妖術 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
むらむらと四辺(あたり)を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶(えん)な姿で、電車の中から、颯(さっ)と硝子戸(がらすど)を抜けて、運転手台に顕(あら)われた、若い女の扮装(みなり)と持物で、大略(あらまし)その日の天気模様が察しられる。
日中(ひなか)は梅の香も女の袖(そで)も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上(のぼ)せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経(た)つと、花曇りという空合(そらあい)ながら、まだどうやら冬の余波(なごり)がありそうで、ただこう薄暗い中(うち)はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累(かさ)なると、ちらちら白いものでも交(まじ)りそうな気勢(けはい)がする。……両|三日(さんち)。
今朝は麗(うらら)かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜(ひがん)も、うっかり咲きそうなという、午頃(ひるごろ)から、急に吹出して、随分風立ったのが未(いま)だに止(や)まぬ。午後の四時頃。
今しがた一時(ひとしきり)、大路が霞(かすみ)に包まれたようになって、洋傘(こうもり)はびしょびしょする……番傘には雫(しずく)もしないで、俥(くるま)の母衣(ほろ)は照々(てらてら)と艶(つや)を持つほど、颯(さっ)と一雨|掛(かか)った後で。
大空のどこか、吻(ほっ)と呼吸(いき)を吐(つ)く状(さま)に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上(あが)りそうに見えるが、淡く濡れた日脚(ひあし)の根が定まらず、ふわふわ気紛(きまぐ)れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。
すっかり雨支度(あまじたく)でいるのもあるし、雪駄(せった)でばたばたと通るのもある。傘(からかさ)を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達(だて)に行届いた姿見よがしに、大薩摩(おおざつま)で押して行(ゆ)くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好(い)いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙(せわ)しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
電車のちょっと停(と)まったのは、日本橋|通(とおり)三丁目の赤い柱で。
今言ったその運転手台へ、鮮麗(あざやか)に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄(こまげた)に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重(こうはぶたえ)の褄捌(つまさば)き、柳の腰に靡(なび)く、と一段軽く踏んで下りようとした。
コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘(こんじゃのめ)の細々と艶のあるを軽く持つ。
ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎(ふなざき)という私の知己(ちかづき)――それから聞いたのをここに記す。
舟崎は名を一帆(かずほ)といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜(ゆうべ)の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
一旦(いったん)家(うち)へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡(ふりょうけん)を廻(めぐ)らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件(くだん)の三丁目に彳(たたず)みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘(こうもり)の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過(やりす)ごして、硝子戸越(がらすどご)しに西洋|小間(こま)ものを覗(のぞ)く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻(しき)りに謀叛気(むほんぎ)を起していた。
処へ……
一目その艶(えん)なのを見ると、なぜか、気疾(きばや)に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出(うごきだ)す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
そこにぼんやりと立った状(さま)を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺(あたり)の人に見らるるのを憚(はばか)ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠(かれ)は云う。
乗合いは随分|立籠(たてこ)んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前(さき)に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿(あだすがた)。
二
誰も知った通り、この三丁目、中橋(なかばし)などは、通(とおり)の中でも相(あい)の宿(しゅく)で、電車の出入(ではい)りが余り混雑せぬ。
停(と)まった時、二人三人は他(ほか)にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
乗ったのは、どの口からも一帆一人。
入るともう、直ぐにぐいと出る。
ト前の硝子戸(がらすど)を外から開けて、その女が、何と!
姿見から影を抜出(ぬけだ)したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
そして、ぱっちりした、霑(うるみ)のある、涼しい目を、心持|俯目(ふしめ)ながら、大きく※(みひら)いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟(じっ)と見た。
見た、と思うと、今立った旧(もと)の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。
その女は、丈長(たけなが)掛けて、銀の平打の後(うしろ)ざし、それ者(しゃ)も生粋(きっすい)と見える服装(みなり)には似ない、お邸好(やしきごの)みの、鬢水(びんみず)もたらたらと漆のように艶(つや)やかな高島田で、強(ひど)くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬(めしちりめん)も、なぜか紫の俤立(おもかげだ)つ。
空(す)いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側(おんなじがわ)で、一帆はちと慌(あわただ)しいまで、急いで腰を落したが。
胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客(のりて)に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先(つまさき)も見えなかったが、一目見られた瞳(ひとみ)の力は、刻み込まれたか、と鮮麗(あざやか)に胸に描かれて、白木屋の店頭(みせさき)に、つつじが急流に燃ゆるような友染(ゆうぜん)の長襦袢(ながじゅばん)のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆(さかさ)にまた硝子越(がらすご)しに、扱帯(しごき)を解いた乱姿(みだれすがた)で、こちらを差覗(さしのぞ)いているかと疑う。
やがて、心着くと標示(しるし)は萌黄(もえぎ)で、この電車は浅草行。
一帆がその住居(すまい)へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
もっとも、わざととはなしに、一帳場(ひとちょうば)ごとに気を注(つ)けたが、女の下りた様子はない。
で、そこまで行(ゆ)くと、途中は厩橋(うまやばし)、蔵前(くらまえ)でも、駒形(こまがた)でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行(ゆ)くように信じられた。
何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪(つま)はずれが堅気(かたぎ)と見えぬ。――何だろう。
とそんな事。……中に人の数を夾(はさ)んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年(ひととせ)、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々(いろいろ)な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓(がらすまど)の薄暗くなって来たのさえ、確(しか)とは心着かぬ。
が、蔵前を通る、あの名代(なだい)の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄(すさま)じく暗くなった。
頸許(えりもと)がふと気になると、尾を曳(ひ)いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透(すか)して、雫(しずく)のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際|上(うわ)の空でいたのであった。
