地は饒なり - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
一
或る日、ユーラスはいつもの通り楽しそうな足取りで、森から森へ、山から山へと、薄緑色の外袍を軽くなびかせながら、さまよっていました。銀色のサンダルを履き、愛嬌(あいきょう)のある美くしい巻毛に月桂樹の葉飾りをつけた彼が、いかにも長閑(のどか)な様子で現われると、行く先々のニムフ達は、どんなことがあっても見逃すことはありません。おだやかな心持のユーラスは四人の兄弟中の誰よりも、皆に大切にされ、いとおしがられていたのです。
陽気な、疲れることなどをまるで知らないニムフの踊りの輪から、ようようぬけた彼は、涼しさを求めて、ズーッと橄欖(かんらん)の茂り合った丘を下り、野を越えて、一つの谿間(たにま)に入りました。そこはほんとに涼しくて、静かでした。岩や石の間には、夢のような苔や蘭の花が咲き満ちて、糸のように流れて行く水からは、すがすがしい香りが漂い、ゆらゆらと揺れる水草の根元を、針のように光る小魚が、嬉しそうに踊って行きます。
海にある通りの珊瑚(さんご)が、碧(あお)い水底に立派な宮殿を作り、その真中に、真珠のようなたくさんの泡に守られた、小さな小さな人魚が、紫色の髪をさやさやと坐っています。
なんという綺麗(きれい)なのでしょう。ユーラスは、すっかりびっくりしてしまいました。今まで、こんな様子を見たことのなかった彼は、まるで幻を見るような心持で、フラフラと水上の方へと歩いて行きました。
行けば行くほど広くなる谿は、いつの間にか、白楊や樫や、糸杉などがまるで、満潮時(みちしおどき)の大海のように繁って、その高浪の飛沫(しぶき)のように真白な巴旦杏(あめんどう)の花が咲きこぼれている盆地になりました。
そして、それ等の樹々の奥に、ジュピタアでもきっと御存じないに違いないほど、美くしい者を見つけたとき、ユーラスは、もう息もつけないような心持になりました。
天鵝絨(ビロード)のように生えた青草の上に、蛋白石(オパール)の台を置いて、腰をかけた、一人の乙女を囲んで、薔薇や鬱金香(チューリップ)の花が楽しそうにもたれ合い、小ざかしげな鹿や、鳩や金糸雀(カナリヤ)が、静かに待っています。
そして、台の左右には、まるで掌(てのひら)に乗れそうな体のお爺さんが二人、真赤な地に金糸で刺繍(ししゅう)をした着物を着、手には睡蓮(すいれん)の花を持って立っています。あたりには、龍涎香を千万箱も開けたような薫香に満ち、瑪瑙(めのう)や猫眼石に敷きつめられた川原には、白銀の葦(あし)が生え茂って、岩に踊った水が、五色のしぶきをあげるとき、それ等の葦は、まあ何という響を立てることでしょう。
胡蝶(こちょう)の翅(はね)を飾る、あの美くしい粉ばかりを綴ったように、日の光りぐあいでどんな色にでも見える衣を被って、渦巻く髪に真赤なてんとう虫を止らせている乙女は、やがてユーラスの見たこともないライアをとりあげました。
そして、七匹の青|蜘蛛(ぐも)が張りわたしている絃を掻き鳴らし始めると、二人のお爺さんは、睡蓮の花を静かに左や右に揺り、いっぱいに咲きこぼれている花々の蕋(ずい)からは、一人ずつの類もなく可愛らしい花の精が舞いながら現われて来ました。
目に見えない※毛(わたげ)を金色に輝やかせながら、喉を張って歌う乙女の歌について、森じゅうの木々の葉と草どもが、小波のように繰返しをつけて行く。花は舞う。草木は歌う。勢づいた流れの水は、旋律につれて躍(おど)り上り跳(は)ね上って、絶間ない霧で、天と地との間を七色に包む。
ありとあらゆるものが、魔法のような美くしいうちに、乙女の声は体の顫(ふる)える力と魅力をもって澄み上って行ったのです。
ユーラスは、半分夢中のようになりました。そして、いきなりその踊りの真中を目がけて踏み出そうとすると、今までは、なごやかに低唱していた樫の木精が、一どきに
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンローローワラーラー……と歌い出し、彼方の霧の底から、微かな
ハッハッハッ! ホッホッホッ! という声が高まって来ると一緒に、森じゅうの木という木の葉が、波のように白い葉裏を翻しながら、彼に向って泡立って来ました。
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンロー……
ハッハッハッ! ホッホッホッ!
