲碁本 呉清源の碁経衆妙 生・劫・攻 3冊セット
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 は今や棋聖といつてよからう。  昭和二十六年四月初旬に於て対本因坊昭宇、橋本宇太郎八段との読売十番碁に、六勝二敗二持碁成績であるが、吾々素人が見てもこの十番碁は、の勝に帰するであらうことが予想でき、世間一般の評もの方が大きな分を持つてゐるといつてゐた。それはそれとして、まだ一つ残された問題が他にある。それは藤沢庫之助九段との対局である。呉と藤沢の両九段がいつ対局の機会を得るか、それは予測できないけれど、この二人は、いづれが嫌であつても対局せねばならぬ運命を持つてゐる。米国ソ連のやうな身の上だ。
 呉と藤沢が、運命をかけた日に、いづれが勝つか。広く棋界一般の声をきいてみよう。日本棋院あたりの多くの人々も呉九段六分藤沢九段四分といふところが間違ひのない賭であらうといつてゐる。してみると、対橋本、対藤沢との結果現在現実には示してゐないけれど、世評といふものは出鱈目ではなく、最後呉清源日本の棋界を征服することになるのであらうと思ふ。
 この結果は、偶然ではない。呉は、若いときから日本の棋界征服を心に期してゐたのである。
 それについて、私は想ひ出す話がある。この話は、いままで私は誰にも口にしなかつた。しかし、呉清源日本の棋界征服の緒についた今日この話を説いて、世の人に呉清源念力の在りどころを知つて貰ふのも無駄ではなからうと思ふのである。

 昭和十二年初夏から、呉は胸を軽く患つて信州富士見高原療養所へ入院した。院長は医博正木不如丘である。私は、その年の九月下旬の秋晴れの一日、富士見病室呉清源を見舞つたのである。もう、この高原には穂の出た芒が半ば枯れて風になびき、榛の木が落葉してゐた。
 三四ヶ月の療養で、大いに体力を回復してゐた。昼は日光浴に努めて皮膚を灼き、夜は病室の窓を開け放して山の冷風を容れ、体力の抵抗を増すのに励げんでゐたのである。
 この日、私が呉清源を訪ねたのは、病気を見舞ふのを第一目的としてゐたけれど、ほかに一つの目的があつたのである。それはその当時、七月中旬日華事変がはじまつたばかりで中国軍連戦連敗、蒋介石は奥へ奥へと逃げ込んで行く、哀れな折柄であつた。この祖国苦難に際して、呉清源はどんな感想を抱いてゐるか、私はそれを知りたいと思つたのである。さうして、彼の感想の持ちやうによつては、深く慰めてやりたいと考へてゐた。
 最初は、病気経過のことから棋友の消息、遷り行く秋の眺めのことなど話してゐたが話題は次第にこのごろ大きな見だしで報ぜられてゐる日華事変のことに移つて行つた。私は、この事変に対する呉清源感想を誘ふやうに仕向けて行つた。すると彼は言葉少なに、また遠慮するやうにぽつ/\とこんなことをいつた。
 ――末は、どうなることかと人並に心配が起らないでもない。戦争といふやうなことは結構な話ではないと思ふ。結構な話だと思ふ人は一人もあるまいが、とりわけ私のやうに中国に生れて、いまでは日本人となつてゐる者とすれば、日支が争ふなどとはまことに以て、ありがたくない。ならうことなら一日も早く、平和に帰つて欲しいのが山々である。
 かう述懐して、しみ/″\とするのである。私は、これをきいて切なる言葉であると思つた。そこで私は、問うてみた。
「とはいふけれど、現在日本帰化したとはいひながら、中国がかうも日本苛められてゐる場合、君は日本に敵愾心は起らないものか」
 と、言つて私は呉の顔を見たのである。
「…………」
 彼はこの問をきいて、しばし瞑目して唇を開かなかつた。しかし、やがて眼を開いて静かに語りはじめた。
「――御説の通りである。私は、帰化して日本人となつてゐるが、この腕のなかには中国の血が流れてゐますよ」
 かういひ終ると彼は袖から左腕を出して、前膊の白い皮膚を右の掌で二三度叩いてみせた。
「――而かも、蒋介石は私と故郷を同じくしてゐます。中支浙江です。私は蒋介石の心事を想ふと、胸が一杯になります」
 と、いつて彼はまたうちしほれた。やがてまた言葉に力を入れて、
「私は、一つの信念を持つてゐます。たとへ蒋介石日本征服されたとて、私が日本征服してその仇を取つてやるといふ信念を持つてゐます。私は、この痩せ腕で武器を執つて血を見る戦争の術は知らないけれど、私は碁の闘ひを持つてゐます。遠からず私が、日本の棋界を征服して凱歌を揚げ故郷中国へ帰つて行く、その確信です。蒋介石よ、その日がくるまで隠忍自重してさうして最後に溜飲を下げて貰ひ度い。といふ念願です」
 かう語りながら、呉清源は面を紅潮させ、清純な眼底を輝かせた。
 私は、これをきいて、ひとりでに頭が下つた。


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