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夜釣 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 12』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 1』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 ★ 豪華版 日本現代文学全集 泉鏡花集 ★ 講談社
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 6』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集』 限定版 恩地孝四郎装幀 著者落款入 函
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 5』 (ちくま文庫)
  • 古書「名著複刻全集 日本橋 泉鏡花」
  • 日本幻想文学集成 1 泉鏡花 須永朝彦編 梅木英治
  • 図録★番町の家・慶応義塾図書館所蔵泉鏡花遺品展★09年
  • 泉鏡花賞受賞 柳美里「フルハウス」初版
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 これは、大工、大勝(だいかつ)のおかみさんから聞いた話である。  牛込築土(うしごめつくど)前の、此の大勝棟梁のうちへ出入りをする、一寸(ちょっと)使へる、岩次(いわじ)と云つて、女房持、小児(こども)の二人あるのが居た。飲む、買ふ、摶(ぶ)つ、道楽は少(すこし)もないが、たゞ性来の釣好きであつた。
 またそれだけに釣がうまい。素人(しろと)にはむづかしいといふ、鰻釣の糸捌(いとさば)きは中でも得意で、一晩出掛けると、湿地蚯蚓(みみず)を穿(ほ)るほど一かゞりにあげて来る。
棟梁二百目が三ぼんだ。」
 大勝の台所口へのらりと投込むなぞは珍しくなかつた。
 が、女房は、まだ若いのに、後生願ひで、おそろしく岩さんの殺生を気にして居た。
 霜月(しもつき)の末頃である。一晩、陽気違ひの生暖い風が吹いて、むつと雲が蒸して、火鉢の傍(そば)だと半纏(はんてん)は脱ぎたいまでに、悪汗(わるあせ)が浸(にじ)むやうな、其暮方だつた。岩さんが仕事場から――行願寺(ぎょうがんじ)内にあつた、――路次うらの長屋へ帰つて来ると、何か、ものにそゝられたやうに、頻(しきり)に気の急(せ)く様子で、いつもの銭湯にも行かず、ざく/″\と茶漬で済まして、一寸友だちの許(とこ)へ、と云つて家を出た。
 留守には風が吹募る。戸障子ががた/\鳴る。引窓がばた/\と暗い口を開(あ)く。空模様は、その癖(くせ)、星が晃々(きらきら)して、澄切つて居ながら、風は尋常ならず乱れて、時々むく/\と古綿を積んだ灰色の雲が湧上がる。とぽつりと降る。降るかと思ふと、颯(さっ)と又|暴(あら)びた風で吹払ふ。
 次第に夜が更けるに従つて、何時か真暗に凄くなつた。
 女房は、幾度も戸口へ立つた。路地を、行願寺の門の外までも出て、通(とおり)の前後を瞰(みまわ)した。人通りも、もうなくなる。……釣には行つても、めつたにあけた事のない男だから、余計に気に懸けて帰りを待つのに。――小児(こども)たちが、また悪く暖(あたたか)いので寝苦しいか、変に二人とも寝そびれて、踏脱(ふみぬ)ぐ、泣き出す、着せかける、賺(すか)す。で、女房は一夜まんじりともせず、烏(からす)の声を聞いたさうである。
 然(さ)まで案ずる事はあるまい。交際(つれあい)のありがちな稼業の事、途中友だちに誘はれて、新宿あたりへぐれたのだ、と然(そ)う思へば済むのであるから。
 言ふまでもなく、宵のうちは、いつもの釣りだと察して居た。内から棹なんぞ……鈎(はり)も糸も忍ばしては出なかつたが――それは女房が頻(しきり)に殺生留める処から、つい面倒さに、近所の車屋、床屋などに預けて置いて、そこから内證で支度して、道具を持つて出掛ける事も、女房が薄々知つて居たのである。
 処が、一夜あけて、昼に成つても帰らない。不断そんなしだらでない岩さんだけに、女房は人一倍心配し出した。
 さあ、気に成ると心配は胸へ滝の落ちるやうで、――帯(おび)引占(ひきし)めて夫の……といふ急(せ)き心で、昨夜待ち明した寝みだれ髪を、黄楊(つげ)の鬢櫛(びんくし)で掻き上げながら、その大勝(だいかつ)のうちはもとより、慌だしく、方々心当りを探し廻つた。が、何処(どこ)にも居ないし、誰も知らぬ。
 やがて日の暮(くれ)るまで尋ねあぐんで、――夜あかしの茶飯(ちゃめし)あんかけの出る時刻――神楽坂下(かぐらさかした)、あの牛込見附で、顔馴染だつた茶飯屋に聞くと、其処(そこ)で……覚束ないながら一寸当りが着いたのである。
「岩さんは、……然うですね、――昨夜(ゆうべ)十二時頃でもございましたらうか、一人で来なすつて――とう/\降り出しやがつた。こいつは大降(おおぶ)りに成らなけりやいゝがッて、空を見ながら、おかはりをなすつたけ。ポツリ/\降つたばかり。すぐに降りやんだものですから、可塩梅(いいあんばい)だ、と然う云つてね、また、お前さん、すた/\駆出して行きなすつたよ。……へい、えゝ、お一人。――他にや其の時お友達は誰も居ずさ。――変に陰気で不気味な晩でございました。ちやうど来なすつた時、目白の九つを聞きましたが、いつもの八つごろほど寂莫(ひっそり)して、びゆう/\風ばかりさ、おかみさん。」
 せめても、此(これ)だけを心遣りに、女房は、小児(こども)たちに、まだ晩の御飯にもしなかつたので、阪(さか)を駆け上がるやうにして、急いで行願寺内へ帰ると、路次口に、四つになる女の児と、五つの男の児と、廂合(ひあわい)の星の影に立つて居た。
 顔を見るなり、女房が、
「父(おとっ)さんは帰つたかい。」
 と笑顔して、いそ/\して、優しく云つた。――何が什(ど)うしても、「帰つた。」と言はせるやうにして聞いたのである。
 不可(いけな)い。……
「うゝん、帰りやしない。」
「帰らないわ。」
 と女の児が拗ねでもしたやうに言つた。


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