国際殺人団の崩壊 - 海野 十三 ( うんの じゅうざ )
(ほうかい)
作者(わたくし)は、此(こ)の一篇を公(おおやけ)にするのに、幾分の躊躇(ちゅうちょ)を感じないわけには行かないのだ。それというのも、実(じつ)は此の一篇の本筋は作者が空想の上から捏(こ)ねあげたものではなく、作者の親しい亡友(ぼうゆう)Mが、其の死後に語ってきかせて呉(く)れたものなのである。亡友(ぼうゆう)Mについては、いずれ此の物語を読んでゆかれるうちに諸君は、それがどのような人物で、どのような死に方をしたのであるか、おいおいとお判りになってくれることであろう。それにしても「死後に語ってきかせたもの」などと言うのは大変|可笑(おか)しいことに聞えるかも知れないが、これも事情を申して置かねばならないことであるが、諸君もかねてお聞きおよびかと思う例の心霊(しんれい)研究会で、有名なるN女史という霊媒(れいばい)を通じて、作者がその亡友から聞いた告白なのである。その告白は、実に容易ならざる国際的怪事件を語っているので、命中率九十パーセントと称せられる霊媒(れいばい)N女史の取扱ったものだから充分事実に近いものだとすると、この怪事件は公表するには余りに重大な事柄で、或いは公表を見合わせた方が当(あた)り障(さわ)りがなくてよいかも知れないくらいなのである。しかし一方に於(おい)て、N女史の招霊術(しょうれいじゅつ)は、単なる読心術(どくしんじゅつ)にすぎないという識者(しきしゃ)もあるようだから、それなれば、N女史の前に坐った作者の心中(しんちゅう)にかくされていた妄想(もうそう)が反映したのに過ぎないとも云えないこともないのである。兎(と)も角(かく)、そこのところは諸君の御判断におまかせするとして、怪事件の物語をはじめようと思うが、一種の実話であるだけに、筋ばかりで、描写が充分でないのは我慢していただきたい。
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古ぼけた大きな折鞄(おりかばん)を小脇にかかえて、やや俯(うつむ)き加減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡(きんがんきょう)があって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方(ゆくえ)は、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作(むぞうさ)に踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵(たいてい)ツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例に洩(も)れずツルリと滑ったのであるが、尻餅(しりもち)をつく醜態(しゅうたい)も演ぜずに、まるでスケートをするかのように、鮮(あざや)かに太った身体を前方に滑(すべ)らせて、バナナの皮に一と目も呉(く)れないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、鮮(あざや)かに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂(ぜんちょう)の髪が可(か)なり、薄くなっている。年の頃は五十四五歳にみえた。
この紳士は、構内を物静かに歩いて行った。それは五階建ての白い鉄筋コンクリートの真四角なビルディングが、同じ距離を距(へだ)てて、墓場のように厳粛(げんしゅく)に、そして冷たく立ち並んでいる構内であった。紳士は、そのようなビルディングの蔭を七つ八つも通りすぎてから、これはまた何と時代|錯誤(さくご)な感じのする煉瓦(れんが)建(だて)のビルディングの扉(ドア)を押して入って行った。そこで紳士は直ぐ左手の壁にかかっている沢山の名札(なふだ)の中で一番上の列の一番端にかかっていた「研究所長|鬼村(おにむら)正彦(まさひこ)」と書いた赤い文字のある札を手にとって、その裏をかえすと、又|復(もと)の位置にパチリと収(おさ)めた。赤かった文字が、今度は黒い文字に代り、矢張り「研究所長鬼村正彦」と名が読めた。さてその老紳士鬼村所長は、この動作中にも、別に視線を動かすようなこともなく、札をかえしてしまうと、階段の下の薄暗い隅にある扉を開いて、それから長い廊下を、音のしないように歩き、一番奥まった部屋の中に姿を消した。すべての行動が、いかにも馴(な)れ切った世界に、大したエネルギーを費(ついや)すことなしに、いとも正確にすすめられてゆくという風に見えた。
作者(わたくし)は、たいへん詰らない鬼村博士のスナップを、意味もなくだらだらと諸君の前に拡げたようであるが、これこそは最も意味のある大切なスナップなのであることは、頁(ページ)を追ってゆくに従ってお判りになろうと思う。とにかく、このスナップに現われたる鬼村博士の調子は、実に博士の性格の全部をものがたるものと云ってよい。博士はこの極東科学株式会社化学研究所長として令名(れいめい)があるばかりではなく、「日本のニュートン」と世界各国から讃辞(さんじ)を呈せられるほどの大科学者で、日本科学協会々長の栄誉を担(にな)っているばかりか、英国のローヤル・ソサエティーの名誉会長であり、米国のスミゾニアン・インステチュートの名誉顧問であり、独国のテクニッシェ・ライヒサンスタルトの名誉研究員であり、1940年に東京で開かれる万国工業会議には副総裁に任ぜられることに決定している。「日本の工業立国は鬼村博士によって完成されるであろう」といわれている。
