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夜行巡査 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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       一 「こう爺(じい)さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼(わかもの)は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸(か)けたり。車夫の老人は年紀(とし)すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、
「どうぞまっぴら御免なすって、向後(こうご)きっと気を着けまする。へいへい」
 と、どぎまぎして慌(あわ)ておれり。
爺さん慌てなさんな。こう己(おり)ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂(い)やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪(すこかんしゃく)に障(さわ)って堪(こた)えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装(みなり)が悪いとって咎(とが)めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損(しぞこな)いでもしなすったのか、ええ、爺さん
 問われて老車夫は吐息をつき、
「へい、まことにびっくりいたしました。巡査(おまわり)さんに咎められましたのは、親父(おやじ)今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人|心地(ごこち)もござりませなんだ。いやもうから意気地(いくじ)がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引(ももひ)きが破れまして、膝(ひざ)から下が露出(むきだ)しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚(わめ)かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」
 壮佼はしきりに頷(うなず)けり。
「むむ、そうだろう。気の小さい維新前(むかし)の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱(かか)え車(ぐるま)じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿(は)きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯(ちょうちん)より見っこのねえ闇夜(やみ)だろうじゃねえか、風俗糸瓜(へちま)もあるもんか。うぬが商売寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉(かんがらす)め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処(ところ)なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠(ふんどし)で相撲(すもう)を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車(くるま)を曳(ひ)くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩(ふくろだた)きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨(かも)のあしらいにしてやらあ」
 口を極(きわ)めてすでに立ち去りたる巡査を罵(ののし)り、満腔(まんこう)の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦(さす)りしが、四谷組合と記(しる)したる煤(すす)け提灯(ちょうちん)の蝋燭(ろうそく)を今継ぎ足して、力なげに梶棒(かじぼう)を取り上ぐる老車夫の風采(ふうさい)を見て、壮佼(わかもの)は打ち悄(しお)るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人(かせぎて)はおめえばかりか、孫子はねえのかい」
 優しく謂(い)われて、老車夫は涙ぐみぬ。
「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼(かせ)いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火(あんか)を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計(くらし)が立ちかねますので、蛙(かえる)の子は蛙になる、親仁(おやじ)ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀(とし)は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車(くるま)をこうやって曳(ひ)きますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子も揃(そろ)ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然|装(なり)なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査(おまわり)さんに、はい、お手数を懸(か)けるようにもなりまする」
 いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方(ひとかた)ならず心を動かし、
爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子(むすこ)が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠(こ)めて隙(ひま)あ潰(つぶ)さした埋め合わせに、酒代(さかて)でもふんだくってやればいいに」
「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯(き)き入れがござりませんので」
 壮佼はますます憤りひとしお憐(あわ)れみて、
「なんという木念人(ぼくねんじん)だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩(あゆ)びねえ。股火鉢(またひばち)で五合(ごんつく)とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴(つか)めえて、剣突(けんつく)もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指(さ)してみろ、今じゃおいらが後見だ」
 憤慨と、軽侮と、怨恨(えんこん)とを満たしたる、視線の赴くところ、麹(こうじ)町一番町英国公使館土塀(どべい)のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜(あんや)に怪獣の眼(まなこ)のごとし。

       二

 公使館のあたりを行くその怪獣八田義延(はったよしのぶ)という巡査なり。渠(かれ)は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町(なにがしまち)の交番を発し、一時間交替巡回の途に就(つ)けるなりき。
 その歩行(あゆむ)や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩(おそ)からず、早からず、着々歩を進めて路(みち)を行くに、身体(からだ)はきっとして立ちて左右に寸毫(すんごう)も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。
 制帽の庇(ひさし)の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
 渠は左右のものを見、上下のものを視(なが)むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉(ふ)ることをせざれども、瞳(ひとみ)は自在回転して、随意にその用を弁ずるなり。
 されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端(ほりばた)の芝生(しばふ)の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇(くちなわ)の這(は)えるがごとき人の踏みしだきたる痕(あと)を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射(さ)せること、その門前なる二|柱(ちゅう)のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋(わらじ)の片足の、霜に凍(い)て附(つ)きて堅くなりたること、路傍(みちばた)にすくすくと立ち併(なら)べる枯れ柳の、一陣の北風に颯(さ)と音していっせいに南に靡(なび)くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷(いちる)の煙の立ち騰(のぼ)ること等、およそ這般(このはん)のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免(のが)るることを得ざりしなり。
 しかも渠は交番を出(い)でて、路に一個の老車夫を叱責(しっせき)し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後(うしろ)を振り返りしことあらず。
 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後(うしろ)には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼(まなこ)に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
 兇徒(きょうと)あり、白刃を揮(ふる)いて背後(うしろ)より渠を刺さんか、巡査はその呼吸(いき)の根の留まらんまでは、背後(うしろ)に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼(まなこ)の観察一度達したるところには、たとい藕糸(ぐうし)の孔中といえども一点の懸念をだに遺(のこ)しおかざるを信ずるによれり。
 ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々(ゆうゆう)としてただ前途のみを志すを得(う)るなりけり。
 その靴(くつ)は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音(きょうおん)を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木(かぶき)門の下に踞(うずく)まれる物体ありて、わが跫音(あしおと)に蠢(うごめ)けるを、例の眼にてきっと見たり。
 八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々(やつやつ)しき婦人(おんな)なりき。
 一個(ひとり)の幼児(おさなご)を抱きたるが、夜深(よふ)けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊(し)め、着たる襤褸(らんる)の綿入れを衾(ふすま)となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。


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