日中(ひなか)は梅の香も女の袖(そで)も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上(のぼ)せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経(た)つと、花曇りという空合(そらあい)ながら、まだどうやら冬の余波(なごり)がありそうで、ただこう薄暗い中(うち)はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累(かさ)なると、ちらちら白いものでも交(まじ)りそうな気勢(けはい)がする。……両|三日(さんち)。
今朝は麗(うらら)かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜(ひがん)も、うっかり咲きそうなという、午頃(ひるごろ)から、急に吹出して、随分風立ったのが未(いま)だに止(や)まぬ。午後の四時頃。
今しがた一時(ひとしきり)、大路が霞(かすみ)に包まれたようになって、洋傘(こうもり)はびしょびしょする……番傘には雫(しずく)もしないで、俥(くるま)の母衣(ほろ)は照々(てらてら)と艶(つや)を持つほど、颯(さっ)と一雨|掛(かか)った後で。
大空のどこか、吻(ほっ)と呼吸(いき)を吐(つ)く状(さま)に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上(あが)りそうに見えるが、淡く濡れた日脚(ひあし)の根が定まらず、ふわふわ気紛(きまぐ)れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。
すっかり雨支度(あまじたく)でいるのもあるし、雪駄(せった)でばたばたと通るのもある。傘(からかさ)を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達(だて)に行届いた姿見よがしに、大薩摩(おおざつま)で押して行(ゆ)くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好(い)いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙(せわ)しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
電車のちょっと停(と)まったのは、日本橋|通(とおり)三丁目の赤い柱で。
今言ったその運転手台へ、鮮麗(あざやか)に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄(こまげた)に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重(こうはぶたえ)の褄捌(つまさば)き、柳の腰に靡(なび)く、と一段軽く踏んで下りようとした。
コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘(こんじゃのめ)の細々と艶のあるを軽く持つ。
ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎(ふなざき)という私の知己(ちかづき)――それから聞いたのをここに記す。
舟崎は名を一帆(かずほ)といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜(ゆうべ)の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
一旦(いったん)家(うち)へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡(ふりょうけん)を廻(めぐ)らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件(くだん)の三丁目に彳(たたず)みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘(こうもり)の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過(やりす)ごして、硝子戸越(がらすどご)しに西洋|小間(こま)ものを覗(のぞ)く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻(しき)りに謀叛気(むほんぎ)を起していた。
処へ……
一目その艶(えん)なのを見ると、なぜか、気疾(きばや)に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出(うごきだ)す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
そこにぼんやりと立った状(さま)を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺(あたり)の人に見らるるのを憚(はばか)ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠(かれ)は云う。
乗合いは随分|立籠(たてこ)んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前(さき)に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿(あだすがた)。
二
誰も知った通り、この三丁目、中橋(なかばし)などは、通(とおり)の中でも相(あい)の宿(しゅく)で、電車の出入(ではい)りが余り混雑せぬ。
停(と)まった時、二人三人は他(ほか)にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
乗ったのは、どの口からも一帆一人。
入るともう、直ぐにぐいと出る。
ト前の硝子戸(がらすど)を外から開けて、その女が、何と!
姿見から影を抜出(ぬけだ)したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
そして、ぱっちりした、霑(うるみ)のある、涼しい目を、心持|俯目(ふしめ)ながら、大きく※(みひら)いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟(じっ)と見た。
見た、と思うと、今立った旧(もと)の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。
その女は、丈長(たけなが)掛けて、銀の平打の後(うしろ)ざし、それ者(しゃ)も生粋(きっすい)と見える服装(みなり)には似ない、お邸好(やしきごの)みの、鬢水(びんみず)もたらたらと漆のように艶(つや)やかな高島田で、強(ひど)くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬(めしちりめん)も、なぜか紫の俤立(おもかげだ)つ。
空(す)いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側(おんなじがわ)で、一帆はちと慌(あわただ)しいまで、急いで腰を落したが。
胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客(のりて)に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先(つまさき)も見えなかったが、一目見られた瞳(ひとみ)の力は、刻み込まれたか、と鮮麗(あざやか)に胸に描かれて、白木屋の店頭(みせさき)に、つつじが急流に燃ゆるような友染(ゆうぜん)の長襦袢(ながじゅばん)のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆(さかさ)にまた硝子越(がらすご)しに、扱帯(しごき)を解いた乱姿(みだれすがた)で、こちらを差覗(さしのぞ)いているかと疑う。
やがて、心着くと標示(しるし)は萌黄(もえぎ)で、この電車は浅草行。
一帆がその住居(すまい)へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
もっとも、わざととはなしに、一帳場(ひとちょうば)ごとに気を注(つ)けたが、女の下りた様子はない。
で、そこまで行(ゆ)くと、途中は厩橋(うまやばし)、蔵前(くらまえ)でも、駒形(こまがた)でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行(ゆ)くように信じられた。
何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪(つま)はずれが堅気(かたぎ)と見えぬ。――何だろう。
とそんな事。……中に人の数を夾(はさ)んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年(ひととせ)、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々(いろいろ)な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓(がらすまど)の薄暗くなって来たのさえ、確(しか)とは心着かぬ。
が、蔵前を通る、あの名代(なだい)の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄(すさま)じく暗くなった。
頸許(えりもと)がふと気になると、尾を曳(ひ)いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透(すか)して、雫(しずく)のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際|上(うわ)の空でいたのであった。
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