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咢堂小論 - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

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  • 【文庫】白痴 (新潮文庫) 坂口安吾◆メール便80円
  • 出口裕弘★坂口安吾 百歳の異端児 新潮社2006年初版
  • 【坂口安吾文庫本 2冊】白痴・堕落論
  • 『定本 坂口安吾全集』第12巻/雑纂Ⅰ、第13巻/雑纂Ⅱ/2冊セット
  • ★ちくま日本文学全集★坂口安吾★1991年第一刷
  • 即決★TT07★小説 坂口安吾★杉森久英
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 毎日新聞所載、尾崎|咢堂(がくどう)の世界浪人論は終戦後現れた異色ある読物の一つであつたに相違ない。言論の自由などと称しても人間の頭の方が限定されてゐるのであるから、俄に新鮮な言論が現れてくる筈もなく、之(これ)を日本文化の低さと見るのも当らない。あらゆる自由が許された時に、人は始めて自らの限定とその不自由さに気付くであらう。とはいへ、ともかく新鮮な読物の極めて稀な一つが八十を過ぎた老人によつて為されたことは日本文化貧困物語ることでもあるかも知れぬ。
 咢堂の世界浪人論によれば、明治維新前の日本はまだ日本ではなく、各藩であり、藩民であつて、各藩毎に対立し、思考拘束されてゐた。日本及び日本人といふ意識は少なかつたのである。この藩民の対立感情が失はれ、藩浪人|若(もし)くは非藩民となつたとき日本人誕生したのであつて、現在日本人であり他国に対する対立感情をもつてゐるが、要するに対立感情文化の低さに由来し、部落対立、藩の対立国家対立対立に変りはない。今後の日本人世界浪人となり、非国民とならなければならぬのだが、非国民とは名誉言葉高度文化意味してゐる。日本人だの外国人だのと狭い量見で考へずに、世界を一つの国と見て考へるべしと言ふのであつた。即ち彼の世界聯邦論の根柢である。
 その一週間ほど前の朝日新聞には志賀直哉特攻隊員を再教育せよといふ一文が載つてゐた。死をみること帰するが如く教へられ、基地に於て酒と女と死ぬことと三つだけを習得した特攻隊員が終戦後野放しになり、この生きにくい時節に死をみること帰するが如く暴れられては困るから、彼らを集めて再教育せよといふ議論である。彼は世人に文学神様などと称せられてゐるのであるが、このピントの狂つた心配に呆気にとられたのは私一人ではなかつたであらう。
 死を見ること帰するが如しなどと看板を掲げて教育を施して易々と註文通りの人間が造れるものなら、第一日本は負けてゐない。かかる教育結果生れた人格代表東条であり真崎であり、軍人精神内容の惨めさは敗戦日本に暴露せられたカラクリのうちで最も悲痛なる真実ではないか。日本上空の敵機は全部体当りして一機も生還せしめないと豪語した結果の惨状は御覧の如くであり、飛行機のことは俺にまかせて国民などは引込んでをれと怒鳴り立てた遠藤といふ中将が、撃墜せられたB29搭乗員の慰霊の会を発起して物笑ひを招いてゐるなど、職業軍人のだらしなさは敗戦日本の肺腑を抉る悲惨事である。軍人精神には文化の根柢がないから、崩れると惨めである。浮足立つて逃げ始めると大将足軽人格区別がなくなり一様に精神的に匪賊化して教養の欠如を暴露する。死生の覚悟などといふものは常に白刃の下にある武芸者だの軍人などには却つて縁の遠いもので、文化教養の高いところに自ら結実する。問題文化教養の高低であつて、特攻隊員の死をみること帰するが如しなどといふ教育などは取るに足らない。
