姫柚子の讃 - 佐藤 垢石 ( さとう こうせき )
このほど、最上川の支流小国川の岸辺から湧く瀬見温泉へ旅したとき、宿で鰍(かじか)の丸煮を肴(さかな)に出してくれた。まだ彼岸に入ったばかりであるというのに、もう北羽州の峡間に臨むこの温泉の村は秋たけて、崖にはう真葛の葉にも露おかせ、障子の穴を通う冷風が肌にわびしい。私は流れに沿った一室に綿の入った褞袍(どてら)にくるまり、小杯を相手として静かに鰍の漿(しょう)を耽味したのであった。
折りから訪ねてきた一釣友に、この小国川は鮎ばかりでなく鰍にも名のある渓であるときいた。小国川は昔、判官義経主従が都を追われ、越路をめぐって羽前の国の土を踏み、柿色の篠懸(すずかけ)に初夏の風をなびかせて、最上川の緑を縫った棧道をさかのぼり、陸奥(むつ)の藤原領へ越える峠の一夜、足をとどめた生月(いけづき)の村の方からくる源遠き峡水であるから、ここに棲む鰍の味が肥えているのは当然のことであろうと思ったのである。そこで私は、この丸煮よりも鰍|膾(なます)の淡白を所望したのであるけれど、生憎(あいにく)このごろは漁師が川業を休んでいるために、活き鰍が市場へ現われてこぬとのことであった。残念ながら、いたしかたない。それにつけて思いだしたのは、わが故郷奥利根川の鰍である。私は幼いころから、利根川の鰍に親しみ深かった。
晩秋の美味のうち、鰍の膾(なます)に勝るものは少ないと思う。肌の色はだぼ沙魚(はぜ)に似て黝黒(あおぐろ)のものもあれば、薄茶色の肌に瑤珞(ようらく)の艶をだしたのもある。しかし、藍色の鱗に不規則に雲形の斑点を浮かせ、翡翠(ひすい)の羽に見るあの清麗な光沢をだしたものが、至味とされている。
殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、鶺鴒(せきれい)の足跡が玉石の面に凍てるようになれば、谷川の水は指先を切るほどに冷たくなる。鰍の群れはこの冷たい水を喜んで、底石に絡(まと)わりながら上流へ遡(のぼ)ってゆく。そのころ瀬を漁(あさ)る鰍押しの網に入ったものが、一番上等といえるのである。
また早春、奥山の雪が解けて、里川の河原を薄にごりの雪代水で洗うとき、遡(のぼ)り※(ど)で漁(と)った鰍も決して悪くはない。山女魚(やまめ)も鱒の子も、鮎も同じように冷たい水に棲んでいるものほど、骨と頭がやわらかであるが、殊に鰍は晩秋がくると、こまやかな脂肪が皮肉の間に乗って、川魚特有の薄淡の風味のうちに、舌端に熔ける甘膩(かんじ)を添えるのだ。
奥上州の、空に聳える雪の武尊山の谷間から流れでる発知川と、川場川を合わせる薄根川。谷川岳の南襞に源を発し猿ヶ京を過ぎ茂左衛門地蔵の月夜野で利根の本流に注ぐ赤谷川で漁れる鰍は、わが故郷での逸品である。東京近県では上州のほかに常陸の国の久慈川上流に産するもの、また甲州白根三山の東の渓谷を流れる早川で漁れる鰍も、まことにみごとである。いずれの川も水温が低いためであると思う。
鰍は、二月から四、五月にかけて、水底の大きな石の裏側に卵を産みつける。姿は沙魚(はぜ)よりも丈が短く、頭が割合に大きく尻がこけているのである。大きいのは四寸位にまで育って腹に吸盤のついていないものが上等とされている。北陸地方では鰍のことを鮴(ごり)と呼んでいるが、これも変わった種類ではない。今年の八月のはじめ、京都の四条の橋の袂の神田川で鰻を食べたとき、つきだしにだした小型の鰍の飴煮もおいしかった。天明のころ、長崎へきていた和蘭陀(おらんだ)人の調べたところによると、日本には九州と山陰道だけでも四十幾種類の鰍がいるという。その写生図が、私の友人のところにある。であるから、全国を調べたら随分|夥(おびただ)しい種類の数にのぼるであろう。
