子供・子供・子供のモスクワ - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
さあ、ちょっと机のごたごたを片よせて、
(――コップは窓枠の前へでものせといてください。)
モスクワ地図をひろげよう。
市の西から東・南に向って大うねりにのたくっているのは、誰でも知っているモスクワ河。その河が二股にわかれた北河岸に、不規則な三角形の城壁でとりまかれた一区廓は、全世界のブルジョアとプロレタリアートに一種の感銘をもってその名をひびかしているところのクレムリン。
この頃は城壁内の青草が茂って、ビザンチン式の古風な緑や茶色の尖塔はなかなか趣ある眺望だ。円屋根にひるがえる赤旗は、まわりを古風な建物がとりかこんでいるだけかえって新鮮で、光る白い雲の下で夏の歓びにあふれている。
クレムリンの城壁が終ったところに細い通りがあって――
ソラ! ここだ、労働宮というのは。
モスクワ河岸をAの電車にのってぐるりと行くと左手に素晴らしく印象的な白い建物があったろう。あれが労働宮である。組織と計画の理性の明るさそのものでがっしり組んで来るような颯爽たる大建築の内部には、社会主義労働の全組織網が納っているのだ。
ソヴェト全勤労者の祭日であるメーデーの前日からモスクワ市は一切酒類を売らせなかった。
当日は全市電車がない。乗合自動車もない。赤旗と祝祭の飾りものの間に十数万の勤労者の跫音がとどろいた。インターナショナルの高い奏楽と、空から祝いをふりまきつつ分列する飛行機のうなりがモスクワ市をみたした。
夜一時近く赤い広場は煌々たるイルミネーションと人出だ。朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふれて、小さいぬかるみをこしらえている。新手な群集は子供や年寄づれで、ぞろぞろ河岸へ河岸へとねって行く。
国立百貨店(グム)の前、赤いプラカートの洪水だ。
――帝国主義とファシズムの犠牲者に階級の兄弟プロレタリアートからの挨拶を!
また、
――世界革命、万歳※
レーニン廟は修繕中である。今は「レーニン留守」の感じを与える。ひろい板がこいの上は生産に従う労働者と農民の鮮やかなパノラマ式画でおおわれ、赤いイルミネーションが、こっち側の歩道を歩く群集からも読める。
レーニニズムノ旗高ク
五ヵ年計画ヲ四年デ!
たなびく赤旗が強烈な夜の逆電光をうけとるといかに感動的な効果をもたらすか。昔の首斬台は一九三〇年のメーデーの夜そういう忘られぬ赤旗の美しさと労働者の力づよい群像で飾られている。ラジオ拡声機の大ラッパは広場じゅうへ活溌な行進曲を弾き出し、全景は赤い! 赤い!
黒い壁となって河岸まで押し出した群集は、カーメンヌイ・モストのたもとで一時ホッと息をいれた。河風は涼しい。遠くで夜空を燃している光の家、労働宮のイルミネーションが夜の河面へとけ込んでいる。クレムリンの長い外壁は灯のけない暗闇だから、遠いそこだけが何とも云えず輝かしい。
五色のイルミネーションは対岸のモスクワ市発電所にもあって、三百六十四日はむっつり暗いモスクワ河の水を色とりどりにチラつかせている。
モスクワの群集はイルミネーションに対しては素朴である。群集の中から満足した笑いごえがし、或る者はそのまんま橋の欄干にもたれた。或るものは更に暗いクレムリンの外壁に沿って労働宮の方へ。
ソヴキノが照明燈(プロジェクトール)をもやして労働宮とそこへ向う群集を撮影している。橋の下では二艘ボートが若い女をのせ、イルミネーションのとけ込んでいる辺だけ小さく漕いでいる。
最近の二年間はすべてを変えた。ソヴェトの生産振興の為の五ヵ年計画は一一〇パーセントの全生産拡張プランとともに生活全線を社会主義再建設に向って勇敢にねじ向けてしまった。――
が、そのことは又別に話すとして、地図にかえろう。我々はモスクワ市の環状ブルワールを見つけたい。
一本はこれである。クレムリンを中心に一寸がたついたコムパスで大きく描いた円みたいな環状線。これは外の並木通りで、絞りをずっと縮めてゆくともう一本やっぱりクレムリンを遠巻きにして円く――そう! これが内の並木通りである。
