大衆維新史読本 07 池田屋襲撃 関連リンク

菊池 寛 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

大衆維新史読本 07 池田屋襲撃 - 菊池 寛 ( きくち かん )

  • 即決★ほしのあき巻頭カラー/EX大衆・アラーキーVS矢吹メイ
  • $9742 佐藤寛子/ほしのあき EX大衆 巨乳下着テレカ
  • 都筑道夫 猫の舌に釘をうて 三重露出 講談社大衆文学館
  • 初版「大衆食堂」(文庫)野沢一馬
  • *^-^* テレカ 安達祐美 GOLD大衆 ●
  • *^-^* テレカ 熊田曜子 GOLD大衆 ★
  • *^-^* テレカ パイレーツ GOLD大衆 ■
  • *^-^* テレカ MEGUMI GOLD大衆② ★お宝
  • 読切小説名作帖★長谷川伸★昭和17年★大衆文学
  • ★初版/鮎川哲也★ペトロフ事件★講談社大衆文学館
次のページ
大衆維新読本 池田屋襲撃    新撰組結成  新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂(いへもち)将軍警護の名目で、江戸出発したのは、文久三年の二月八日であつた。  総勢凡そ二百四十名、二十三日に京都郊外壬生(みぶ)に着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内清河八郎で、丈(たけ)のすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だつたと云ふ。
 幕府は初め、浪士の人員を五十名位といふ方針であつた。しかし、実際は、風雲を望んでゐた天下浪士達が、旗本位にはなれると云ふ肚で、続々集つてきた。甲州侠客祐天仙之助が、仔分二十名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。
 これが、京都に止ること二十日ばかりで分裂し、芹沢(せりざは)、近藤十三人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴(らんしやう)である。
 隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正四年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢十三名の新撰組も、初めはひどく貧乏だつた。三月に隊が出来て、五月になると云ふのに、まだ綿入れを着てゐる者が多かつた。いろ/\考へた末、芹澤が真先に立つて、八名の浪士がわざ/\大坂まで行き、鴻池を脅して二百両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。
 これで麻の羽織紋付単衣(ひとへ)、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵義士の様に、だんだら染めにした。
 これが当時の新撰組制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。
 新撰組結成六ヶ月で、近藤勇土方歳三(ひぢかたとしざう)は、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に襲つて斬つた。
 芹沢は水戸郷士で、本名下村継次と云ひ、水戸天狗党の生き残りである。天狗党に居た時は、潮来(いたこ)の宿で、気に食はぬ事があつて、部下三名を並べて首を斬つたり、鹿島神宮参詣して、拝殿太鼓が大き過ぎて目障りだと云つて、これを鉄扇叩き破つたと云ふ程の乱暴者であつた。
 芹沢亡き後の新撰組は、当然近藤土方天下で、幕府の後押しもあり、京都守護職松平|容保(かたもり)の信頼もあり、隊の勢は日ならずして隆々として揚り、京洛に劃策する勤皇志士にとつて、陰然たる一大敵国を成すに到つた。

   近藤勇

 新撰組隊長近藤勇と云へば、剣劇大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動武士といつた処である。極く贔屓目(ひいきめ)に見ても、三代相恩の旗本万騎のだらしのないのに反して、三多摩土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせい/″\である。
 しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽してゐないし、彼の為にも気の毒である。
 近藤刑死は、慶応四年四月二十五日であるが、此の年六月日発行の「中外新聞」には――閏四月八日、元新撰組隊長近藤勇といふ者の首級、関東より来つて三條河原に梟せられたり。其身既に誅戮を蒙りたる者なれば、行の是非を論ぜず、其の勇に至りては惜む可き壮士なりと云はざる者なし――
 とある。この頃賊軍として死刑に処せられた者は、今日共産党被告以上に見られてゐたのであるから、出版物にこれだけ書くだけでも容易でない。賊軍であつても彼の評判は当時に於て、非常によかつた事は、この記事でも分ると思ふ。
 勇が生れたのは、天保五年で、近藤周斎養子となり、新徴組に加はつた頃迄は、剣術学問も、特に目立つて云ふ程のこともなかつた。
 新徴組から分離した時から、勇は漸次頭角を顕して来た。会津藩鈴木丹下の「騒擾(さうぜう)日記」には、
「其内、近藤勇と云ふ者は、知勇(ちゆう)兼備(かねそな)はり、何事を掛合に及候ても無滞(とゞこほりなく)返答致し候者の由」
 とあり、この頃から、智勇兼備と云ふやうな讃辞が捧げられてゐる。
 彼は東州と号して、相当立派な字を書いてゐる。学問は大したものではないが、当時の剣客としては、人後に落ちない位の素養はあつたのであらう。
 その政治上の主義としては、彼の上書に、
「全体我共は尽忠報国志士、依而今般御召相応じ去二月中遥々上京|仕(つかまつ)り、皇命尊戴、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京|罷存候(まかりありさふらふ)云々」(文久三年十月十五日上書)
 とある。
 また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、
「熟(つら/\)愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之(これあり)候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤手紙の一節)
 と述べてゐる。
 近藤意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷公武合体説であつた。
 彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。
「私共は昨年以来、尽忠報国有志を御募(おつのりに)相成(あひな)り、即ち御召に応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元年五月三日 上書の一節)
 とある。彼にもまた耿々(かう/\)たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長志士に劣るものではなかつたのである。
 殊に近藤光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんわう)との関係である。親王日記には、彼の名前も見え、慶応三年九月十三日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。
 暴力団首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。

   池田屋斬込み

 新撰組結成の翌年、元治元年六月五日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。
 即ち、この為に、明治維新一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。
 四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。主人は三十八九歳で、使用人を二三人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。余り浪士人間の出入が激しいので、新撰組では、予てからその様子に不審を懐き、六月五日に思ひ切つて踏み込んでみると果して甲冑十組、鉄砲二三挺、その他長州人との往復文書が数通発見され、その中には、「機会は失はざる様」との頗(すこぶ)る疑はしい文句があつた。
 取り敢へず、武具類を土蔵に収めて封印して主人喜右衛門を壬生の屯所に引致して、拷問したところ、驚く可き陰謀発見されたのである。


次のページ

菊池 寛 (きくち かん) 以外のオススメ作品

大衆維新史読本 07 池田屋襲撃 のリンク元

「大衆維新史読本 07 池田屋襲撃-菊池 寛」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN