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天竜川 - 小島 烏水 ( こじま うすい )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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   一  山又山の上を、何日も偃松(はひまつ)の中に寝て、カアキイ色の登山服には、松葉汁をなすり込んだ青い斑染(まだらぞめ)が、消えずに残つてゐる、山を下りてから、飯田の町まで寂しい宿駅を、車の上で揺られて来たが、どこを見ても山が重なり合ひ、顔を出し、肩を寄せて、通せん坊をしてゐる、これから南の国まで歩くとすれば、高い峠、低い峠が、鋭角線を何本も併行させたり、乱れ打つたりして、疲れた足の邪魔をする。山越しに木曾路へ出て、汽車に乗るとすれば、トンネルトンネルがあつて、この温気に、土竜のやうに、暗の窖(あな)を這ひ、石炭の粉の雨を浴びなければならない。
 けれども、山の町から一直線に、傍目も触らず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄(そてつ)が丈高く生えてゐる海岸まで、突き抜け天竜川(てんりゆうがは)といふ道路があることを私は知つてゐる、しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知つてゐる、この道路はどんなことがあつても、酸化したり腐蝕したりすることは先づ無い、今まで頑なな、鉄糞のやうに、兀々(こつ/\)した石の上で、寝起してゐた身が、濃青(こさを)の水、情緒の輝やきに充ちてゐる自由な川波に乗つて、何千尺の高さから、大洋水平線まで、一息に下り切るといふことが、「船さして雲のみを行く心地しぬ、名も恐ろしき天(あめ)の中川」といふ、この川を詠んだ古歌の心を、味ふのに十分であらう、金剛杖の代りに櫂、馬車汽車の代りに、亜米加利の印度人が、操つたやうな、原始的な、軽い、薄ッぺらの板舟で、五十里の峡谷、それもおそらく日本に類のない深谷を下られるといふ道路は、他のいかなるそれよりも、美しい幻影に富んでゐるに違ひない。
 今でこそ衰滅の俤しか残さないが、覊旅(きりよ)の人たちに、古典的の壁画を見つめさせるやうに、すがれた色彩と、暗い陰影を味はせる東海道にあつても、この天竜川は、音に名高い大河であつた、小天竜天竜は、川筋の変つた今では、その跡をたづねられないが、名だけは古い地理書に残つてゐる、
十六夜(いざよひ)日記(につき)」の女詩人は、河畔に立つて西行(さいぎやう)法師(ほふし)の昔をしのび、「光行紀行(みつゆききこう)」の作者は、川が深く、流れがおそろしく、水がみなぎつて、水屑(みくず)となる人の多いのにおびえてゐる。
 日本の歴史恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱鎌倉に囚はれて、東下(あづまくだ)りの路すがら、菊川(きくがは)の西岸に宿つて、末路の哀歌障子書きつけた中御門(なかみかど)中納言(ちうなごん)宗行(むねゆき)卿(きやう)もさうである。「菊川公卿衆泊りけり天(あま)の川(がは)」(蕪村(ぶそん))の光景は、川の面を冷いやりと吹きわたる無惨の秋風が、骨身に沁みるのをおぼえようではあるまいか、更にそのむかし、平家公達(きんだち)、重衡(しげひら)朝臣(あそん)が、西海(さいかい)の合戦にうち負け、囚はれて鎌倉へ下るときに、この天竜川の西岸、池田の宿に泊つて、宿の長者熊野(ゆや)が女(むすめ)、侍従の許に、露と消え行く生命の前に、春の夜寒の果敢ない分れを惜しんだことは、「平家物語」に物哀しくしるされてある。
