夏 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )
一 デパートのの午後
街路のアスファルトの表面の温度が華氏の百度を越すような日の午後に大百貨店の中を歩いていると、私はドビュシーの「フォーヌの午後」を思いだす。一面に陳列された商品がさき盛った野の花のように見え、天井に回るファンの羽ばたきとうなりが蜜蜂を思わせ、行交(ゆきか)う人々が鹿のように鳥のようにまたニンフのように思われてくるのである。あらゆる人間的なるものが、暑さのために蒸発してしまって、夢のようなおとぎ話の世界が残っているという気がするのである。この夢の世界を逍遥している幾千人かのうちの幾プロセントかはまたおそらく単にこのフォーヌの夢を見るだけの目的で、あてもなく彷徨しているかもしれない。こういう意味でデパートメントストアは一つの公園であり民衆の散歩場である。そうして同時に博物館であり、百科辞典であり、また一種のユニヴァーシティであるのである。そうしてそれがそうであることによって、それは現代世相の索引でありまた縮図ともなっているのである。
食堂や写真部はもちろん、理髪店、ツーリスト・ビュロー、何でもある。近頃郵便局の出来たところもある。職業紹介所と結婚媒介所はいまだないようであるが、そのうちに出来てもよさそうなものである。今でも見合いのランデヴーには毎日のように利用されているくらいである。球戯場などもあっても差支(さしつか)えはない。
しかし百貨店の可能性がまだどれほど残されているかは未知数である。その一つの可能性として考えられるものは、軽便で安価な「知識の即売」である。法医工文理農あらゆる学問の小売部を設けることである。
親類に民事上の訴訟問題でも起りかかった場合に、われわれはある具体的の法律上の知識の概要を得ておきたくなる。そういう時に、もし百貨店で買物をした節に十分か十五分の時間と二円か三円の金を費やして要領を得ることが出来れば便利である。
わざわざ医者にかかるほどでもないちょっとしたできものを診てもらって適当な療法を教わったり、また病気であるかないか分らないようなからだの工合を話して意見を聞くようなことが、あたかも鉛筆一本、ハンケチ一枚買うように気軽に出来れば便利である。
家を建てようと思う人が自分の素人設計図を見せてまずい所を直してもらったり、ちょっとした器械でも買う場合に目的を話して適当なものを選定してもらわれれば好都合である。メロンを作ってみたいと思う人が自分の畑の適否を相談し、栽培法の要領を教われれば軽便である。
もう少し実用を離れた知識でもわれわれは時に自分の畑違いの事で一通りのことを心得ておきたい場合がある。書物を読めばいいとしたところで第一どういう本を読んでいいのかそれが分らない。そういう場合にもし百貨店で買物の節に軽便安直な知識を購入出来れば工合がいい。たとえば相対性原理とはどんな事か、マルキシズムとは何か、バロック芸術とは何、ベースボールとは何、ジャズとは何、そういうことが望みのままに早分りがすれば甚だ便利であり、また時代に適応する所以(ゆえん)であるかもしれない。
現代に隆盛を極めている各方面の通俗的な雑誌はこういう安価で軽便な皮相的な知識を汽車弁当のおかずのごとく詰め込んであるが、ただ自分のちょうど欲しいと思うものを自分の欲しい時に手にいれようとするには不便である。それには百貨店に私のこの提案が採用されると便利であろう。
これらの「知識の売子」にはそう大したえらい本当の学者は入用はないのみならず、かえって甚だ厄介でかつ不都合であろう。この選定はむしろ百貨店の支配人に一任すればよい。
某百貨店の入口の噴水の傍の椰子(やし)の葉蔭のベンチに腰かけてうっとりしているうちに、私はこんな他愛もない夢を見ていたのである。(昭和四年八月『東京朝日新聞』)
二 地図をたどる
暑い汽車に乗って遠方へ出かけ、わざわざ不便で窮屈な間に合せの生活を求めに行くよりも、馴れた自分の家にゆっくり落着いて心とからだの安静を保つのが自分にはいちばん涼しい銷夏(しょうか)法である。
日中の暑い盛りにはやはり暑いには相違ない。しかし何か興味のある仕事に没頭することが出来れば暑さを忘れてしまうことは容易である。それにはあまり頭も苦しめなくて、ただ器械的に仕事を進めて行くうちに自ずから興味の泌み出して来るようなことが適当である。例えばある年の夏は江戸時代の大火の記録をその時代の地図と較べながら焼失区域図を作って過ごした。仕事はある意味では器械的であるが一つ一つの記録を読んで行くうちに昔の江戸の生活が、小説や歴史の書物で見るよりも遥かに如実(にょじつ)に窺(うかが)われて実に面白かった。昔の地図と今の電車線路入りの地図と較べているうちに色々のことを発見して独りで面白がることも出来た。
今年はある目的があって、陸地測量部五万分一地形図を一枚一枚調べて河川の流路を青鉛筆で記入し、また山岳地方のいわゆる変形地を赤鉛筆で記入することをやっている。河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷(けいこく)を遡上(さかのぼ)って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃(ゆうすい)な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次第にたどって行くといつの間にか思わぬ国の思わぬ里に出て行く。
