天文と俳句 関連リンク

寺田 寅彦 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

天文と俳句 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • 天文雑誌★「天文ガイド」1982年5月号 天体望遠鏡カタログ?
  • m和本 国書掲載原本 天文要訣 写本 天文学古書古文書
  • ☆宇宙☆ おはなし天文学1 /物語天文史 送料無料
  • ☆宇宙☆ おはなし天文学2 /物語天文史 送料無料
  • ys和本 宝永三年 初学天文指南5冊揃 天文学星座古書古文書
  • 図解雑学シリーズ 天文学 全国百貨店共通商品券・切手支払OK
  • ◎D-71510 日本天文学会創立100周年紀念  シート1枚
  • 大澤清輝著「天文学」東京教学社(昭和49年)
  • ■天文シミュレータ ステラナビゲーターVer6 新品■送料込
  • a0502★月刊天文ガイド★火星の実像に迫る。
次のページ
 俳句季題分類普通に時候、天文地理人事動物植物といふ風になつて居る。此等のうちで後の三つは別として、初めの三つの項目中に於ける各季題の分け方は現代の科學知識から見ると、決して合理的であるとは思はれない。
 今日天文學(アストロノミー)は天體、即、星の學問であつて氣象學(メテオロヂー)とは全然其分野を異にして居るにも拘らず、相當な教養ある人でさへ天文臺と氣象臺との區別の分らないことが屡々ある。此れは俳諧に於てのみならず昔から支那日本で所謂天文と稱したものが、昔のギリシャで「メテオロス」と云つたものと同樣「天と地との間に於けるあらゆる現象」といふ意味に相應して居たから、其因習がどうしても拔け切らないせゐであらう。それでかういふ混雜の起るやうになつた事の起りの責任は、或は寧ろ天文といふ文字を星學の方へ持つていつた人にあるかも知れない。
 其れは兎に角俳句季題の中で今日意味での天文に關するものは月とか星月夜とか銀河とかいふ種類のものが極めて少數にあるだけで、他の大部分は殆ど皆今日の所謂氣象學的現象に關するものばかりである。
 さうかと思ふと又季題で「時候」の部にはいつて居る立春とか夏至とかいふのは解釋のしやうによつては星學上の季節であり、又考へ方によつては氣象學上の意味をも含んで居る。又一方で餘寒とか肌寒とか、涼しとか暑しとかいふのは當然氣象學上の事柄である。
 又一方では通例「地理」の部にはいつて居るものゝうちでも雪解とか、水温むとか、凍てるとか、水涸るとかいふのは當然氣象であり、汐干や初汐などは考へ方によつては寧ろ天文だとも云はゞ云はれなくはない。
 併しかういふ季題分類法に關する問題は、此講座では自分の受持以外の事であるから、此處で詳論するつもりはない。唯此の一篇の主題としての「天文」を、從來の分類による天文だけに限らず、時候及地理一部分も引くるめた、メテオロスの意味に解釋することにしたいと思ふのである。
 季節の感じは俳句生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。
 時に對立する空間的要素が、少くも表面上、何處にも指定されて居ないやうな俳句可能である。例へば「時鳥ほとゝぎすとて明けにけり」といふやうなものでも矢張發句であり得るのである。勿論此れとても句の裏面には殘燈の下に枕を欹てゝ居る作者の居室の光景潜在像は現在して居て、それがなければ此等の句は全然無意味な譫語に過ぎないのであらう。
 併し、此のやうに、兎も角も表面上では場所空間表象を省略することが許されるに拘らず、時の要素の明瞭な表面が絶對必要とされるのは何故か。此れには深い理由があり、此事が又あらゆる文學中で俳句といふものに獨自な地位決定する根本義とも連關して居ると思はれる。此に就て此處で詳しく述べて居る餘裕はないが、無常な時の流れに浮ぶ現實の世界の中から切り取つた生きた一つの斷面像を、その生きた姿に於て活々と描寫しようといふ本來の目的から、自然に又必然に起つて來る要求の一つが此の「時の決定」であることは、恐らく容易に了解されるであらうと思はれる。花鳥風月俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。