 かの近松道行振りなどの、始祖をなしたかとおもはれる「太平記」の、俊基(としもと)東下(あづまくだ)りは、私などが少年時代に、よく愛誦したものであるが「旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、匹馬風に嘶いて、天竜川をうち渡り、小夜(さよ)の中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮に……」といふ七五調の、メロヂアスな文句は、いかに大河を横切つて、死にに行く身の悲壮なる光景を、夢幻的に現はしてゐるであらうか、東海道美しい歴史は、文化京都から、野蛮関東へと、廃頽して行く筋道となつて開展される、王朝時代デカダン詩人業平(なりひら)の東下りは、哀れにも華やかな序幕を明けた、さうしてそれから後に、多くの「東下り」なる悲劇が、殊に多く川の岸を舞台として、演ぜられてゐるのは、注意すべきことであらう、行きて返らぬ川の姿と、石にせゝらぐ水の啜り泣きと、荒涼として河原|蓬(よもぎ)の風にそよぎ、蘆花の衰残する川景色は、さなきだに寂滅為楽の虚無思想を、背景としてゐる当時の人たちに、いかにやるせない心の悶えを起させたであらう。されば大河を前に、うつろひ易い人生の姿を見てあれば、「水無月(みなづき)や人の淵瀬の大井川」(蓼太(れうた))といつたやうな感じに打たれないものはなかつたであらう。
 かくの如きは、古くから日本文学を裏付けてゐる無常観で、あまりに常套な、又あまりに感傷的な句ではあるが、しかも時の姿、流れの姿は、人の身の上ばかりでなく、川それ自身の栄華をすら、鼠色暮れゆく川上の、遠山(とほやま)に沈む斜陽のうす黄色の中に、うすら寒い谷の影を、描き出されるやうになつた。
 未だ木曾街道に、汽車出来なかつた頃は、河舟の数二千五百艘、搭載量二万七千四百石と唄はれた、下り上り船の往き交ふ繁昌も、今では火の消えたやうに寂びれ切つて、偶(たまた)まに川下りをしようとして、河畔に立つ旅人があつても、船が出ないために、空しく失望して引き返さねばならなかつた、私も二度ばかりさうした憂き目を見て、心ならずも傍路へ外らされた。
 しかもこの儘に、埋没させるには、あまりに華やかに、あまりに麗はしく、若々しい川の姿である、Rev. LO, Roke といふ日本へ来たことのある英国人は、五六年前、倫敦の王立地学協会で、講演して、「およそ全世界に見られ得るほどの川の純美は、凡て天竜川にあつまつてゐる。ライン河下り、ダニューブ河を下つたが、到底天竜川に及ばない」とたゝへてゐる、私はライン河もダニューブ河も知らないが、天竜川延長五十四里、その中の三十里は日本アルプスの屋棟(やね)ともいふべき信州流れて、川幅が最も狭く、傾斜が最も急で、岩石の中でも、最も堅硬な花崗岩や、結晶片岩の中を流れてゐるといふ浸蝕谷であるから、この川の特色としては、かの欧洲アルプスから、地層走向に沿つて流れ出るローンや、ラインのやうな、水平らかにして、幅濶く、流れの遅々とした谷に比べて、もつとフレッシュで、もつと純粋で、もつと深谷的(ゴルジ・ライク)なものであらうとおもはれる。
 しかのみならず、私は憫れなほど、水に欠乏してゐる都市に住んでゐる、水も何米突若干銭と、秤量(しやうりやう)にかけるやうにして、高い租税を払はなければ飲めないばかりか、川水の姿を見ようとすれば、鉄橋の下の、鉄漿溝(おはぐろどぶ)のやうに、どす黒く濁つた水を、夕暮の空に、両岸の燈火の幻影で、美しく粉飾して、眺めくらして、はかない欲望を充たすのである、さもなければ、偶(たま)に古城の御濠の水を、石垣の曲りくねつた黒松行列や、埃だらけで、灰色に化けてゐる名ばかりの、青柳の樹影に、透かし見て、水藻や、バクテリアで、毒々しく淀んだ、沈滞腐敗した水のおもての青みどろの色に、淡い哀愁の情を寄せてゐなければならない。私たちの祖先は、森蔭に眠り水辺に浴みしたであらう、水を追うて都市に出て来たであらう、もし私たちに水の都を慕ふ情緒を、許されるならば、日本アルプスの雪の山、氷の山で、閉された、厚ぼつたい、森厳にして冷酷な周囲の中から、きはめて繊細な、しかしながら尖鋭な、鎌の刃を閃かし、この鉄壁を突き通し、縫ひ通し、岩石心臓から、谷間の狭い喉頭通過して、深い深い、大きい大きい、太平洋へ出る銀色の川の姿に、見惚れないで何としよう、見惚れるばかりでなく、たとひ一日二日なりとも、絶えず動揺し、奔放する水の線の上に、住まつて見たい、一髪の間を隔てゝ、耳許に水音を聞くだけの、生活をして見なければならぬ。
 私は飯田から二里ばかりある、時又(ときまた)といふ船の出るところまで、車を走らせた。

   二

 渚には空船が底を空に向けて、乾されてゐる、川岸には荷を積みかけた船が、纜(もや)つてゐる、私はこの荷船に乗るのである、どうせ積荷を主な目的とする船であるから、無理やりに、荷物の中へ割り込んで、坐るぐらゐの窮屈は、忍ばずばなるまい、何となれば時又から、一日で、天竜下流鹿島(かしま)に達するまでの「通し船」を、傭ふには、非常に高い賃銀を払はせられるので、私のやうな日本アルプスの貧しい巡礼に、貴族的の豪奢を、要求することに当るからである、私は時又から満島(みつしま)まで、八里の間を、この荷船に便乗し、満島から西の渡(と)まで、九里の間は、村落蕭条として、荷船さへ通はないだけ、それだけ、天竜川が怒吼激越の高調をして、深谷の怖ろしい姿が見られるのであるから、その距離だけを、別に船を仕立て、西の渡(と)から鹿島までは、毎日客船が出るさうであるから、それに乗り換へることにしたのである。
 時又川添ひの間の宿で、一寸した料理屋が川端にある。浴衣を着た、白粉剥げのした女が、素足草履を穿き、川縁に立つて、名古屋訛り言葉で、船頭に言伝てを頼みながら、手紙渡してゐる、船はその茶屋の側から出る、これが港であつたら、黒い船、赤い船が、檣(ほばしら)や烟突を、林のやうに立たせ、重々しく鎖を引き擦り、錨を卸して、青い海の上と、焼けるやうな赤い雲の下に、装飾的に行列してゐるところであるが、この奇体な、みすぼらしい川船は、渚に繋がれてゐるのはいかにも迷惑さうに、航海者が慄気(おぞげ)を震ふ風なんぞは、一向平気だといふやうな顔をして、一寸した水のうねりにも、神経をピリリと動かせ、今にも水の底を潜りかねない気配をして、待ちくたびれてゐるげに見える。船体を白く塗つてゐないから、白鳥とは見えないが、又鰭を振る魚とも見えない、船の長さ七間半、幅四尺、深さ三尺ぐらゐで、両方の舷側には、小さな穴を明け、棕櫚繩で、長さ九尺ぐらゐもあらうかといふ樫製の櫂(かい)を、左右に二挺結びつけてある、櫂の折れ目に鉄環でツギをあてたのもある。
 船の中には、竹棹が何本となく抛り出されてある、その棹の先には、鉄の環が二つ嵌り、尖端は木槍の身のやうに、細く削つてあるが、岩石を烈しく突き立てると見えて、サヽラか草楊枝のやうに裂けてゐる、荷物を見廻すと、菓子、酒、塩、饂飩、殻類、提灯などが積まれ、「濡れ物、御用心」など紙札を張つたのもある、荷物がなければ、一船に定員二十五人を詰め込むのだそうであるが、今は人の方が附けたりなので、四五人の乗客しかなかつた。
 薄ツぺらの船板は、へなへなしなつて、コルクみたいに柔らかく、水をいなすから、板と言つても、帆布(カンヴアス)一枚で、漂流するやうな気もされる、一人の船頭は艫に立つて、櫓を操り、一人舳先に立つて、水先案内の役を務める、外に船頭が二人で、両舷の櫂を、ボートのやうに水にピタピタ入れると、瀬の音がさらさらと鳴り始める、岸から水中へ辷り込んだとおもふと、物に魂でも入つたやうに、ツイと放れた。
 船底がゴブゴブいふ、雨風に窶(やつ)れた船の、心臓が喘ぎ喘ぎ波を打ち出した、もう水に流れ始めると、先刻感じたやうに、柔らかい帆布でもなく、水を泳ぐ魚でもなく、角度角度前後両翼の櫂で決まつて、白い石の土堤、桑畑、荒壁の土蔵屋根の上のゴロ石などが、引いて取られるやうに、すつと後へ退り、川上伊那山脈は、紫陽花色(あぢさゐいろ)の、もくもくした雲の下へ捻ぢこまれて、強烈な印度青(インチゴー)の厚ぼつたい裾も、前なる草山のうしろへ、没してしまふ。
「筏の行つたあとを通るだなあ」「白い瀬の東下りるだよ」と、舳先からは艫の方へ声をかける、中の船頭は、鉄の環の入つた竹棹を、水にグイと入れる、眼に見えない強い力で、両手を引ツ張られ、グルグル引き廻されて、惰力のついたところで、抛り出されたやうに、船はいきほひづいて、滅入るやうに前に俯(かゞ)んで、又ひとうねりの大波を乗つ越すと、瀬の水は白い歯を剥き出して、船底をがりがり噛み始める、水球が飛び散つて、舷側は平手で、ぴちやぴちや叩かれる音がする、腰の廻りへ、袴のやうに蓆(ござ)を着て、鮎を釣つてゐる人が、水沫(しぶき)の中で掻き消されて、又しよツぱい顔が浮ぶ。
「親殺し」といふ崖の下で、水は油を流したやうに、澄んで、今までのさわぎは忘れたやうに、けろりととぼけてゐる。
「磧(かはら)へついて廻したぞ」と、艫の方から声がかゝつたが、夕立のやうに、水がざわついて、小さな水球が、霧雨(きりさめ)となつて飛んで来たので、もう名高い天竜峡に入ツて来たと知つた、竜角峯とか、何々石とかいふ岩石が、水ですり磨され、覇王樹(シヤボテン)のやうに突ツ張つて簇(むら)がつてゐる、どの石もみんな深成岩(しんせいがん)と言はれてゐる花崗岩(くわかうがん)で、地殻の最下層の、岩骨が尖り出て、地下神経を剥き出しにしてゐるのである、岸と岸との間は、おそらく十五|米突(メートル)ぐらゐな距離しかあるまいが、この並行線は、いつまでも一致しないで、喰ひ合はうとしては離れ、離れては又曲りくねつて、その間を玉虫のような、翡翠(ひすい)のやうな、青葡萄のやうな水が、すうい、すういと流れ、表をかへすと、雪のやうな白い裏地が見える、崖の骨に喰ひついて、萱草(かんぞう)の花が火を燈したやうに、黄色く咲いてゐる、船はもうハムモツクのやうに、空と水の境を揺られる。
 崖の出口の、寺が淵へ来ると、騒ぎくたびれた水は、しんとして、静まりかへる、それもしばしで、オハチへ来たころは、渦まく水が強い呼吸で、吹き分けられたやうに、落ち込みが出来て、浪の中に二三尺の穴が明く、船はその中へ吸ひ込まれさうになつて、大岩の曲り角へと突つかけて来ると、竹棹が崖へ飛びついて、弓のやうにしなふ、一人の船頭は櫂で舷をコトコト叩いて、上り船に信号をする、ざんざの水音と、コトコト叩く櫂の音が、入り乱れるが、その櫂の音は、力のない音響の一滴に過ぎなかつた、私はこの櫂で叩く音を、簡単上り船への信号とのみ見たくない、チエンバレイン氏が「日本のアイノ」に描かれたやうに、水中の窪魔(あま)を、追ひ退けるため、水を追うて川を下りたといふおまじなひが、今でも無意識に伝はつてゐるのでは、あるまいかと考へた。
 コアゼの大滝へ来たときは、どんどろの水が、沸り落ちて、船は麻痺した身体が、動かない手足を、じたばたさせながら、何とも仕方ないやうに、立ちすくんでしまふ、舳先の船頭が、手練で舞はす櫂は、蜻蛉(とんぼ)の薄羽のやうに、鮮やかにキラリと光つて水を切つても、船は水底の、世にも怖ろしい執念の力で、引き留められるやうに、行き悩む、中なる船頭が、木彫の仁王のやうな、力瘤の入つた筋肉を隆くして、丁字櫂を握つたまゝ、踏ん反り返り、合掌に引いてゐるのが、千曳の大岩でも、水底から引き上げるやうに力瘤が入る、水と船との死物狂ひの闘ひを、小面の憎いほど知らん顔して、煙管を横銜へに、竹の網を張りながら、こつちを瞰下してゐる男がゐる。
 竹棹で大きな白い岩を突かうとした船頭は、帽子を水の中に落して、あつと言ふ間もなく、塵芥のやうに、黒い点となつて、引ツたくられてしまつた。
 この辺の川は、むかしは大岩だらけで、いく船を打ち割つたものださうだが、今でも俵石などいふ巨大な岩塊が、水の上へ背を露はしてゐる、朝に一本の歯を抜かれ、夕に一本の角を折られるやうに、岩石は切り開かれて、川路は作られても、洪水や風雨が、後から後から、大小の石を転ばして来ては、一水もやらじとやうに、邪魔をする。
 大久保の長|瀞(とろ)へ来たときは、水は湖沼のやうに、穏やかな、円かな夢でも見るか、ひつそりして、やんわりと大様な亀甲紋が、プリズム断面を見るやうに、青硝子色をしてのんびりとひろがつてゐる、乗客たちは、安心したやうに、濡れた袂を絞るやら、マツチへ火をつけるやらしてゐる、銜へ煙管に膝を抱いて、ポカンと青い空を見てゐるのもある、竹棹の先の鳶口を、岩に引つかけ、船を右舷に傾斜させて置いて、船底の片隅を、溝をなして流れる閼伽水(あかみづ)を、短い汲桶で、酌み出しては、川へ抛りこむ。
 大久保といふ村落のあるところを過ぎて、峡間がひらけたかと思ふと、あまり高くはないが、日本アルプス系の一峯が、遠い空に聳えてゐる、おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線(はりがね)が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、その山の白い頭を、いや白くして、白金(プラチナ)の輝やきを帯びてゐた氷雪が、日の光と、生命の歓楽に、よどみを作つて、房々とした黒髪の長い処女の森を通り抜け、何千年となく無辜(むこ)の生霊を葬つてゐる、陰惨たる洞窟から、滲み出て、異教徒のやうに、反抗の叫びを高くして、放浪児のやうに、刹那々々の短い歓楽を謳歌して、数千万水球群れが、山と山とに囲まれてゐる狭い喉を、我|克(が)ちに、先を争つて通過してゆくのである、一分一秒は、白く泡立つ波と、せゝらぐ水の音に、記録されてゐる、凡ての雰囲気が、みんな水に化けてしまふかとばかりに、一団の雲とも、水蒸気ともつかぬ精力(エネルギー)になつて、吹つ飛んでゆく。