去年の夏は研究所で油の蒸餾(じょうりゅう)に関する実験をやった。ブンゼン燈のバリバリと音を立てて吹き付ける焔の輻射(ふくしゃ)をワイシャツの胸に受けながらフラスコの口から滴下する綺麗な宝石のような油滴を眺めているのは少しも暑いものではなかった。
夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。
夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた現われる。大きな蛾(が)がいくつとなくとんで来て垣根の烏瓜(からすうり)の花をせせる。やはり夜の神秘な感じは夏の夜に尽きるようである。
(昭和五年七月『大阪朝日新聞』)
三 暑さの過去帳
少年時代に昆虫標本の採集をしたことがある。夏休みは標本採集の書きいれ時なので、毎日捕虫網を肩にして旧城跡の公園に出かけたものである。南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。
食堂や写真部はもちろん、理髪店、ツーリスト・ビュロー、何でもある。近頃郵便局の出来たところもある。職業紹介所と結婚媒介所はいまだないようであるが、そのうちに出来てもよさそうなものである。今でも見合いのランデヴーには毎日のように利用されているくらいである。球戯場などもあっても差支(さしつか)えはない。
しかし百貨店の可能性がまだどれほど残されているかは未知数である。その一つの可能性として考えられるものは、軽便で安価な「知識の即売」である。法医工文理農あらゆる学問の小売部を設けることである。
親類に民事上の訴訟問題でも起りかかった場合に、われわれはある具体的の法律上の知識の概要を得ておきたくなる。そういう時に、もし百貨店で買物をした節に十分か十五分の時間と二円か三円の金を費やして要領を得ることが出来れば便利である。
わざわざ医者にかかるほどでもないちょっとしたできものを診てもらって適当な療法を教わったり、また病気であるかないか分らないようなからだの工合を話して意見を聞くようなことが、あたかも鉛筆一本、ハンケチ一枚買うように気軽に出来れば便利である。
家を建てようと思う人が自分の素人設計図を見せてまずい所を直してもらったり、ちょっとした器械でも買う場合に目的を話して適当なものを選定してもらわれれば好都合である。メロンを作ってみたいと思う人が自分の畑の適否を相談し、栽培法の要領を教われれば軽便である。
もう少し実用を離れた知識でもわれわれは時に自分の畑違いの事で一通りのことを心得ておきたい場合がある。書物を読めばいいとしたところで第一どういう本を読んでいいのかそれが分らない。そういう場合にもし百貨店で買物の節に軽便安直な知識を購入出来れば工合がいい。たとえば相対性原理とはどんな事か、マルキシズムとは何か、バロック芸術とは何、ベースボールとは何、ジャズとは何、そういうことが望みのままに早分りがすれば甚だ便利であり、また時代に適応する所以(ゆえん)であるかもしれない。
現代に隆盛を極めている各方面の通俗的な雑誌はこういう安価で軽便な皮相的な知識を汽車弁当のおかずのごとく詰め込んであるが、ただ自分のちょうど欲しいと思うものを自分の欲しい時に手にいれようとするには不便である。それには百貨店に私のこの提案が採用されると便利であろう。
これらの「知識の売子」にはそう大したえらい本当の学者は入用はないのみならず、かえって甚だ厄介でかつ不都合であろう。この選定はむしろ百貨店の支配人に一任すればよい。
某百貨店の入口の噴水の傍の椰子(やし)の葉蔭のベンチに腰かけてうっとりしているうちに、私はこんな他愛もない夢を見ていたのである。(昭和四年八月『東京朝日新聞』)
二 地図をたどる
暑い汽車に乗って遠方へ出かけ、わざわざ不便で窮屈な間に合せの生活を求めに行くよりも、馴れた自分の家にゆっくり落着いて心とからだの安静を保つのが自分にはいちばん涼しい銷夏(しょうか)法である。
日中の暑い盛りにはやはり暑いには相違ない。しかし何か興味のある仕事に没頭することが出来れば暑さを忘れてしまうことは容易である。それにはあまり頭も苦しめなくて、ただ器械的に仕事を進めて行くうちに自ずから興味の泌み出して来るようなことが適当である。例えばある年の夏は江戸時代の大火の記録をその時代の地図と較べながら焼失区域図を作って過ごした。仕事はある意味では器械的であるが一つ一つの記録を読んで行くうちに昔の江戸の生活が、小説や歴史の書物で見るよりも遥かに如実(にょじつ)に窺(うかが)われて実に面白かった。昔の地図と今の電車線路入りの地図と較べているうちに色々のことを発見して独りで面白がることも出来た。
今年はある目的があって、陸地測量部五万分一地形図を一枚一枚調べて河川の流路を青鉛筆で記入し、また山岳地方のいわゆる変形地を赤鉛筆で記入することをやっている。河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷(けいこく)を遡上(さかのぼ)って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃(ゆうすい)な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次第にたどって行くといつの間にか思わぬ国の思わぬ里に出て行く。
去年の夏は研究所で油の蒸餾(じょうりゅう)に関する実験をやった。ブンゼン燈のバリバリと音を立てて吹き付ける焔の輻射(ふくしゃ)をワイシャツの胸に受けながらフラスコの口から滴下する綺麗な宝石のような油滴を眺めているのは少しも暑いものではなかった。
夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。
夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた現われる。大きな蛾(が)がいくつとなくとんで来て垣根の烏瓜(からすうり)の花をせせる。やはり夜の神秘な感じは夏の夜に尽きるようである。
(昭和五年七月『大阪朝日新聞』)
三 暑さの過去帳
少年時代に昆虫標本の採集をしたことがある。夏休みは標本採集の書きいれ時なので、毎日捕虫網を肩にして旧城跡の公園に出かけたものである。南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。
寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) 以外のオススメ作品
夏 (なつ) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%E5%86%99%E7%9C%9F%E9%83%A8
- http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=41&chartype=&q=%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6+%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87&ck=andsrch_u1_az
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%89%c4%89M&sid=B01
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=2&key=%83G%83b%83%60+wiki%95S%89%c8%8e%ab%93T&fid=5
- [[ezweb]] 暗い茂みの中でエッチ
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/mobilesite/list?p=%96%A8%96I%20%B1%B2%DD%BC%AD%C0%B2%DD
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/mobilesite/list?p=%97%F6%95P%96%B2%91z%93%AE%89%E6&b=6&trans=1
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/onesearch?p=%8bT%97%9c%98a%96%e7+%89%c4%82%cc%8fI%82%ed%82%e8+%8c%b4%8b%c8&fr=m_top_e
- [[Yahoo]] 今年の夏の暑さ Wikipedia
- [[Yahoo]] 寺田寅彦歴史小説
「夏-寺田 寅彦」の関連ページ
-
n1 - wiki ku - wiki ku
20100118寺田寅彦 どんぐり 子猫 の言葉吻合(ふんごう)とは、外科手術における手技の一つで、血管と血管や神経と神経をつないだりすること。また、複数 -
リンク - 本と猫 - 本と猫
県春日部市の伝統工芸、張子人形のお店。縁起物や節句人形、絵画など自由奔放な創作活動を展開されています。楽しい絵付け教室も開催されています。★高知県立文学館「寺田寅彦記念室」・「宮尾文学の世界」他、高知 -
問題ページ18 - pmmo@wiki - pmmo@wiki
を指していないものはどれ? →烏賊燃料として用いられる石炭は、何が変化して出来た物質? →植物天災は忘れたころにやってくる →寺田寅彦1891年に -
テーマ①参加作品 - MMD杯@wiki - MMD杯@wiki
【夏】 -
指定品履歴 - ボーダー裁縫献上部隊1213 - ボーダー裁縫献上部隊1213
太字は発展・維持のために投入したアイテムです。 + ... 年 季節 Lv % 1000P 300P 50P 1300 春 夏 -
怪物選手 - ニセホシ★大甲子園リーグwiki - ニセホシ★大甲子園リーグwiki
? ? ? ? ? ★米田〇也 styx学院 5 ? ? ? ? ? ★桑〇真澄 MaskedRiders学園 11 1.04 1692 288 69 163 防御(12夏),勝利(12夏 -
ザスパ草津 - jwe2008cc @ ウィキ - jwe2008cc @ ウィキ
本拠地:群馬県草津町、前橋市を中心とする全県 スタジアム:正田醤油スタジアム群馬(10,050人) オフィシャルサイト:http//www.thespa.co.jp/ Ps 08 夏 09 -
本選テーマ①参加作品 - MMD杯@wiki - MMD杯@wiki
【夏】 -
地図1/石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
36/17/25.8,136/38/43.032 -
Only One - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:奥井雅美作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Key:寺田志保Bass:山本直哉Strings:小池弘之グループSynth:栗山善親収録Battle No Limit!JAM