鬼村博士のする事には無駄がない。その優秀な頭脳は各学会に、さまざまのすばらしい研究問題をあたえて、日本|否(いな)世界の科学界を面目一新させようとしている。博士自身も、この研究所に自(みずか)ら一分科を担任して、終日(しゅうじつ)試験管やレトルトの側(そば)をはなれない。その研究題目は「化学による生物の人造法」というのである。外の学者が五十年かかるところを、博士は十年で成績をあげている。
「開け、ごまの実」と廊下を飛ぶようにやって来て、博士の扉(ドア)の前に立った白い実験衣の小柄の青年学者が大きな声で叫んだ。
「どなたですか?」と内側から博士の扉の番をするロボットがやさしい婦人の声を出して訊(き)いた。
「松(まつ)ヶ谷(や)研究員です」
すると扉が開いた。若い松ヶ谷学士は、全身に興奮を乗せて躍(おど)りこむように所長室にすべりこんだ。
「先生、今朝の新聞をごらんになりましたか」
「これから見るところじゃ」と鬼村所長は答えた。博士は先刻(さっき)のペデストリアンと同じ姿勢をして静かに室内を歩き廻っているのであった。帽子も外套(がいとう)もとらずに、
「何か異(かわ)ったことでもありましたかい?」
「昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉(こだま)博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁(こんぎょう)息をひきとったそうです」
「うん、松瀬君もやられたか」と博士はちょっと押黙(おしだま)って何事かを考えているようであったが、相変らず室内散歩の歩調をゆるめはしなかった。「気の毒なことじゃのう」博士の声は水のように淡々(たんたん)として落付いていた。
「先生、昨夜の連中は毒|瓦斯(ガス)にやられたそうです。症状からみると一酸化炭素の中毒らしいですが、どうも可哀想(かわいそう)なことをしました」と松ヶ谷学士は下を俯(む)いた。
「薬学者連中が毒瓦斯にやられるなんて、ちょっと妙な話じゃね」博士は、毒舌(どくぜつ)を弄(ろう)するというのでもなく、これだけのことをスラスラと言ってのけた。
「ですが先生、これで四度目でございますよ。半年とたたない間に、第一に電気学会の幹事会に爆弾を抛(ほう)りこまれて幹部一同が惨死(ざんし)をする。次はS大学の工科教授室の連中が、悪性(あくせい)腸(ちょう)チブスでみな死ぬし、第三番目には先月、鉄道省の技術官連が大島旅行をしたときに、汽船爆沈で大半(たいはん)溺死(できし)しましたし、これで四度目です。私はいよいよこれは唯事(ただごと)ではないと思うのですが……」
「唯事ではない――とは」博士が例の調子で呻(うめ)くように言った。
「偶然の出来ごとでは無いというのかね」
「確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません」
「全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は」
「私は、こう思っています」と松ヶ谷学士は瞳を輝かして言った。
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古ぼけた大きな折鞄(おりかばん)を小脇にかかえて、やや俯(うつむ)き加減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡(きんがんきょう)があって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方(ゆくえ)は、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作(むぞうさ)に踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵(たいてい)ツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例に洩(も)れずツルリと滑ったのであるが、尻餅(しりもち)をつく醜態(しゅうたい)も演ぜずに、まるでスケートをするかのように、鮮(あざや)かに太った身体を前方に滑(すべ)らせて、バナナの皮に一と目も呉(く)れないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、鮮(あざや)かに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂(ぜんちょう)の髪が可(か)なり、薄くなっている。年の頃は五十四五歳にみえた。
この紳士は、構内を物静かに歩いて行った。それは五階建ての白い鉄筋コンクリートの真四角なビルディングが、同じ距離を距(へだ)てて、墓場のように厳粛(げんしゅく)に、そして冷たく立ち並んでいる構内であった。紳士は、そのようなビルディングの蔭を七つ八つも通りすぎてから、これはまた何と時代|錯誤(さくご)な感じのする煉瓦(れんが)建(だて)のビルディングの扉(ドア)を押して入って行った。そこで紳士は直ぐ左手の壁にかかっている沢山の名札(なふだ)の中で一番上の列の一番端にかかっていた「研究所長|鬼村(おにむら)正彦(まさひこ)」と書いた赤い文字のある札を手にとって、その裏をかえすと、又|復(もと)の位置にパチリと収(おさ)めた。赤かった文字が、今度は黒い文字に代り、矢張り「研究所長鬼村正彦」と名が読めた。さてその老紳士鬼村所長は、この動作中にも、別に視線を動かすようなこともなく、札をかえしてしまうと、階段の下の薄暗い隅にある扉を開いて、それから長い廊下を、音のしないように歩き、一番奥まった部屋の中に姿を消した。すべての行動が、いかにも馴(な)れ切った世界に、大したエネルギーを費(ついや)すことなしに、いとも正確にすすめられてゆくという風に見えた。
作者(わたくし)は、たいへん詰らない鬼村博士のスナップを、意味もなくだらだらと諸君の前に拡げたようであるが、これこそは最も意味のある大切なスナップなのであることは、頁(ページ)を追ってゆくに従ってお判りになろうと思う。とにかく、このスナップに現われたる鬼村博士の調子は、実に博士の性格の全部をものがたるものと云ってよい。博士はこの極東科学株式会社化学研究所長として令名(れいめい)があるばかりではなく、「日本のニュートン」と世界各国から讃辞(さんじ)を呈せられるほどの大科学者で、日本科学協会々長の栄誉を担(にな)っているばかりか、英国のローヤル・ソサエティーの名誉会長であり、米国のスミゾニアン・インステチュートの名誉顧問であり、独国のテクニッシェ・ライヒサンスタルトの名誉研究員であり、1940年に東京で開かれる万国工業会議には副総裁に任ぜられることに決定している。「日本の工業立国は鬼村博士によって完成されるであろう」といわれている。
鬼村博士のする事には無駄がない。その優秀な頭脳は各学会に、さまざまのすばらしい研究問題をあたえて、日本|否(いな)世界の科学界を面目一新させようとしている。博士自身も、この研究所に自(みずか)ら一分科を担任して、終日(しゅうじつ)試験管やレトルトの側(そば)をはなれない。その研究題目は「化学による生物の人造法」というのである。外の学者が五十年かかるところを、博士は十年で成績をあげている。
「開け、ごまの実」と廊下を飛ぶようにやって来て、博士の扉(ドア)の前に立った白い実験衣の小柄の青年学者が大きな声で叫んだ。
「どなたですか?」と内側から博士の扉の番をするロボットがやさしい婦人の声を出して訊(き)いた。
「松(まつ)ヶ谷(や)研究員です」
すると扉が開いた。若い松ヶ谷学士は、全身に興奮を乗せて躍(おど)りこむように所長室にすべりこんだ。
「先生、今朝の新聞をごらんになりましたか」
「これから見るところじゃ」と鬼村所長は答えた。博士は先刻(さっき)のペデストリアンと同じ姿勢をして静かに室内を歩き廻っているのであった。帽子も外套(がいとう)もとらずに、
「何か異(かわ)ったことでもありましたかい?」
「昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉(こだま)博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁(こんぎょう)息をひきとったそうです」
「うん、松瀬君もやられたか」と博士はちょっと押黙(おしだま)って何事かを考えているようであったが、相変らず室内散歩の歩調をゆるめはしなかった。「気の毒なことじゃのう」博士の声は水のように淡々(たんたん)として落付いていた。
「先生、昨夜の連中は毒|瓦斯(ガス)にやられたそうです。症状からみると一酸化炭素の中毒らしいですが、どうも可哀想(かわいそう)なことをしました」と松ヶ谷学士は下を俯(む)いた。
「薬学者連中が毒瓦斯にやられるなんて、ちょっと妙な話じゃね」博士は、毒舌(どくぜつ)を弄(ろう)するというのでもなく、これだけのことをスラスラと言ってのけた。
「ですが先生、これで四度目でございますよ。半年とたたない間に、第一に電気学会の幹事会に爆弾を抛(ほう)りこまれて幹部一同が惨死(ざんし)をする。次はS大学の工科教授室の連中が、悪性(あくせい)腸(ちょう)チブスでみな死ぬし、第三番目には先月、鉄道省の技術官連が大島旅行をしたときに、汽船爆沈で大半(たいはん)溺死(できし)しましたし、これで四度目です。私はいよいよこれは唯事(ただごと)ではないと思うのですが……」
「唯事ではない――とは」博士が例の調子で呻(うめ)くように言った。
「偶然の出来ごとでは無いというのかね」
「確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません」
「全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は」
「私は、こう思っています」と松ヶ谷学士は瞳を輝かして言った。
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