 谷川の水であるから、海にあるやうな深い水の魔魅(まみ)はないかも知れない、けれどもまた海の水のやうに、半死半生病人が、痩せよろぼひて、渚をのたうち廻つたり、入江に注ぎ入る水に、追ひ退けられたりする甲斐性なしとは違つて、冷たい空の下でも、すゞし絹のやうに柔らかに、青色の火筒(ほや)のやうに透明に、髪の毛までも透き通るまでに晶明に、地球上最も堅固な岩石の、花岡岩をすら、齲歯(むしば)のやうにボロボロに欠きくづして、青色光線峡谷放射し、反射して、心のまゝ、思のまゝに、進行する見事なる峡流(カニヨン)の姿は、豪奢な羽を精一杯にひろげて、烈々たる日光の下で、王者の舞ひを舞ふ孔雀の威よりも、大きく見える、私は水の青色と、絶え間のない流動の姿とで、沈欝な気分を圧伏され、神経静かに慰安されたやうになつて、一枚のハンケチを顔の上にかぶせ、仰向きになつて、暫らく青空を見つめてゐた、それも眩ゆくなつたので、崖へ視線を落すと、崖には山百合の花が、白く点々として、芳烈な香気が川風に送られて、鼻腔へ入る、秋は紅葉が赤くなると、どのくらゐ美しいかと、土地の人らしいのが、自慢話をしてゐるのを、聞くともなく聞いてゐるうちに、自分ながら眼晴(ひとみ)が、あやしく散大するやうで、凡ての物が面※(ヴエール)を透(すか)して、遠く小くなり、感覧があるのか、ないのか解らぬほど鈍くなり、恍惚として、夢ともなくうつゝともなく、寝てしまつたが、ちらりと光つた青色の水の姿で、目が冴えて、起き上つた。
 川はいま段落をして、船が引きずり卸されるやうに、下向きになつたかとおもふと、船頭たちは櫂の手を休めて、無抵抗主義に乗り越える、その時は爪先が立つて、前へ俯(の)めるやうな気がして、人々は思はず、荷の上の油紙を引き寄せ、腰から下へ、前垂代りにかけながら、水面の恐ろしい傾斜を、まざまざと正面に見せつけられた、「唐傘谷といつて、難所でさあ」と船頭は平気である。
 つゞいて茶々淵(ちや/\ぶち)の大難所が来る、水の多いところを避けて、船は右へ左へと、一個の肉体を、自由自在運動継続で、調節させるやうにして、Zの線を描いたり、蛇の舌をぺろぺろさせるやうに、突進して、鋭く迅く速力を出したりして、水の音楽と、姿態と、拍子とに、合奏させてゐたが、八間岩(はちけんいは)といふ大屏風を引き廻して、峡流(カニヨン)も横ざまに線を引いたやうに、一頓して落下する、もう峡流といふより、飛瀑と言つた方がいゝ、船頭はこゝで一人残らず、客を陸(をか)に上げてしまつた。ビシヨ濡れになつても、かまはぬと最後まで、残つてゐた私をも、追つ立てるやうにして、陸上の人としてしまつた。
 空に引き渡した鋼線(はりがね)に縋つて通ふ渡し舟を、見ながら、私たちは、河原の石コロ路を、二三町も歩いた、傘も下駄も、船の中へ置き去りにして、尻ッ端折になつて、炎天の焼石の上を、腫れ物に障るやうに足袋裸足で歩いてゐる乗客もある、河原には埃を浴びて白くなつた萱草(かんぞう)の花の蔭から、蜥蜴(とかげ)の爬ひ出す影が、暑くるしく石に映る、今夜の泊りの「満島(みつしま)まではまだ四里半もありやす」と、道伴れになつた同船の客から聞いて、傘をさしかけ、磧(かはら)にしやがんで、下つて来る船を待つ、河原焚火をした痕と見えて、焦げた薪や、灰が散らばつてゐる、溺死人でも、あつたんぢやないか知らんと思ふ。
