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大菩薩峠 13 如法闇夜の巻 - 中里 介山 ( なかざと かいざん )

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大菩薩峠 如法闇夜の巻          一  お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。  能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして絨氈(じゅうたん)のようなものが敷き詰められてありました。
 その広い室の中央と片隅とに卓子(テーブル)が置かれて、その周囲には椅子が置かれて、四方には明るく窓が切ってあります。
 長押(なげし)の上や壁の間には、いくつもの額が掲げられてありますが、どの額も、軍艦大砲やまた見慣れない風景建築図案であります。それから書棚には多くの書物があります。その書物には洋式の書物が特にめだっているのみならず、書棚の隅や、本箱の上、また別に棚を作って、見慣れないさまざまの武器の実物と模型とが、無数に陳列されてあります。
 さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲模型として順序よく並べられてありました。
 旧来の屋敷を、こんなに能登守が好み建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。
 その卓子(テーブル)の近くの椅子の上へ腰をかけてよいのだか、また絨氈の上へ坐らねば失礼であるのだか、それさえお君にはわかりませんで、案内のあとに隠れてただポーッとして立ち竦(すく)んでしまったようです。能登守はその時、片隅の椅子腰かけて卓子に向っていました。
 黒羅紗(くろらしゃ)の筒袖陣羽織を着て野袴を穿(は)いていました。門番足軽が言った通り、今まで調練の指図(さしず)をしていたのが、それが済んでからここへ来て、書物を開いて何か書いているのでありましょう。その書物は、やはり見慣れない文字書物であります。それを見慣れた文字書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が活々(いきいき)として、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて莞爾(かんじ)とした面(おもて)には、懐しいものがあります。
「はい」
 お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの懸念(けねん)で、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。
 駒井能登守は和蘭(オランダ)から渡った砲術書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな卓子(テーブル)の方へ進んで、
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
 能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分椅子に凭(よ)りました。お君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
 やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない
能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
 お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の一言(ひとこと)は、それとは全く異(ちが)った心でお君の胸を騒がせました。
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、そのようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審
 能登守は美しい面(おもて)を少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
 お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお請(う)けをするとしないとに拘(かかわ)らず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当ったのはお銀様のことであります。あ、それではお銀様の仕業(しわざ)と、すぐにこう感づいてしまいました。
 殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様言葉薔薇(ばら)のような甘い香と鋭い棘(とげ)とが、ふたつながら含まれていたのも漸くわかってくると、お君は我知らずポーッと上気してまたも面(かお)が真赤になりました。そうして、お銀様の仕打ちが憎らしくなってたまりませんでした。
「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」
 お君は自分冤罪(えんざい)を申し開きするような態度でこう言いました。
 お君が、自分冤罪を主張するように熱心になったのを、能登守は意外に思いました。
「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」
と言いました。
「左様でございましょうか知ら」
とお君が本意(ほい)ないように言いました。
「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」
能登守は頼むように優しい言い方であります。
「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」
とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。
「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」
 お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。


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