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大菩薩峠 16 道庵と鯔八の巻 - 中里 介山 ( なかざと かいざん )

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大菩薩峠 道庵と鰡八の巻          一  下谷長者町の道庵先生がこの頃、何か気に入らないことがあってプンプン怒っています。  その気に入らないことを、よく尋ねてみるとなるほどと思われることもあります。それは道庵先生のすぐ隣の屋敷地面を買いつぶして、贅沢(ぜいたく)な普請(ふしん)をはじめたものがあるのであります。道庵先生ほどのものが、他人の普請を嫉(ねた)むということはありません。その普請が出来上るまでは、先生は更に頓着をしませんでしたけれども、いよいよ出来上って、その事情が知れた時に、先生非常に憤慨してしまいました。その普請というのは、そのころ有名な鰡八大尽(ぼらはちだいじん)というものの妾宅なのであります。
 鰡八大尽というのは、その頃の成金筆頭でありました。みすぼらしい棒手振(ぼてふり)から仕上げて、今日ではその名を知らないもののないほどの大尽であります。それは国内に聞えた大尽であるのみならず、外国人を相手に手広い商売をしました。糸の取引をしたり、唐物(とうぶつ)の輸入をしたり、金銀の口銭(こうせん)を取ったり、その富の力の盛んなことは、外国までも響き渡るほどの大尽でありました。
「おれの隣へ来たのは鰡八の野郎か、それとは知らなかった、口惜(くや)しい」
 道庵先生は、それと知った時に歯噛(はが)みをしたけれど、もう追附きません。
 その妾宅が出来上ると盛んなる披露の式がありました。集まる者、朝野の名流というほどでもなかったけれど、多種多様の人が集まって、万歳の声が湧くようでありました。それを聞いて道庵先生は、火のように怒ってしまいました。その後とても、毎日毎日、鰡八大尽の妾宅へ詰めかける朝野の名流(?)は少ない数ではありませんでした。その門前の賑やかなことは長者町はじまって以来の景気であります。ところが道庵先生の方は、相変らずの十八文でありました。その門を叩く人も十八文に準じた人で、朝野の名流などはあまり集まらないのであります。
 今まで十八文で売っていた道庵先生長者町といえば酔っぱらいの道庵先生と受取られるほどの名物であった先生が、鰡八大尽(ぼらはちだいじん)の妾宅が出来てからというものは、その名物の株を奪われそうになったのであります。道庵先生が憤慨するのも道理がないわけではありません。鰡八大尽の方とても、ことさらに道庵先生の隣を選んで普請をはじめたわけではなかろうけれど、偶然にそうなったことがおかしなものでありました。ことに門が崩れ、塀が破れ、家が傾いた先生屋敷の地境(じざかい)へ持って行って、宮殿を見るような大きな建築が湧き出し、その楼上で朝野の名流だの、絶世の美人だのが豪華を極めるところを、道庵先生が、縁側薬草などを乾かしながら見上げている心持は、どんなものでありましょう。
「いまに見ていやがれ、鰡八の野郎、ヒデエ目に逢わしてやるから」
 道庵先生は、こんなわけで、このごろはプンプン怒っているのでありました。
 鰡八大尽の方では、こんなわけで、道庵先生を敵に持ったことはいっこう知りませんでした。大尽がその高楼の上から、先生屋敷と庭とを一眼に見下ろして、
「汚い家だな、何とかして早く買いつぶしてしまえ」
と言って不快な面(かお)をしていました。それで三太夫が人を介して、内々買いつぶしの相談に当らせてみようとすると、あれは有名変人だから、そんな話を持ち込もうものなら、かえって飛んだ事壊(ことこわ)しになります。まあもう少し時機をお見合せなさいましということであったから、大尽にはそのことを言わないで置いてありましたけれども、ここに鰡八大尽と道庵先生とが、表向いて相争わなければならない事情が出来たのは、ぜひないことと申すより外はありません。
 それは鰡八大尽が、ある夜、この妾宅の楼上へ泊り込んだ時に、不意に食あたりに苦しめられて、上を下へと騒がせたことがありました。大尽非常に苦しみました。いかに大尽の力を以てしても、雇人たちの追従(ついしょう)を以てしても、病気ばかりは医者の手を借らなければならないのであります。その医者とても、この場合においては、遠くの名医博士よりも、近くの十八文を有難く思わねばならないのでありました。そこで家の子郎党たちは、取るものも取り敢えずに道庵先生の門を叩きました。