 暫らく停まつて呼吸を入れてゐた船は、こつちを目がけて、走つて来る、難所中の難所といふ、やぐらの瀑へかゝつて来たときは、波から三尺ばかり船体が乗り出したと思ふと、水煙が噴水の柱のやうに立つて、船頭の黒い立像が、水沫(しぶき)の中から二体浮び出た、火影に映る消防夫の姿のやうに。
 乗客一同は又迎へられて、船中の人となつた、榎の渡しを横に見て、川田(かはだ)温田(ぬくだ)の二村のあるところで、乗客は大体どつちかの村へ下りた、饂飩五函、塩一俵が岸に揚がつた、村近くなつて、峡流(カニヨン)も静かになり、米を舂く水車船も、どうやら呑気らしい、御供(ほや)といふ荒村にしばらく船をとゞめて、胡桃大木の陰になつてゐる川添ひの、茶屋で、私たちは昼飯を食べた、下条村遠州(ゑんしう)街道(かいだう)が、埃で白い路を一筋、村の中を通つてゐる、ここで、又残りの荷があらかた卸された。
 今まで峡流(カニヨン)には珍らしいほど、屈曲の少なかつた天竜川は、こゝで急な瀬と、深い淵を挟んで、大屈曲をしてゐる、崖は漆喰で固めたように、石を※みつけ、それに根を下した紅葉の一枝が、紅を潮(さ)してゐる、日は少し西へ廻つたと見えて、崖の影、峯巒(ほうらん)の影を、深潭に涵(ひた)してゐる、和知川(わちがは)が西の方からてら/\と河原を蜒(うね)つて、天竜川落ち合ふ。
 両岸が円い石を束ねて、水はその中に狭められて流れてゐる、白壁土蔵が、柳の樹の間から、ちらほら見える、船からは、酒樽を渚のほとりへ揚げ、船頭が口へ手を当てゝ、オーイと呼ぶ、岸の上から人が覗いて、何か言つてゐる、船頭は今朝の女から、言伝(ことづか)つた手紙を、樽の上へそつと置き、小石を重石代りに乗つけて、又船を川中押しやろうとすると、河原について、瀬が浅いので、がりがり言ふばかりで、動かない、二条の細引を舳先に括りつけ、二人して水の中へ入りながら、深いところまで船をおびき出して、動き調子がついたときに、手繰りながら船に躍り込む。
 川はS(エス)字状に屈曲して、浅瀬深淵落ち合つて「捨粟の大曲り」を行く、左岸の峯は雲つくばかりに立ち上り、日の光も森にかくれて、燻んだやうに暗く、森の中には、枯木が巨大な動物の骨のやうに、散乱してゐる、崖から庇のやうに突き出た大石の上には、大木が根ぐるみ乗りかけてゐる、冷たい風が、川水を吹いて、裾から腋の下、背から襟へと、駈けめぐつて、そこら中をくすぐつて、振り返る姿を川波に残して、通りぬける。石から石の上を飛びめぐる鶺鴒(せきれい)と筋交ひに、舟は両崖の迫つた間の急湍を、櫂を休めて悠々と乗つ切る、川には筏に組む材木が漂ひながら岩に堰かれてゐる、王子製紙会社の紙の原料で、中部(なかつぺ)の支社で、製するのだといふ。
 右岸から和田川を併せて、船はこよひの泊りの満島の土堤を仰ぎ、高い岸には屏風に張り交ぜた色紙のやうな畑を見るやうになつた、ふと眼の前にそゝり立つ大きな岩に、吸ひつけられさうになつて、櫂を斜に構へ、岩の根をコヂリ上げるやうにして、やつと放れたが、岩石が目まぐるしく多くなり、灘が急になつて、村とはいへ、船着きがよくない、やうやく船を纜(もや)つて、私は船頭におぶはれて、岸に着いた。
 白い土蔵が、山腹に見えて、水車がゴト/\舂(うす)づいてゐる、鶏が餌を捜してクッ/\啼いてゐる、傾斜のゆるい坂路の村の中には、荒物屋があつて、夾竹桃の花が、その庭に真ツ赤に咲いてゐる、導かれたのは村長で、旅宿屋(はたごや)を兼ねた田村為輔といふ人の宅で、離れ二階の広い座敷へ通された、良材を惜しげなく使つた建築で、畳も新しく、床の間には、七宝焼の瓶に、美しい草花が投げ込まれ、鹿の角の飾物や、金蒔絵の硯箱が置かれてある、静かな庭には、杉や、棕櫚や、柳のしなやかな枝振りなどが、今までの動揺した気分を鎮めてくれる、それに天竜川は深く落ち込んでゐるので、もう二階からは見えない、浴衣に着換へ、欄(てすり)に倚つてると、屋(いへ)の背(うしろ)には、峯を負ひ、眼の下には石を載せた板葺家根が、階段のやうに重なつて、空地には唐もろこしを縁に取つた桑畑が見える、苗代田が青く光つて、水はその間を、縦横に流れてゐる。
 谷の中が、黄な臭いやうに、ボーッと明るくなつたとおもふと、高い空を浮ぶ雲が、夕日受けて、鈍い朱に染まつた、蜩(ひぐらし)が、時間を一秒一秒刻み込んで、谷の中へ追ひ込んでゆくやうに、キ、キ、キと啼き落す、杉林一本々々の樹が、どちらから寄るともなく、塊まつて、黒い法師のやうになつて、囁き合つてゐる。
 夜になると、こつちの岸と、向うの岸の半腹に、燈火が螢火のやうについて、神寂びた寺院廻廊か、大森林の秘奥にともす法燈でもあるかのやうに、ひつそり閑となつて、その間に薬研(やげん)のやうな天竜の大峡谷があるともおもはれない。

   三

 朝霧山村を罩(こ)めて、鶏の声が、霧の底から聞える、黄色南瓜(かぼちや)の花に、まだ夢が残つてゐるかして、寝惚けた姿をしだらなく大地に投げ出してゐる、ぼツと白壁が明るくなる、森がうつすらと、烟つぽい緑を、向うの山の懐に、だんだら、染めに浮かせる、起き上つて支度をする頃は、方々の家から、軽い炊煙が立ちはじめた。
 昨日時又から、この村まで八里の間を、荷船に便乗したのであるが、その船はもう南へは下らないので、特別に一艘仕立てさせ、西の渡(と)まで、九里の間を下すことにした、高価を払つて買ひ切りにしたのであつたが、船へ来て見ると、旅商人が二人、ちやんと乗つてゐる、のみならず人の行李、鍋、釜、白樺の皮(薪材)まで、幅を利かせて積み込んである、山間の船頭には、昔の雲助のやうな、押の強い風が残つてゐて、買ひ切りであらうが、何であらうが、一人でも余計に乗せて、賃銭を取れゝば取り得としてゐる、併し先を急ぐ旅であるのと、重荷をしよつた旅商人に、苦労をさせるでもなからうと思つて、強ひて咎め立てもしなかつた。
 満島を放れるころ、朝日東山の端を放れ、水の光が艶をもつて、石の傍を白くちよろ/\走るのが、魚のやうである、ふと見ると、西岸は日光を浴びて、樹の影が水に落ち、とろりと澄んだ濃藍の長瀞(ながとろ)に、樹の梢は、すくすくと延び上つて、水鏡をしてゐる、川はひつそりと音もなく、蒸々(じよう/\)と立ちのぼる峡谷朝霧の底を、櫓の音が、ギイギイと静かにひゞく、森の下蔭を通りぬけ、浅瀬の上を乗越して、信州から遠州境へ近くなつて来た。
 ふり仰げば、北方の緑に包まれた山々は、遠山川(とほやまがは)が深く侵蝕してゐるために、谷の通路に当るところだけが切り靡けたやうに低く開けて、北東日本南アルプスの大主系(だいしゆけい)赤石(あかいし)山脈(さんみやく)の、そゝり立つ鋼鉄大壁、夏を下界に封じて、天上の高寒は、はや冬のやうに、透明凛烈の青みどろに澄みわたり、乾きわたつてゐる虚無の中に、鋭角線を引き飛ばして、強い鋼筆で、透明硝子板(ガラスいた)に傷をつけたやうに、劃然と大波を打つてゐる。


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