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大菩薩峠 15 慢心和尚の巻 - 中里 介山 ( なかざと かいざん )

  • 初版★大菩薩峠★中里介山著★春秋社★大正14★古書
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大菩薩峠 慢心和尚の巻          一  お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。 「某(それがし)は高坂弾正(かうさかだんじやう)と申して、信玄公|被管(ひくわん)の内にて一の臆病者也、仔細は下々(しもじも)にて童子(わらべこ)どものざれごとに、保科(ほしな)弾正|鑓(やり)弾正高坂弾正|逃(にげ)弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅(かすがおほすみ)とて……」  それは巻の二の品(ほん)の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。
 竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了(おわ)って第七にかかろうとする時分に、
有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
 二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様書物疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪(たけやぶ)があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿(つばき)の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
 柱に凭(もた)れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
 お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄(もてあそ)ぶようにしていました。
「たあいもない」
 竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
 さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家居間にあるような、一輪差しの花活(はないけ)も何もありません。
「お銀」
 竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己(おの)が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
 お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
 けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
 お銀様は椿の花を面(かお)に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
 お銀様クルクルと、椿の花を指先で操(あやつ)りました。
 竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。
「生けておきたいけれども、何もございませんもの」
 お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、持余(もてあま)し気味になってみると、そこがこの花の自然の納まり場所であるらしい。
 お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の位牌(いはい)がたった一つだけ、薄暗いところに安置されてあるのを見ました。位牌が古くないだけにその文字も、骨を折らずに読むことができます。
悪女大姉(あくじょだいし)」
と読んでお銀様は、手に持っていた椿の花を取落しました。
悪女大姉」の戒名(かいみょう)は、尋常戒名ではありません。
 不貞の女をもなお且つ貞女にし、不孝の子をもなお孝子として、彼方(あなた)の世界へ送るのが人情でもあり、回向(えこう)でもあるべきに、これはあまりに執念(しゅうねん)の残る戒名であります。
 何の怨みあってその近親の人が、この位牌を祀(まつ)るのだかその気が知れないと思いました。また何の意趣があって、引導坊さんがこの戒名を択(えら)んだのだか、その気も知れないと思いました。
 それがお銀様にとっては、単に文字の示す悪い意味不快な感じだけでは留まりませんでした。悪女! お銀様はむらむらとして、ここにまで自分を見せつけられる憤(いきどお)りから忍ぶことができないもののようです。けれども、この位牌はお銀様に見せつけるために置かれたものでないことは、その木の肌を見ても、墨の色を見てもわかることであります。
 お銀様がここへ来るずっと前から、たった一つ、こうしてここに置かれてあったのだということも、いかに逞(たくま)しい邪推を以て見てもそれは疑えないのであります。
 お銀様は、悪女文字から来る不快と悪感(おかん)とをこらえて、そのことは竜之助に向って一言も言いません。せっかくの椿の花を拾い上げて、わざと後向きに花立差して、仏壇の扉を締めてしまいました。
 その晩のこと、お銀様は竜之助を慰めるために話の種の一つとして、ふと、このことを言い出す気になって、
「そこにお仏壇がありまする、その中に、妙な戒名を書いたお位牌がたった一つだけ入れてありました、何のつもりで、あんな戒名をつけたのだか、わたしにはどうしてもわかりませぬ」
「何という戒名
悪女大姉というのでございます」
悪女大姉? どういう文字が書いてあります」
「悪というのは善悪の悪でございます、女というのは女という字」
「なるほど、悪女大姉、それは妙な戒名じゃ」
「ほんとにいやな戒名ではござんせぬか」
戒名には、つとめて有難がりそうな文字をつけるのに」
「それが悪女とはどうでございます、死んだ後まで、悪女位牌に書かれる女は、よほどの悪いことをしたのでございましょう」
「誰かの悪戯(いたずら)だろう」
「いいえ、そうではございませぬ、立派位牌にその通り記(しる)してあるのでございます」
「はて」
「もしわが子ならば親が無言(だま)ってはおりますまい、妻ならば夫たる人が、悪女戒名をつけられて無言(だま)っていよう道理がございませぬ」
「どうも解(げ)せぬ、読み違えではないか」
「いいえ」
「その悪女の悪という字が、たとえば慈とか悲とかいう文字が、墨のかげんでそう見えるのではないか」
「そうではございませぬ」
「慈女大姉、悲女大姉、その辺ならばありそうな戒名だが、好んで悪女と附ける者はなかろう、それは御身の読み違えに相違ない」
「いいえ、確かに」
 お銀様は、確かに自分の眼の間違いでないことを主張したけれども、そう言われてみると、懸念(けねん)が起りました。
「そんならば、もう一度見て参りましょう」
 お銀様はそれを曖昧(あいまい)に済ますことができない性質(たち)です。立って仏壇をあけて見ましたけれども、仏壇の中は暗くありました。
「それごらんあそばせ、悪女
 取り出してよいものか悪いものか懸念をしながら、お銀様は自説の誤らないことを保証するために、行燈の光までその位牌を持ち出しました。
「確かに悪女? そうして裏には……」
 竜之助に言われて、お銀様位牌の裏を返して見ると、そこには「二十一、酉(とり)の女」と記してありました。

 その翌朝、竜之助は、お銀様に手を引かれて、小泉家の裏山へ上りました。
 径(こみち)を辿(たど)って丘陵の上まで来ると、そこに思いがけなく墓地がありました。林に囲まれた芝地の広い間には、多くの石塔といくつかの土饅頭(どまんじゅう)が築かれてありました。墓地ではあったけれども、そこは日当りがよくて眺めがよい。そこから眺めると目の下に、笛吹川沿岸の峡東(こうとう)の村々が手に取るように見えます。その笛吹川沿岸の村々を隔てて、甲武信(こぶし)ケ岳(たけ)から例の大菩薩嶺、小金沢笹子御坂(みさか)、富士の方までが、前面に大屏風(おおびょうぶ)をめぐらしたように重なっています。それらの山々は雲を被(かぶ)っているのもあれば、雪をいただいているのもあります。


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