 時の流れを客觀的に感ずるのは何等かの環境の流動變化にたよる外はない。年々の推移を「感ずる」のは春夏秋冬循環的再歸によるのである。南洋の孤島のうちに、もしも、年中同じやうな氣候ばかり持續して居る處があるとすれば、其島の人には季節といふのは唯の言葉に過ぎないであらう。さういふ、春風もなければ秋風もない國では、季節の感じはありやうはなく、從つて俳句も生れ得ないであらう。それは、氣候の循環によつて示される尺度によつて、吾々人間生活の中に起りつゝある變轉の進路に一里塚道標を打込むといふことが出來ないので、從つて四月の風も九月の風も、名前がちがふだけの恆信風であつて、嬉しさや淋しさの連想を伴ふ春風秋風では決してあり得ないのである。
 實際、季節風(Monsoon)といふものゝない西洋には、「春風」もなければ「秋風」もない。少くも日本俳人の感ずる春風秋風存在しない。それだから、西洋だけしか知らない西洋人春風秋風の句の味が正當に分かる筈はないと私には思はれる。
 大陸大洋との境に細長い瑤珞のやうに連なる島環國日本は一つには又其複雜多樣な地質地形のおかげて短距離の間に樣々な風俗人情の變化を示すと同時に、又さまざまな氣候風土の推移を見せて居る。此れが爲に色々天文季題の背後には數限りもない風土民俗連想モザイクのやうな世界が包藏されて居るのである。
 雨の降り方だけ考へて見ても、日本では實に色々な降り方がある。所謂五月雨のやうなものは日本の中でも北海道にはもうない位の特産物である。時雨でも我邦のと同じやうなものが西洋にあるかどうか疑はしい。夕立に似た雨はあつても、「日本の夏」を知らない西洋驟雨は決して「夕立」の句を生み出し得ないであらうと思はれる。
 此のやうな自然界の多種多樣な現象分化は、自ら此れ等の微細な差別ニュアンスに對する日本人の感覺を鋭敏にしたであらうと想像される。芭蕉が「乾坤の變は風雅のたね也」と云つたといふのにも、いくらか此の意味がありはしないかと思はれる。實際滿洲とか西比利亞とか露西亞とか、あゝいつたやうな單調な風土氣候をもつた國の住民の中から當然ニヒリズムや、マルキシズムは生れても俳句が生れようとはどうにも想像されにくいことである。
 人事動物植物季題でもそれが所謂季題である限り矢張其の背後に隱れた天文背景をもつて居ることは勿論である。それ故に飯を食ふことや散歩することは季題にならず、鴉や松は季題にはならないのである。
 俳句に取つてそれ程に大事な季節を直接に指定する天文季題の句にどんなものがあるかを點檢して見る。實際に統計して見た譯ではないが、兎も角も、私の此處で所謂天文に關する句の多數なことは明白な事實である。尤も、さういふ季題でも、一般の人々に實感の少ない特殊なもの、例へば虎が雨とか黄雀風とか云つたものは稀であるが、誰にでも濃厚な實感のある春雨とか秋風とかには古今を通じて非常に多數な句がある。此れは前述の理由から當然のことである。即ち季節の感じの最直接なものであり、あらゆる季節連想背景となりセットとなるものだからである。
 併し注意すべきことは、さういふ句のうちで、他の景物を配することなしに單に此等の天文季題そのものを諷詠し敍述したものは比較的に少數で佳句は猶更少ないといふことである。「いなづまやきのふは東けふは西」(其角)とか「春の雨霽れんとしては烟るかな」(漱石)といつたやうなのは極めて稀である。それ程でなくても季題自身を主題として此れに他の景物を配し、その配合の效果を借りて此を描寫したものでさへも割合に少數である。


次のページ

寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) 以外のオススメ作品

天文と俳句 (てんもんとはいく) のリンク元

「天文と俳句-寺田 寅彦」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN