国貞えがく - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
柳を植えた……その柳の一処(ひとところ)繁った中に、清水の湧(わ)く井戸がある。……大通り四(よ)ツ角(かど)の郵便局で、東京から組んで寄越(よこ)した若干金(なにがし)の為替(かわせ)を請取(うけと)って、三(み)ツ巻(まき)に包(くる)んで、ト先(ま)ず懐中に及ぶ。
春は過ぎても、初夏(はつなつ)の日の長い、五月|中旬(なかば)、午頃(ひるごろ)の郵便局は閑(かん)なもの。受附にもどの口にも他に立集(たちつど)う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早(てっとりばや)くは受取(うけと)れなかった。
取扱いが如何(いか)にも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下(あなた)が御当人なのですか。」
などと間伸(まのび)のした、しかも際立(きわだ)って耳につく東京の調子で行(や)る、……その本人は、受取口から見た処(ところ)、二十四、五の青年で、羽織(はおり)は着ずに、小倉(こくら)の袴(はかま)で、久留米(くるめ)らしい絣(かすり)の袷(あわせ)、白い襯衣(しゃつ)を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺(あたり)まで捲手(まくりで)で何とも以(もっ)て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張(さっぱり)捗(はかど)らぬ。態(なり)に似合わず悠然(ゆうぜん)と落着済(おちつきす)まして、聊(いささ)か権高(けんだか)に見える処(ところ)は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌(しゃべ)って、時々じろじろと下目(しため)に見越すのが、田舎漢(いなかもの)だと侮(あなど)るなと言う態度の、それが明(あきら)かに窓から見透(みえす)く。郵便局員|貴下(きか)、御心安(おこころやす)かれ、受取人の立田織次(たつたおりじ)も、同国(おなじくに)の平民である。
さて、局の石段を下りると、広々とした四辻(よつつじ)に立った。
「さあ、何処(どこ)へ行(ゆ)こう。」
何処へでも勝手に行くが可(よし)、また何処へも行かないでも可(い)い。このまま、今度の帰省中|転(ころ)がってる従姉(いとこ)の家(うち)へ帰っても可(い)いが、其処(そこ)は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣(はかまいり)は昨日(きのう)済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日(あした)だし、好(すき)なものは晩に食べさせる、と従姉(いとこ)が言った。差当(さしあた)り何の用もない。何年にも幾日(いくか)にも、こんな暢気(のんき)な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些(ち)と他愛(たわい)がないほど、のびのびとした心地(ここち)。
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫(かっ)と日が当ると、日中は早(はや)じりじりと来そうな頃が、近山曇(ちかやまぐも)りに薄(うっす)りと雲が懸って、真綿(まわた)を日光に干(ほ)すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃(ひるごろ)の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔(やわらか)い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車(くるま)も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜(おぼろよ)を浮れ出したような状(さま)だけれども、この土地ではこれでも賑(にぎやか)な町の分(ぶん)。城趾(しろあと)のあたり中空(なかぞら)で鳶(とび)が鳴く、と丁(ちょう)ど今が春(しゅん)の鰯(いわし)を焼く匂(におい)がする。
飯を食べに行っても可(よし)、ちょいと珈琲(コオヒイ)に菓子でも可(よし)、何処(どこ)か茶店で茶を飲むでも可(よし)、別にそれにも及ばぬ。が、袷(あわせ)に羽織で身は軽し、駒下駄(こまげた)は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金(なにがし)か貸しても可(い)い。
「いや、串戯(じょうだん)は止(よ)して……」
そうだ! 小北(おぎた)の許(とこ)へ行(ゆ)かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊(しま)って、身体(からだ)が帽子まで堅くなった。
何故(なぜ)か四辺(あたり)が視(なが)められる。
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉(へいきち)……平(へい)さんと言うが早解(はやわか)り。織次の亡き親父と同じ夥間(なかま)の職人である。
此処(ここ)からはもう近い。この柳の通筋(とおりすじ)を突当りに、真蒼(まっさお)な山がある。それへ向って二|町(ちょう)ばかり、城の大手(おおて)を右に見て、左へ折れた、屋並(やなみ)の揃(そろ)った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
その男を訪ねるに仔細(しさい)はないが、訪ねて行(ゆ)くのに、十年|越(ごし)の思出がある、……まあ、もう少し秘(ひ)して置こう。