 この時に、道庵先生の門を叩いた家の子郎党たちが心得のある人であったならば、相手がなにしろ道庵先生だということを腹に置いてかかるのだけれど、不幸にしてその連中は、それだけの心得も腹もない連中が、狼狽(あわて)て駈けつけたもんだから、鰡八大尽のためにも、道庵先生のためにも、悪い結果を齎(もたら)すということを夢にも予想はしませんでした。
「今晩は、今晩は」
 大尽家の子郎党は、傾きかかった道庵先生の家の門を、荒々しく叩きました。
「国公、起きて見ろ、いやに荒っぽく門を叩く奴がある、こちとらの門なんぞは、下手(へた)に叩かれたんではひっくり返ってしまわあな」
 道庵先生はその音を聞きつけて、寝床の中から薬箱持ちの国公に差図しました。
 国公は、慣れたものだから、直ぐに起きて案内に出ました。
「どーれ」
 国公が応対に出たけれども、道庵先生の寝ているところと玄関とは、いくらも隔たっていないのだから、先生はその応対の模様を、いつも寝ながらにして聞いていて、それによって病気模様を察し、急いで駈けつけるべき必要があると認めた時は急いで駈けつけ、悠々(ゆるゆる)していた方が病人のためになると思った時は、わざと悠々したりなどするのが例でありました。
「今、御前(ごぜん)が御急病でいらっしゃる、先生に大急ぎで出かけていただきたい、御前はお気が短くていらっしゃるから、愚図愚図しているとお為めになりません、寝巻のままで決して御遠慮なさるには及びませんから、こういう場合でございますから、失礼は私共からあとで幾重にもとりなして差上げますから、どうか御一緒に願いたいもので」
 国公が玄関の戸をあけるを待ち兼ねて、外からこういう挨拶でありました。寝ながら聞いていた道庵先生は、どうも解(げ)せない挨拶だと思いました。第一、御急病でいらっしゃる御前というのは、何者であるかということも解せないのでありました。それに気が短くていらっしゃるから、愚図愚図していると為めにならないという言い分は、考えてみるとおかしな言い分でありました。お気が短くていらっしゃろうと、お気が長くていらっしゃろうと、こっちの知ったことではないのであります。寝巻のままで御遠慮をなさるには及ばないから出て来いという言い草も、ずいぶん変った言い草であります。失礼はあとでとりなして上げるというのは、いったい誰に向って言ったのだろうと、道庵先生も少しく面喰って、世には粗忽(そそっ)かしい奴もあるものだ、頼まれる方へ向ってすべき挨拶を、頼む方からしてしまっている、急病で気が顛倒(てんとう)しているとは言いながら、おかしな奴等だと道庵先生は、腹の中でおかしがっていました。
 道庵先生にも解せなかったように、取次の国公にも解せなかったから、眼をパチパチして、
「いったい、どちらからおいでなすったんでございます」
「どちらから? そうそう、それそれ、このお隣の大尽から参りました、大尽がただいま御急病でいらっしゃるから、それでお使に」
 使の者がこう言った時に、
馬鹿野郎!」
 道庵先生がバネのように起き上りました。
「何でえ、何でえ」
 道庵先生ムックリと跳(は)ね起きて、寝巻の帯を締め直す隙(ひま)もなく、枕許にあった薬研(やげん)を抱え玄関へ飛び出しました。
 もし先生が心得のある武士であったなら、薬研を持ち出すようなことはなかったでありましょうけれど、先生の枕許には、別段に武器の類(たぐい)を備えてありませんでしたから、先生はあり合せの薬研抱えて飛び出したものであります。そうして玄関へ飛び出した先生の挙動は、確かに鰡八大尽(ぼらはちだいじん)の使者を驚かすに足るものでありました。挙動だけが使者を驚かすのみでなく、その言葉も彼等の度胆(どぎも)を抜くに充分なものでありました。
「さあ承知ができねエ、もう一ぺん言ってみろ、手前(てめえ)たちはどこから、誰に頼まれて来たのか、もう一ぺん言ってみろ」
 先生薬研を眼よりも高く差し上げて、鰡八大尽の使者を睨(にら)みつけたところは、かなり凄(すご)いものでありました。


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