ユーラスは、自分が神様だったのをすっかり忘れてしまって大いそぎで逃げ出しました。そして、また次の日にいくらその谿間に違いないところをさがしてみても、あの綺麗な小川さえ見つけることができませんでした……。
殆どあらゆる種類の伝説と童話とが酵母となって、彼女の生活のどこの隅々にまでも、渾然(こんぜん)と漲りわたっていた果もない夢幻的空想は、今ようようその気まぐれな精力と、奇怪な光彩とを失い、小さい宝杖を持ち宝冠を戴(いただ)いた王様や女王様、箒に乗って月に飛ぶ鼻まがりの魔法使いなどは、皆足音も立てずにどこかの国へ行ってしまった。
そして、面白いお噺(はなし)のこの上なく上手な話し手としての名誉と、矜恃(きょうじ)とを失った彼女は、渾沌(こんとん)とした頭に、何かの不調和を漠然と感じる十二の子供として、夢と現実の複雑な錯綜のうちに遺されたのである。
一面紫色にかすみわたる黎明の薄光が、いつか見えない端(は)し端(ば)しから明るんで、地は地の色を草は草自身の色をとり戻すように、彼女の周囲のあらゆる事物は、まったく「いつの間にか」彼等自身の色と形とをもって、ありのまま彼女の前に現われるようになって来た。
今までは、遙か遙か高いところに光っているほどに思われた大人の世界は、自分等が見まいとしても見ずにはいられないほど、ついじきそこにある。
ただ、仔猫(こねこ)がじゃれるように遊び合っていた友達の中にも何か先(せん)には気の付かなかったいろいろなことが、珍らしい彼等の姿をチラチラと見え隠れさせる。
仕合わせに可愛がられ、正しさを奨励され、綺麗な物語りの中に育って、躊躇(ちゅうちょ)とか不安とかいうものをまるで知らなかった彼女は、自分の前へ限りもなく拡げられる、種々雑多な色と、形と音との世界に対して、まるで勇ましい探検者のように、飽くことのない興味と熱中とをもって、突き進んで行ったのである。
詳しく説明されるほどの豊富な内容は、もちろん持っていなかったにしろ、そう考えること自身が、もう既に無上の歓喜であり、憧憬である「立派な大人」という予想に鼓舞されながら、彼女は自分の囲りに起って来る、どんな些細な事物にでも注意を向けずには置かなかった。そして、それ等のことは一つ一つ皆丁寧に、彼女の心のうちで、「善いこと、正しいこと」という言葉で総括されている一つの道徳的標準と照らし合わされ、引きくらべられて、各自の価値をつけられる。
その価値は、即ち彼女の思っている「立派な人」の一分子として取り入れらるべきものであるか拒絶されるべきものであるかということなのである。
ところが、だんだんと立つうちに、彼女はまったく驚き、混乱せずにはいられないいろいろなことに出会い始めた。
赤という色は、それが赤であるかぎり、誰に見られても、どこに置かれても変りない赤であると思っていた者にとって、まったく同じその赤が、或るところでは、紫だと云われ黒だと云われ、もっとひどいときには、赤に違いない赤を見、見せながら、
これは、青ですね。
ええ、あなたがおっしゃるんだから青でしょう。青に違いありません。
と云うのを知ったことは、どれほどの意外さであり、また不快であったろう。
すべてのことを信頼し、尊重しようとして期待し、心を打ち開いていた彼女は、まったく思いもかけなかった厭なもの、悪いとほか思えないことを、事々物々の裏に、見出さなければならなかったのである。
そして、なおなお彼女の心を乱したことには、どんなにああ悪いと思うようなことも、皆決して、むき出しの悪いままではやって来ないことであった。
善さそうな声や、愛嬌のある微笑を湛えながら、それ等は優しいしとやかな姿を装うて来る。
彼女は自分の信じている人々――その人達はいつも善く正しいものだと許り思っていた人が――言葉とはまるで反対のことを平気でしているのを見た。
可哀そうがられるべきだと云われつつ、気の毒な人が堪らないような辱(はずか)しめを蒙らなければならないのを知った。
それ等のことに対して、彼女はいかほどの「感じ」を持っただろう。明かに矛盾を認める心、真正なことの裏切られる苦痛、適当な言葉を知らず、整った順序に並べることの出来るほど、複雑な頭脳を持っていなかった彼女は、何も彼にもただ感じるだけなのである。