さあ、其処(そこ)へ、となると、早や背後(うしろ)から追立(おった)てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々(ゆうゆう)と歩行(ある)き出したが、取って三十という年紀(とし)の、渠(かれ)の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気(のんき)さは、この浪(なみ)が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。
二
この通(とおり)は、渠(かれ)が生れた町とは大分|間(あいだ)が離れているから、軒(のき)を並べた両側の家に、別に知己(ちかづき)の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店(りょてん)がある。其処(そこ)へ東京から新任の県知事がお乗込(のりこみ)とあるについて、向った玄関に段々(だんだら)の幕を打ち、水桶(みずおけ)に真新しい柄杓(ひしゃく)を備えて、恭(うやうや)しく盛砂(もりずな)して、門から新筵(あらむしろ)を敷詰(しきつ)めてあるのを、向側の軒下に立って視(なが)めた事がある。通り懸(がか)りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節(せつ)に上京なされると、電話第何番と言うのが見得(みえ)の旅館へ宿って、葱(ねぎ)の※(おくび)で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
また夢のようだけれども、今見れば麺麭(パン)屋になった、丁(ちょう)どその硝子(がらす)窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世(みせ)ものの小屋が掛(かか)った。猿芝居、大蛇、熊、盲目(めくら)の墨塗(すみぬり)――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓(ひとくるわ)に、※草(どくだみ)の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男(くもおとこ)の見世物があった事を思出す。
額(ひたい)の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人(おとな)の二倍、やがて一尺、飯櫃形(いびつなり)の天窓(あたま)にチョン髷(まげ)を載せた、身の丈(たけ)というほどのものはない。頤(あご)から爪先の生えたのが、金ぴかの上下(かみしも)を着た処(ところ)は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指(おやゆび)で摘(つま)み出しそうな中親仁(ちゅうおやじ)。これが看板で、小屋の正面に、鼠(ねずみ)の嫁入(よめいり)に担(かつ)ぎそうな小さな駕籠(かご)の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額(おでこ)に蚯蚓(みみず)のような横筋を畝(うね)らせながら、きょろきょろと、込合(こみあ)う群集(ぐんじゅ)を視(なが)めて控える……口上言(こうじょういい)がその出番に、
「太夫(たゆう)いの、太夫いの。
春は過ぎても、初夏(はつなつ)の日の長い、五月|中旬(なかば)、午頃(ひるごろ)の郵便局は閑(かん)なもの。受附にもどの口にも他に立集(たちつど)う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早(てっとりばや)くは受取(うけと)れなかった。
取扱いが如何(いか)にも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下(あなた)が御当人なのですか。」
などと間伸(まのび)のした、しかも際立(きわだ)って耳につく東京の調子で行(や)る、……その本人は、受取口から見た処(ところ)、二十四、五の青年で、羽織(はおり)は着ずに、小倉(こくら)の袴(はかま)で、久留米(くるめ)らしい絣(かすり)の袷(あわせ)、白い襯衣(しゃつ)を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺(あたり)まで捲手(まくりで)で何とも以(もっ)て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張(さっぱり)捗(はかど)らぬ。態(なり)に似合わず悠然(ゆうぜん)と落着済(おちつきす)まして、聊(いささ)か権高(けんだか)に見える処(ところ)は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌(しゃべ)って、時々じろじろと下目(しため)に見越すのが、田舎漢(いなかもの)だと侮(あなど)るなと言う態度の、それが明(あきら)かに窓から見透(みえす)く。郵便局員|貴下(きか)、御心安(おこころやす)かれ、受取人の立田織次(たつたおりじ)も、同国(おなじくに)の平民である。
さて、局の石段を下りると、広々とした四辻(よつつじ)に立った。
「さあ、何処(どこ)へ行(ゆ)こう。」
何処へでも勝手に行くが可(よし)、また何処へも行かないでも可(い)い。このまま、今度の帰省中|転(ころ)がってる従姉(いとこ)の家(うち)へ帰っても可(い)いが、其処(そこ)は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣(はかまいり)は昨日(きのう)済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日(あした)だし、好(すき)なものは晩に食べさせる、と従姉(いとこ)が言った。差当(さしあた)り何の用もない。何年にも幾日(いくか)にも、こんな暢気(のんき)な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些(ち)と他愛(たわい)がないほど、のびのびとした心地(ここち)。
