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女給 - 細井 和喜蔵 ( ほそい わきぞう )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 柴田登恵子――といって置く。彼女社会運動の為め黒表(ブラックリスト)にのって就職口にも事欠くようになった処へ、かてて加えて持病の慢性|膓加答児(ちょうかたる)でべったり床に就いて了った良人(おっと)を、再び世の中へ出そうという殊勝な考えから、その日その日に収入の有る料理屋働きを思い立ったのは去る一月なかばのことである。二人がほんの雨露をしのぐに足るだけの三畳のバラック、そこは羽目板や屋根裏の隙間から容赦もなく荒風が入って、ただ一枚きりの煎餅蒲団ではどうにもこらえ切れぬ寒さを僅かなアンカの暖で辛うじて避けようとする良人の病床へ、恰も遺恨があって戦いを挑むかのようにじゃけんに衝きあたるのであった。その惨めな部屋の中で、まだ若い良人は土よりも蒼い顔をしてキリキリッと歯を咬みしめつつ間歇的に襲って来る差込に苦悶している。赤十字社の臨時病院で診て貰ってはいるのだが、少しもいい方へ向わないのである。(ああ、どうかして専門の医者に診せ度いなあ、)登恵子はこう思ったが如何にしても診察料の出処が無かった。
 織工(おりこ)として女ながらも立派生産にたずさわり得る熟練工としての腕を有ち乍ら、彼女もまた良人の巻き添えを喰って自分天職を行使する機会を失って了った。で、やむを得ず三田土|護謨(ごむ)工場へ通って僅かに七十八銭の日給を得ていたのだが、物価の高い今日今日七十八銭で自分も食べた上病気の良人一人を養ってゆくことは、困難以上の無理であった。
「ねえ貴方、これじゃどうしても遣りきれないからあたし思い切って女給になろうと思うの、貴方あたしの心を信じてくれて?」
 第三日曜日で恰度工場休みの日、登恵子は良人の枕辺へ今しも臨時病院から貰ってきた施薬を運んでこう相談した。
「全く、貴方のお腹はおかど違いのお医者通り一辺の施療なんか受けていたのでは、何時まで経っても癒りゃしないから……。」
そうだよ、矢張り京橋の南あたり、専門の胃膓病院へ行かなければ駄目だねえ。」
「そうよ、だからあたしがもうちょっと収入の多いことしなきゃ、これでは迚(とて)もおっつかないわよ。実は先きお薬とって帰りがけに余り山女給を募集していたから、二三軒入って様子を聞いて見たの、真面目に稼ぎさえすればどうにか貴方養生くらい、左程不自由なくさせられそうだから、貴方さえ承知してくれりゃあたし行くわ。」
「ああいう浮いたしょうばいは余り感服しないが、時と場合なら仕方が無いよ。機嫌よく行って働いておくれ。」
「浮いた稼業と言ったって何も銘酒屋女になる訳ではなしさ、そりゃ色んな男も来ようけれど、あたしの心さえ確(しっか)りして居れば大丈夫だわ。」
 こうして登恵子が勤め出したのは程遠からぬ本所柳島元町亀甲亭という和洋食店である。朋輩女給一人にコック一人家内四人という人数で、客用食卓を三つだけ据えたささやかな店。
 先ず彼女は華やかなエプロンを買って掛けた。そして昨日まで女工の登恵子は今日エプロン姿となった収入だめしに、お銭入(あしいれ)をすっかり空っぽにして女給の群へと投じて行った。
 翌朝財布を調べて見ると三円二十銭ある。何といううまいしょうばいだろう、と彼女は思う。そして此の分なら、三四日も経てば俥に乗せて病人を専門の病院診察受けにやれるだろうことを喜びながら、お湯の序(つい)でに家へ廻って良人に此のことを話して安心させ、お粥の用意などして枕辺へ運んでから再び店へ立ち帰った。こうして毎日朝湯の序でにこっそりと隠れるように家へ帰っては病める良人を看ながら五日辛抱すると、十五円近くのお金出来目的通り専門の医者へかけることが叶った。
 登恵子にとってそれは嬉いことであったが、併しよく考えて見れば何等人間生活に必要欠くべからざる品物生産でもない此の遊び仕事に対して、一日三円もの報酬を得ることは唯なんとなく尻こすばゆいような気がしてならなかった。一日じゅう手足を動かし、技術を使って働き通しに働いて僅かに七十銭や一円の賃銀しか与えられない労働婦人に比べて、余りにそれは不当収入である。始めの程彼女英語をわきまえぬ自分に、洋食名前が直ぐ覚えられるかしらんというような心配があったが、それは馬鹿気た程つまらぬ杞憂に終った。何んのことは無いカツレツカレーライスビフテキ位おぼえて置けば、殆ど他の料理が出ることは無く、作法も行儀もありはしないのであった。織工でも五十以上英語名称記憶せねばならんのに、これはまた余りに容易なわざだった。で彼女は、東京にも指を折る程しか無い本式のレストランを除いては、女給の仕事が低能にでも出来る確信を得た。
 登恵子は経済が少し楽になると流石(さすが)に病床の良人が想われて、毎夜毎夜家をあけることがかわいそうになったので、仮令(たとい)遅い乍も店がはねてから帰って、責めて寝る時だけでも良人のそばにいて看てやり度いと考えた。そして亀甲亭の主人にその由を話すと、
「では、よく考えて置く。」と言って即座には返事をしない。

 バラックの街は騒然として暮れて行った。そうしてうす暗い夜の世界が展(の)べられると蝙蝠(こうもり)のように夜だけ羽をひろげて飛び廻る女供を狙う幾多(あまた)の男が、何処からともなく寒いのも打ち忘れてぞろぞろと出て来る。此の頃から昼の飯時以来すっかり客足のとだえた亀甲亭へもぽつりぽつり酒呑み客が現われるのである。大工のような男が入って来た。
「嫂(ねえ)さん、お銚子一本。」
おしんこくんねえ。」
「カツ。」
「お銚子のおかわり。」
「カツもう一枚くんねえ。」
 登恵子にはこういう客の給仕が実に馬鹿らしかった。自分の腹へ凡そどれ丈けの物が入るか分っている筈だから、初め一時に通して置けばいいものを、お銚子出来てからおしんこを注文し、それを又たいらげて了ってからカツレツそれから又お銚子ビフテキ曰く何、曰く何々と幾度にも切っては注文して余計な手数をかける。その気の利かなさがどの客もどの客もであるから何ぼ女給の仕事が楽だといっても第一馬鹿らしくて仕様がない。彼女にはこういう処へ飲みに来る男が実に皆なぐうたらに見えた。大概な男が、酌をさせた上、ついには盃を差して酒の合手をしなければ快く思わないのである。そして「おごってやるおごってやる」と言って珍くも無い料理までも食べさせなければ承知しない。
 大工は色んなことを話しながら執拗に腰を据えて動かなかったが、かれこれ二時間も経ってから漸く立ち上って五円近くの会計を済まし、彼女に一円のチップを与えて出て行った。此の客は凡そ三日おき位に一遍ずつ必ずやって来る馴染(なじみ)なのであった。


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