大菩薩峠 39 京の夢おう坂の夢の巻 - 中里 介山 ( なかざと かいざん )
工場細胞
小林多喜二
上 一
金網の張ってある窓枠(まどわく)に両手がかゝって――その指先きに力が入ったと思うと、男の顔が窓に浮かんできた。
昼になる少し前だった。「H・S製罐(せいかん)工場」では、五ラインの錻刀切断機(スリッター)、胴付機(ボデイ・マシン)、縁曲機(フレンジャー)、罐巻締機(キャンコ・シーマー)、漏気試験機(エアー・テスター)がコンクリートで固めた床を震わしながら、耳をろうする音響をトタン張りの天井に反響させていた。鉄骨の梁(はり)を渡っているシャフトの滑車(プレー)の各機械を結びつけている幾条ものベルトが、色々な角度に空間を切りながら、ヒタ、ヒタ、ヒタ、タ、タ、タ……と、きまった調子でたるみながら廻転していた。むせッぽい小暗い工場の中をコンヴェイヤーに乗って、機械から機械へ移っていく空罐詰が、それだけ鋭く光った。――女工たちは機械の音に逆った大きな声で唄をうたっていた。で、窓は知らずにいた。
――あらッ!
「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストをしていた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。
女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間から紙を受取ると、耳に窓をあてた。
――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。
男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、直(す)ぐ塀を乗り越して行く悍(たくま)しい後姿が見えた。
昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たちの疳高(かんだか)い声がやかましく目立ってきた。
――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター?
――ラヴ・レターの見本か? 馬鹿に太(で)ッかいもんでないか。
それを見ていた男工も寄ってきた。
――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。
――そうかい、出目でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな?
皆が吹き出した。
田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。
――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。
――組合のビラよ。
失業労働者大会
・市役所へ押しかけろ!
・我等に仕事を与えよ!
・失業者の生活を市で保証せよ!
仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首筋から顔をゴシ/\こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが突ッこまされていた。
――よオッ! 鉄削(かなけづ)りやッてきたな!
連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。
――何云ってるんだ。この罐々虫!
負けていなかった。
――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ば鰹節(かつおぶし)みてえに削らねェ用心でもせ!
製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったように騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方へは行かないのだ。
相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ/\階段を食堂へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ/\という声が「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、賑(にぎ)やかに聞えてきた。
この日、Yの「合同労働組合」のビラは「H・S工場」へ三百枚程入った。職場々々の「職長(おやじ)」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。
飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を歪(ゆが)めた。
二
「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が鑿(ほ)られている。
――あらッ!
「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストをしていた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。
女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間から紙を受取ると、耳に窓をあてた。
――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。
男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、直(す)ぐ塀を乗り越して行く悍(たくま)しい後姿が見えた。
昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たちの疳高(かんだか)い声がやかましく目立ってきた。
――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター?
――ラヴ・レターの見本か? 馬鹿に太(で)ッかいもんでないか。
それを見ていた男工も寄ってきた。
――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。
――そうかい、出目でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな?
皆が吹き出した。
田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。
――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。
――組合のビラよ。
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・我等に仕事を与えよ!
・失業者の生活を市で保証せよ!
仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首筋から顔をゴシ/\こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが突ッこまされていた。
――よオッ! 鉄削(かなけづ)りやッてきたな!
連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。
――何云ってるんだ。この罐々虫!
負けていなかった。
――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ば鰹節(かつおぶし)みてえに削らねェ用心でもせ!
製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったように騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方へは行かないのだ。
相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ/\階段を食堂へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ/\という声が「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、賑(にぎ)やかに聞えてきた。
この日、Yの「合同労働組合」のビラは「H・S工場」へ三百枚程入った。職場々々の「職長(おやじ)」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。
飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を歪(ゆが)めた。
二
「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が鑿(ほ)られている。
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