ああ、そんなことをするものではない、彼女は黙っていられないような、感じに打たれる。そして、顔があつくなり、息の弾(はず)んで来るのを感じる。けれども、彼女はあなたのどこは、どう悪いからお止めなさいということは出来ない。
陽気な、疲れることなどをまるで知らないニムフの踊りの輪から、ようようぬけた彼は、涼しさを求めて、ズーッと橄欖(かんらん)の茂り合った丘を下り、野を越えて、一つの谿間(たにま)に入りました。そこはほんとに涼しくて、静かでした。岩や石の間には、夢のような苔や蘭の花が咲き満ちて、糸のように流れて行く水からは、すがすがしい香りが漂い、ゆらゆらと揺れる水草の根元を、針のように光る小魚が、嬉しそうに踊って行きます。
海にある通りの珊瑚(さんご)が、碧(あお)い水底に立派な宮殿を作り、その真中に、真珠のようなたくさんの泡に守られた、小さな小さな人魚が、紫色の髪をさやさやと坐っています。
なんという綺麗(きれい)なのでしょう。ユーラスは、すっかりびっくりしてしまいました。今まで、こんな様子を見たことのなかった彼は、まるで幻を見るような心持で、フラフラと水上の方へと歩いて行きました。
行けば行くほど広くなる谿は、いつの間にか、白楊や樫や、糸杉などがまるで、満潮時(みちしおどき)の大海のように繁って、その高浪の飛沫(しぶき)のように真白な巴旦杏(あめんどう)の花が咲きこぼれている盆地になりました。
そして、それ等の樹々の奥に、ジュピタアでもきっと御存じないに違いないほど、美くしい者を見つけたとき、ユーラスは、もう息もつけないような心持になりました。
天鵝絨(ビロード)のように生えた青草の上に、蛋白石(オパール)の台を置いて、腰をかけた、一人の乙女を囲んで、薔薇や鬱金香(チューリップ)の花が楽しそうにもたれ合い、小ざかしげな鹿や、鳩や金糸雀(カナリヤ)が、静かに待っています。
そして、台の左右には、まるで掌(てのひら)に乗れそうな体のお爺さんが二人、真赤な地に金糸で刺繍(ししゅう)をした着物を着、手には睡蓮(すいれん)の花を持って立っています。あたりには、龍涎香を千万箱も開けたような薫香に満ち、瑪瑙(めのう)や猫眼石に敷きつめられた川原には、白銀の葦(あし)が生え茂って、岩に踊った水が、五色のしぶきをあげるとき、それ等の葦は、まあ何という響を立てることでしょう。
胡蝶(こちょう)の翅(はね)を飾る、あの美くしい粉ばかりを綴ったように、日の光りぐあいでどんな色にでも見える衣を被って、渦巻く髪に真赤なてんとう虫を止らせている乙女は、やがてユーラスの見たこともないライアをとりあげました。
そして、七匹の青|蜘蛛(ぐも)が張りわたしている絃を掻き鳴らし始めると、二人のお爺さんは、睡蓮の花を静かに左や右に揺り、いっぱいに咲きこぼれている花々の蕋(ずい)からは、一人ずつの類もなく可愛らしい花の精が舞いながら現われて来ました。
目に見えない※毛(わたげ)を金色に輝やかせながら、喉を張って歌う乙女の歌について、森じゅうの木々の葉と草どもが、小波のように繰返しをつけて行く。花は舞う。草木は歌う。勢づいた流れの水は、旋律につれて躍(おど)り上り跳(は)ね上って、絶間ない霧で、天と地との間を七色に包む。
ありとあらゆるものが、魔法のような美くしいうちに、乙女の声は体の顫(ふる)える力と魅力をもって澄み上って行ったのです。
ユーラスは、半分夢中のようになりました。そして、いきなりその踊りの真中を目がけて踏み出そうとすると、今までは、なごやかに低唱していた樫の木精が、一どきに
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンローローワラーラー……と歌い出し、彼方の霧の底から、微かな
ハッハッハッ! ホッホッホッ! という声が高まって来ると一緒に、森じゅうの木という木の葉が、波のように白い葉裏を翻しながら、彼に向って泡立って来ました。
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンロー……
ハッハッハッ! ホッホッホッ!
