坑夫 - 夏目 漱石 ( なつめ そうせき )
さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生(は)えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行(あるい)たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨(にら)めっ子(こ)をしている方が増しだ。
東京を立ったのは昨夕(ゆうべ)の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥(くたび)れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇(くらやみ)の神楽堂(かぐらどう)へ上(あが)ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚(さ)めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押(ひらお)しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精(せい)がない。
足はだいぶ重くなっている。膨(ふく)ら脛(はぎ)に小さい鉄の才槌(さいづち)を縛(しば)り附けたように足掻(あがき)に骨が折れる。袷(あわせ)の尻は無論|端折(はしお)ってある。その上|洋袴下(ズボンした)さえ穿(は)いていないのだから不断なら競走でもできる。が、こう松ばかりじゃ所詮(しょせん)敵(かな)わない。
掛茶屋がある。葭簀(よしず)の影から見ると粘土(ねばつち)のへっついに、錆(さび)た茶釜(ちゃがま)が掛かっている。床几(しょうぎ)が二尺ばかり往来へ食(は)み出した上から、二三足|草鞋(わらじ)がぶら下がって、袢天(はんてん)だか、どてらだか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。
休もうかな、廃(よ)そうかなと、通り掛りに横目で覗(のぞ)き込んで見たら、例の袢天とどてらの中(ちゅう)を行く男が突然こっちを向いた。煙草(たばこ)の脂(やに)で黒くなった歯を、厚い唇(くちびる)の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端(とたん)に、向うの顔は急に真面目(まじめ)になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出(で)っ喰(くわ)したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間(ま)もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据(す)えたまま、白眼(しろめ)の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額(ひたい)とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂(ひさし)を跨(また)いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降(さが)って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍(へそ)のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口(がまぐち)がある。三十二銭|這入(はい)っている。白い眼は久留米絣(くるめがすり)の上からこの蟇口を覘(ねら)ったまま、木綿(もめん)の兵児帯(へこおび)を乗り越してやっと股倉(またぐら)へ出た。股倉から下にあるものは空脛(からすね)ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食(く)ッ附(つ)いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕(あと)が黒くついた俎下駄(まないたげた)の台まで降(くだ)って行った。
こう書くと、何だか、長く一所(ひとところ)に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否(いな)や急に茶店へ休むのが厭(いや)になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々|覚束(おぼつか)なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵(こしら)えて、俎下駄を捩(ねじ)る間際(まぎわ)には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。がそれで滅法(めっぽう)早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいである。それにしても、ああ緩(ゆっ)くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹(ぱら)冷(ひや)かされて、さあ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙(ごめんこうぶ)りますと立ち上ったようなものだ。こっちは馬鹿気(ばかげ)ている。あっちは得意である。
歩き出してから五六間の間は変に腹が立った。しかし不愉快は五六間ですぐ消えてしまった。と思うとまた足が重くなった。――この足だもの。何しろ鉄の才槌(さいづち)を双方の足へ縛(しば)り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出来ないはずだ。
東京を立ったのは昨夕(ゆうべ)の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥(くたび)れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇(くらやみ)の神楽堂(かぐらどう)へ上(あが)ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚(さ)めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押(ひらお)しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精(せい)がない。
足はだいぶ重くなっている。膨(ふく)ら脛(はぎ)に小さい鉄の才槌(さいづち)を縛(しば)り附けたように足掻(あがき)に骨が折れる。袷(あわせ)の尻は無論|端折(はしお)ってある。その上|洋袴下(ズボンした)さえ穿(は)いていないのだから不断なら競走でもできる。が、こう松ばかりじゃ所詮(しょせん)敵(かな)わない。
掛茶屋がある。葭簀(よしず)の影から見ると粘土(ねばつち)のへっついに、錆(さび)た茶釜(ちゃがま)が掛かっている。床几(しょうぎ)が二尺ばかり往来へ食(は)み出した上から、二三足|草鞋(わらじ)がぶら下がって、袢天(はんてん)だか、どてらだか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。
休もうかな、廃(よ)そうかなと、通り掛りに横目で覗(のぞ)き込んで見たら、例の袢天とどてらの中(ちゅう)を行く男が突然こっちを向いた。煙草(たばこ)の脂(やに)で黒くなった歯を、厚い唇(くちびる)の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端(とたん)に、向うの顔は急に真面目(まじめ)になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出(で)っ喰(くわ)したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間(ま)もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据(す)えたまま、白眼(しろめ)の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額(ひたい)とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂(ひさし)を跨(また)いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降(さが)って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍(へそ)のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口(がまぐち)がある。三十二銭|這入(はい)っている。白い眼は久留米絣(くるめがすり)の上からこの蟇口を覘(ねら)ったまま、木綿(もめん)の兵児帯(へこおび)を乗り越してやっと股倉(またぐら)へ出た。股倉から下にあるものは空脛(からすね)ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食(く)ッ附(つ)いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕(あと)が黒くついた俎下駄(まないたげた)の台まで降(くだ)って行った。
こう書くと、何だか、長く一所(ひとところ)に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否(いな)や急に茶店へ休むのが厭(いや)になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々|覚束(おぼつか)なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵(こしら)えて、俎下駄を捩(ねじ)る間際(まぎわ)には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。がそれで滅法(めっぽう)早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいである。それにしても、ああ緩(ゆっ)くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹(ぱら)冷(ひや)かされて、さあ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙(ごめんこうぶ)りますと立ち上ったようなものだ。こっちは馬鹿気(ばかげ)ている。あっちは得意である。
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