鰍は素焼きにして、山葵醤油をつけて食べても、焼き枯らして味噌田楽にこしらえても、また丸煮にしても、いずれも結構であるが、頭と脊骨と腸を去って天ぷらに揚げるか、膾(なます)に作ればこれに勝った味はない。特に、膾の醤油に姫柚子(ひめゆず)の一滴を加えれば、その酸味に絶讃の嘆を放ちたくなるのである。
姫柚子といえば、この初秋鎌倉の釣友を訪ねたとき、夕餐の膳を飾るちり鍋に添えて、緑の色深い姫柚子が数粒、小皿の上にあった。私は、それをなつかしく眺めた。
寒国である私の故郷は、柑橘類に恵まれていなかった。姫柚子など、あろうはずがないけれど、私は姫柚子の味に永い間親しんできたのである。それは、私に四国の阿波の国に友人があって、そこから毎年初秋になると送ってきた。私は、湯豆腐にちり鍋に、この姫柚子の調味を配して、遠い国にある友の心を偲んだのである。
姫柚子は、西国の特産である。四国、九州、紀州などのほかに絶えて見ぬのであるけれど、これはどこから到来したのであるかと鎌倉の釣友に問うたところ、やはり讃岐の友から送って貰ったのであると答えた。そこで私は、阿波の国の友人の身の上を思って、なつかしさが一入(ひとしお)であった。友はいま、故郷を離れ南支へ赴いて働いている。そのために、ここ一両年は姫柚子に接しなかったのである。久し振りに、四国の友に会う思いがした。
ちり鍋の材料は、大きなほうぼう一尾、槍烏賊(やりいか)三杯、白菜、根深(ねぶか)、細切りの蒟蒻(こんにゃく)などであったが、これは決して贅を尽くした魚菜とはいえまい。しかしながら、姫柚子の一滴は、爛然(らんぜん)として鍋のなかに佳饌の趣を呼び、時しも窓外の細雨に、二人は秋声の調べを心に聞いた。鼎(かなえ)中の羮(あつもの)に沸く魚菜の漿、姫柚子の酸。われらの肉膚は、ひとりでに肥るのではないであろうか。
さらに膳を賑わせたのが、茄子(なす)の丸焼きであった。これは友が庭前の叢(くさむら)に培った秋茄子である。
折りから訪ねてきた一釣友に、この小国川は鮎ばかりでなく鰍にも名のある渓であるときいた。小国川は昔、判官義経主従が都を追われ、越路をめぐって羽前の国の土を踏み、柿色の篠懸(すずかけ)に初夏の風をなびかせて、最上川の緑を縫った棧道をさかのぼり、陸奥(むつ)の藤原領へ越える峠の一夜、足をとどめた生月(いけづき)の村の方からくる源遠き峡水であるから、ここに棲む鰍の味が肥えているのは当然のことであろうと思ったのである。そこで私は、この丸煮よりも鰍|膾(なます)の淡白を所望したのであるけれど、生憎(あいにく)このごろは漁師が川業を休んでいるために、活き鰍が市場へ現われてこぬとのことであった。残念ながら、いたしかたない。それにつけて思いだしたのは、わが故郷奥利根川の鰍である。私は幼いころから、利根川の鰍に親しみ深かった。
晩秋の美味のうち、鰍の膾(なます)に勝るものは少ないと思う。肌の色はだぼ沙魚(はぜ)に似て黝黒(あおぐろ)のものもあれば、薄茶色の肌に瑤珞(ようらく)の艶をだしたのもある。しかし、藍色の鱗に不規則に雲形の斑点を浮かせ、翡翠(ひすい)の羽に見るあの清麗な光沢をだしたものが、至味とされている。
殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、鶺鴒(せきれい)の足跡が玉石の面に凍てるようになれば、谷川の水は指先を切るほどに冷たくなる。鰍の群れはこの冷たい水を喜んで、底石に絡(まと)わりながら上流へ遡(のぼ)ってゆく。そのころ瀬を漁(あさ)る鰍押しの網に入ったものが、一番上等といえるのである。
また早春、奥山の雪が解けて、里川の河原を薄にごりの雪代水で洗うとき、遡(のぼ)り※(ど)で漁(と)った鰍も決して悪くはない。山女魚(やまめ)も鱒の子も、鮎も同じように冷たい水に棲んでいるものほど、骨と頭がやわらかであるが、殊に鰍は晩秋がくると、こまやかな脂肪が皮肉の間に乗って、川魚特有の薄淡の風味のうちに、舌端に熔ける甘膩(かんじ)を添えるのだ。
奥上州の、空に聳える雪の武尊山の谷間から流れでる発知川と、川場川を合わせる薄根川。谷川岳の南襞に源を発し猿ヶ京を過ぎ茂左衛門地蔵の月夜野で利根の本流に注ぐ赤谷川で漁れる鰍は、わが故郷での逸品である。東京近県では上州のほかに常陸の国の久慈川上流に産するもの、また甲州白根三山の東の渓谷を流れる早川で漁れる鰍も、まことにみごとである。いずれの川も水温が低いためであると思う。
鰍は、二月から四、五月にかけて、水底の大きな石の裏側に卵を産みつける。姿は沙魚(はぜ)よりも丈が短く、頭が割合に大きく尻がこけているのである。大きいのは四寸位にまで育って腹に吸盤のついていないものが上等とされている。北陸地方では鰍のことを鮴(ごり)と呼んでいるが、これも変わった種類ではない。今年の八月のはじめ、京都の四条の橋の袂の神田川で鰻を食べたとき、つきだしにだした小型の鰍の飴煮もおいしかった。天明のころ、長崎へきていた和蘭陀(おらんだ)人の調べたところによると、日本には九州と山陰道だけでも四十幾種類の鰍がいるという。その写生図が、私の友人のところにある。であるから、全国を調べたら随分|夥(おびただ)しい種類の数にのぼるであろう。
鰍は素焼きにして、山葵醤油をつけて食べても、焼き枯らして味噌田楽にこしらえても、また丸煮にしても、いずれも結構であるが、頭と脊骨と腸を去って天ぷらに揚げるか、膾(なます)に作ればこれに勝った味はない。特に、膾の醤油に姫柚子(ひめゆず)の一滴を加えれば、その酸味に絶讃の嘆を放ちたくなるのである。
姫柚子といえば、この初秋鎌倉の釣友を訪ねたとき、夕餐の膳を飾るちり鍋に添えて、緑の色深い姫柚子が数粒、小皿の上にあった。私は、それをなつかしく眺めた。
寒国である私の故郷は、柑橘類に恵まれていなかった。姫柚子など、あろうはずがないけれど、私は姫柚子の味に永い間親しんできたのである。それは、私に四国の阿波の国に友人があって、そこから毎年初秋になると送ってきた。私は、湯豆腐にちり鍋に、この姫柚子の調味を配して、遠い国にある友の心を偲んだのである。
姫柚子は、西国の特産である。四国、九州、紀州などのほかに絶えて見ぬのであるけれど、これはどこから到来したのであるかと鎌倉の釣友に問うたところ、やはり讃岐の友から送って貰ったのであると答えた。そこで私は、阿波の国の友人の身の上を思って、なつかしさが一入(ひとしお)であった。友はいま、故郷を離れ南支へ赴いて働いている。そのために、ここ一両年は姫柚子に接しなかったのである。久し振りに、四国の友に会う思いがした。
ちり鍋の材料は、大きなほうぼう一尾、槍烏賊(やりいか)三杯、白菜、根深(ねぶか)、細切りの蒟蒻(こんにゃく)などであったが、これは決して贅を尽くした魚菜とはいえまい。しかしながら、姫柚子の一滴は、爛然(らんぜん)として鍋のなかに佳饌の趣を呼び、時しも窓外の細雨に、二人は秋声の調べを心に聞いた。鼎(かなえ)中の羮(あつもの)に沸く魚菜の漿、姫柚子の酸。われらの肉膚は、ひとりでに肥るのではないであろうか。
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