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫(かっ)と日が当ると、日中は早(はや)じりじりと来そうな頃が、近山曇(ちかやまぐも)りに薄(うっす)りと雲が懸って、真綿(まわた)を日光に干(ほ)すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃(ひるごろ)の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔(やわらか)い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車(くるま)も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜(おぼろよ)を浮れ出したような状(さま)だけれども、この土地ではこれでも賑(にぎやか)な町の分(ぶん)。城趾(しろあと)のあたり中空(なかぞら)で鳶(とび)が鳴く、と丁(ちょう)ど今が春(しゅん)の鰯(いわし)を焼く匂(におい)がする。
飯を食べに行っても可(よし)、ちょいと珈琲(コオヒイ)に菓子でも可(よし)、何処(どこ)か茶店で茶を飲むでも可(よし)、別にそれにも及ばぬ。が、袷(あわせ)に羽織で身は軽し、駒下駄(こまげた)は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金(なにがし)か貸しても可(い)い。
「いや、串戯(じょうだん)は止(よ)して……」
そうだ! 小北(おぎた)の許(とこ)へ行(ゆ)かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊(しま)って、身体(からだ)が帽子まで堅くなった。
何故(なぜ)か四辺(あたり)が視(なが)められる。
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉(へいきち)……平(へい)さんと言うが早解(はやわか)り。織次の亡き親父と同じ夥間(なかま)の職人である。
此処(ここ)からはもう近い。この柳の通筋(とおりすじ)を突当りに、真蒼(まっさお)な山がある。それへ向って二|町(ちょう)ばかり、城の大手(おおて)を右に見て、左へ折れた、屋並(やなみ)の揃(そろ)った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
その男を訪ねるに仔細(しさい)はないが、訪ねて行(ゆ)くのに、十年|越(ごし)の思出がある、……まあ、もう少し秘(ひ)して置こう。
さあ、其処(そこ)へ、となると、早や背後(うしろ)から追立(おった)てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々(ゆうゆう)と歩行(ある)き出したが、取って三十という年紀(とし)の、渠(かれ)の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気(のんき)さは、この浪(なみ)が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。
二
この通(とおり)は、渠(かれ)が生れた町とは大分|間(あいだ)が離れているから、軒(のき)を並べた両側の家に、別に知己(ちかづき)の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店(りょてん)がある。其処(そこ)へ東京から新任の県知事がお乗込(のりこみ)とあるについて、向った玄関に段々(だんだら)の幕を打ち、水桶(みずおけ)に真新しい柄杓(ひしゃく)を備えて、恭(うやうや)しく盛砂(もりずな)して、門から新筵(あらむしろ)を敷詰(しきつ)めてあるのを、向側の軒下に立って視(なが)めた事がある。通り懸(がか)りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節(せつ)に上京なされると、電話第何番と言うのが見得(みえ)の旅館へ宿って、葱(ねぎ)の※(おくび)で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
また夢のようだけれども、今見れば麺麭(パン)屋になった、丁(ちょう)どその硝子(がらす)窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世(みせ)ものの小屋が掛(かか)った。猿芝居、大蛇、熊、盲目(めくら)の墨塗(すみぬり)――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓(ひとくるわ)に、※草(どくだみ)の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男(くもおとこ)の見世物があった事を思出す。
額(ひたい)の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人(おとな)の二倍、やがて一尺、飯櫃形(いびつなり)の天窓(あたま)にチョン髷(まげ)を載せた、身の丈(たけ)というほどのものはない。頤(あご)から爪先の生えたのが、金ぴかの上下(かみしも)を着た処(ところ)は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指(おやゆび)で摘(つま)み出しそうな中親仁(ちゅうおやじ)。これが看板で、小屋の正面に、鼠(ねずみ)の嫁入(よめいり)に担(かつ)ぎそうな小さな駕籠(かご)の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額(おでこ)に蚯蚓(みみず)のような横筋を畝(うね)らせながら、きょろきょろと、込合(こみあ)う群集(ぐんじゅ)を視(なが)めて控える……口上言(こうじょういい)がその出番に、
「太夫(たゆう)いの、太夫いの。
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