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地水火風空 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 月清らかな初夏の夜、私はA老人と連れだって、弥生町の方から帝大の裏門をはいり、右へ折れて、正門の方へぬけようとした。二人とも可成り酔っていた。不忍池の蓮の花に、月の光が煙っているのを眺めながら、一杯傾けての帰りなのである。
 八角講堂の裏の、薄暗いだらだら坂を上りきって、ぱっと蒼白い月光の中に出た時、A老人突然立止って、私の肩を叩いた。
「どうだい、こうして眺めると、大学というものも悪くないね。」
 A老人が振向いた方を眺めると、辰野工学博士の傑作の一つとされてる工科大学建物が、中世紀風のシャトーの姿を、星屑の淡い夜空に、くっきり聳やかしている。全体が優雅に模糊として、頂のクレノーが厳めしい。
 ほほう、これはまた不思議だ……と私は思ったのである。頭髪半白な剽軽なA老人が、ゴシック式のシャトーを讃めようとは。
 だが、老人の眼は、よく見ると、工科大学建物の方へではなく、すぐ前の、こんもりと茂った木の下影の、何だか怪しい物に注がれていた。
「何を見ているんですか。」と私は尋ねた。
「何をだと……。」そして彼は私の顔をじっと見返した。「君は大学で何を学んだ。」
「何をって……。」
「いや、大学に幾日通った。」
 私はその変梃な問に、咄嗟には答えられなかった。
「はははは、変な顔をしているね。間抜けじゃないか。俗悪な銅像や石像が並んでる中に、万緑叢中紅一点という碑があるのを知らないのか。」
「へえー、紅一点……。」
「あれさ、よく見てごらん。」
 指差されたのは、紅一点どころか、怪しげな恰好の物だった。人の身長ほどの高さの、上に饅頭笠を被って、低い台の上に立っている。円い筒、川獺が化けるという坊主姿のような石の碑だった。それが、地面から七八本の幹になってこんもりと茂ってる冬青樹の下影の、八手や躑躅の茂みの間に、ぼんやりつっ立っている。
「あの碑ですか。」
「そうさ。大学中で一番面白い風流なものだ。知らなかったのか。迂濶だね。……碑の表と裏とがまた素敵だ。」
 私達は芝原の中に歩み入って、碑を眺めた。円柱南面には、長方形に削り取られた中に、もう磨滅しきった朧な仏の立像が、かすかにそれと見分けられる。北に廻ってみると、円柱の面にいきなり梵字で「キャ・カ・ラ・バ・ア」と五字刻んである、アの字の下半分が磨滅して、古色蒼然としている。キャカラバアと云えば、地水火風空の意味である。
「この碑の由来を知っているか。」
「知りません。」
「なに知らない。君は大学に三年も通って、何を学んだ。」
 私は反問した。
「じゃあ、この碑の由来を、あなたは御存じなんですか。」
「はははは、わしも知らない。」
 私は唖然とした。
 月の光が一面に降り注いでいた。その光の下のこんもりとした木影の中に、ぬっと立っている仏像梵字の碑が、怪しく私の頭に刻み込まれた。

 それは、私が大学卒業して四五年後の話である。
 それからやがて、大正十二年の大地震が起った。大学の中はめちゃくちゃになった。


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