文芸」九・十月号に志賀直哉原子爆弾の残虐さに就て憤りをもらしてゐるが、この人道ぶりも低俗きはまるものである。原子爆弾を一足先に発明した国にこの戦争の軍配が上るであらうことは戦時国民常識であつて、その期待を恃(たの)みにしてゐた国民にとつて、十万円の研究費すら投じなかつたといふ軍部低脳ぶりは国民を驚倒せしめたものである。憤るべきはこの軍人低脳ぶりだ。残虐なのは戦争自体であつて、原子爆弾には限らない。戦争と切り離して原子爆弾一つの残虐性を云々するのが不思議な話ではないか。志賀直哉人道だの人間愛といふものはこの程度のものであり、貴族院議員貴族院議席から日本を眺めてゐるのと全く同じものである。特攻隊員を再教育せよなどといふ心配も、単に昔ながらの小さな平穏を欲してゐるからの心情であり、日本がそのあらゆる欠点を暴露した敗戦泥濘のさなかに於て、彼の人生問題がこんなところに限定されてゐるといふことが、文学の名に於てあまりにも悲惨である。戦争、そして、敗北国家の総力を傾け、その総力がすべて崩れてあらゆる物が裸体となつた今日日本に於て、その人の眼が何物を見つめ、狙ひ、何物を掴みだすか、といふことは、興味ある問題だ。その人の内容だけの物しか狙ひ又掴みだすことができず、平時に瞞着(まんちやく)し得た外見も、ここに至つてその真実を暴露せずにはゐられない。志賀直哉の眼が特攻隊員の再教育などといふことに向けられ、ただ一身の安穏を欲するだけの小さな心情を暴露したといふことは、暴露せられた軍人精神の悲惨なる実体と同じ程度に文学神様の悲痛極まる正体であつた。
 之に比べれば咢堂の眼は衆議院議席からも国民常識からもハミだしてをり、思考の根が人性そのものに根ざしてゐることを認めざるを得ぬ。彼は政治神様と言はれてゐるが、文学神様よりはよほど人間的であり、いはば文学的であつたのである。
 文化の低いほど人は狭い垣を持つ。国民国民同志対立し、より文化の低い藩民は藩民同志対立し、もつと文化が低くなると部落部落対立すると咢堂は言ふ。かかる対立感情文化の低さのみを原因とするかどうかは問題だが、之は咢堂の肉体的な言葉であり、いはば自らを投げだして対決をもとめてゐる文学的な一態度だ。日本人だのアメリカ人だのと区別を立てる必要もなく、誰の血だなどと言ふ必要もない。まもるに値ひする血など有る筈がないのだ、と放言する咢堂に至つては、いささか悪魔の門を潜つてきた凄味を漂はしてゐるのであるが、僕の記憶に間違ひがなければ、咢堂夫人イギリス人であつた筈で、かうなると意味が違ふ。なぜなら純粋日本人であり、日本人女房をもち、日本人の娘があるとなかなかかうは言へないものだ。理論よりも本能の方が一応は強力だからである。この本能を潰して正論を掴みだすには確かに悪魔的な眼が必要で、女房や娘を人身御供にあげるくらゐの決意がないと言ひきれない。咢堂は悪魔の助力なしに之を言ひきれる立場にゐるのであるが、それにしても、この言葉人間の一大弱点を道破してをり、日本将来の一大問題を提出してゐるものであることは争へない。共産主義者などは徒らに枝葉の空論をふりまく前に、先づこの人性の根本的な実相に就て問題を展開する必要があつた筈だ。咢堂の世界聯邦論がこの根柢から発展してゐることは、一つの思想重量であつて、日本の政治家にこれだけの重量ある思想の持主はまづないだらう。この重量人間性に就ての洞察探求から生れるもので、彼の思想文学的であるのも、この為だ。
 けれども、ここに問題は、部落的、藩民的、国民的限定を難じ血の一様性を説く咢堂の眼が、更により通俗的な小限定、即ち「家庭」の限定に差向けられてゐないのは何故であらうか。
 家庭人間生活永遠絶対の様式であるか。男女夫婦でなければならぬか。国家部落対立感情文化の低さを意味するならば、家庭構成家庭感情文化の低さを意味しないか。咢堂はこれらのことに就てはふれてゐない。


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