ユーラスは、自分が神様だったのをすっかり忘れてしまって大いそぎで逃げ出しました。そして、また次の日にいくらその谿間に違いないところをさがしてみても、あの綺麗な小川さえ見つけることができませんでした……。
殆どあらゆる種類の伝説と童話とが酵母となって、彼女の生活のどこの隅々にまでも、渾然(こんぜん)と漲りわたっていた果もない夢幻的空想は、今ようようその気まぐれな精力と、奇怪な光彩とを失い、小さい宝杖を持ち宝冠を戴(いただ)いた王様や女王様、箒に乗って月に飛ぶ鼻まがりの魔法使いなどは、皆足音も立てずにどこかの国へ行ってしまった。
そして、面白いお噺(はなし)のこの上なく上手な話し手としての名誉と、矜恃(きょうじ)とを失った彼女は、渾沌(こんとん)とした頭に、何かの不調和を漠然と感じる十二の子供として、夢と現実の複雑な錯綜のうちに遺されたのである。
一面紫色にかすみわたる黎明の薄光が、いつか見えない端(は)し端(ば)しから明るんで、地は地の色を草は草自身の色をとり戻すように、彼女の周囲のあらゆる事物は、まったく「いつの間にか」彼等自身の色と形とをもって、ありのまま彼女の前に現われるようになって来た。
今までは、遙か遙か高いところに光っているほどに思われた大人の世界は、自分等が見まいとしても見ずにはいられないほど、ついじきそこにある。
ただ、仔猫(こねこ)がじゃれるように遊び合っていた友達の中にも何か先(せん)には気の付かなかったいろいろなことが、珍らしい彼等の姿をチラチラと見え隠れさせる。
仕合わせに可愛がられ、正しさを奨励され、綺麗な物語りの中に育って、躊躇(ちゅうちょ)とか不安とかいうものをまるで知らなかった彼女は、自分の前へ限りもなく拡げられる、種々雑多な色と、形と音との世界に対して、まるで勇ましい探検者のように、飽くことのない興味と熱中とをもって、突き進んで行ったのである。
詳しく説明されるほどの豊富な内容は、もちろん持っていなかったにしろ、そう考えること自身が、もう既に無上の歓喜であり、憧憬である「立派な大人」という予想に鼓舞されながら、彼女は自分の囲りに起って来る、どんな些細な事物にでも注意を向けずには置かなかった。そして、それ等のことは一つ一つ皆丁寧に、彼女の心のうちで、「善いこと、正しいこと」という言葉で総括されている一つの道徳的標準と照らし合わされ、引きくらべられて、各自の価値をつけられる。
その価値は、即ち彼女の思っている「立派な人」の一分子として取り入れらるべきものであるか拒絶されるべきものであるかということなのである。
ところが、だんだんと立つうちに、彼女はまったく驚き、混乱せずにはいられないいろいろなことに出会い始めた。
赤という色は、それが赤であるかぎり、誰に見られても、どこに置かれても変りない赤であると思っていた者にとって、まったく同じその赤が、或るところでは、紫だと云われ黒だと云われ、もっとひどいときには、赤に違いない赤を見、見せながら、
これは、青ですね。
ええ、あなたがおっしゃるんだから青でしょう。青に違いありません。
と云うのを知ったことは、どれほどの意外さであり、また不快であったろう。
すべてのことを信頼し、尊重しようとして期待し、心を打ち開いていた彼女は、まったく思いもかけなかった厭なもの、悪いとほか思えないことを、事々物々の裏に、見出さなければならなかったのである。
そして、なおなお彼女の心を乱したことには、どんなにああ悪いと思うようなことも、皆決して、むき出しの悪いままではやって来ないことであった。
善さそうな声や、愛嬌のある微笑を湛えながら、それ等は優しいしとやかな姿を装うて来る。
彼女は自分の信じている人々――その人達はいつも善く正しいものだと許り思っていた人が――言葉とはまるで反対のことを平気でしているのを見た。
可哀そうがられるべきだと云われつつ、気の毒な人が堪らないような辱(はずか)しめを蒙らなければならないのを知った。
それ等のことに対して、彼女はいかほどの「感じ」を持っただろう。明かに矛盾を認める心、真正なことの裏切られる苦痛、適当な言葉を知らず、整った順序に並べることの出来るほど、複雑な頭脳を持っていなかった彼女は、何も彼にもただ感じるだけなのである。
ああ、そんなことをするものではない、彼女は黙っていられないような、感じに打たれる。そして、顔があつくなり、息の弾(はず)んで来るのを感じる。けれども、彼女はあなたのどこは、どう悪いからお止めなさいということは出来ない。
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