並木通新聞(ブリヴァールナヤ・ガゼータ)という言葉がある。
先年、モスクワ駐在の不幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであろう自分の名誉という強迫観念によって、古典的なサムライの手法をもって生命を絶った。当局者の一人がその時、事件に対するヨーロッパ人らしい意外の感じを外交的表現によって云った。――私共はあんな並木通新聞(ブリヴァールナヤ・ガゼータ)なんぞのぞいたこともないので――
|並木通り(ブリヴァール)を歩くと云うことがある。これはソヴェトで「|私の知り合い(モイ・ズナコームイ)」という言葉と同様二重の意味をもっている。
ホテルの台所である。
市の西から東・南に向って大うねりにのたくっているのは、誰でも知っているモスクワ河。その河が二股にわかれた北河岸に、不規則な三角形の城壁でとりまかれた一区廓は、全世界のブルジョアとプロレタリアートに一種の感銘をもってその名をひびかしているところのクレムリン。
この頃は城壁内の青草が茂って、ビザンチン式の古風な緑や茶色の尖塔はなかなか趣ある眺望だ。円屋根にひるがえる赤旗は、まわりを古風な建物がとりかこんでいるだけかえって新鮮で、光る白い雲の下で夏の歓びにあふれている。
クレムリンの城壁が終ったところに細い通りがあって――
ソラ! ここだ、労働宮というのは。
モスクワ河岸をAの電車にのってぐるりと行くと左手に素晴らしく印象的な白い建物があったろう。あれが労働宮である。組織と計画の理性の明るさそのものでがっしり組んで来るような颯爽たる大建築の内部には、社会主義労働の全組織網が納っているのだ。
ソヴェト全勤労者の祭日であるメーデーの前日からモスクワ市は一切酒類を売らせなかった。
当日は全市電車がない。乗合自動車もない。赤旗と祝祭の飾りものの間に十数万の勤労者の跫音がとどろいた。インターナショナルの高い奏楽と、空から祝いをふりまきつつ分列する飛行機のうなりがモスクワ市をみたした。
夜一時近く赤い広場は煌々たるイルミネーションと人出だ。朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふれて、小さいぬかるみをこしらえている。新手な群集は子供や年寄づれで、ぞろぞろ河岸へ河岸へとねって行く。
国立百貨店(グム)の前、赤いプラカートの洪水だ。
――帝国主義とファシズムの犠牲者に階級の兄弟プロレタリアートからの挨拶を!
また、
――世界革命、万歳※
レーニン廟は修繕中である。今は「レーニン留守」の感じを与える。ひろい板がこいの上は生産に従う労働者と農民の鮮やかなパノラマ式画でおおわれ、赤いイルミネーションが、こっち側の歩道を歩く群集からも読める。
レーニニズムノ旗高ク
五ヵ年計画ヲ四年デ!
たなびく赤旗が強烈な夜の逆電光をうけとるといかに感動的な効果をもたらすか。昔の首斬台は一九三〇年のメーデーの夜そういう忘られぬ赤旗の美しさと労働者の力づよい群像で飾られている。ラジオ拡声機の大ラッパは広場じゅうへ活溌な行進曲を弾き出し、全景は赤い! 赤い!
黒い壁となって河岸まで押し出した群集は、カーメンヌイ・モストのたもとで一時ホッと息をいれた。河風は涼しい。遠くで夜空を燃している光の家、労働宮のイルミネーションが夜の河面へとけ込んでいる。クレムリンの長い外壁は灯のけない暗闇だから、遠いそこだけが何とも云えず輝かしい。
五色のイルミネーションは対岸のモスクワ市発電所にもあって、三百六十四日はむっつり暗いモスクワ河の水を色とりどりにチラつかせている。
モスクワの群集はイルミネーションに対しては素朴である。群集の中から満足した笑いごえがし、或る者はそのまんま橋の欄干にもたれた。或るものは更に暗いクレムリンの外壁に沿って労働宮の方へ。
ソヴキノが照明燈(プロジェクトール)をもやして労働宮とそこへ向う群集を撮影している。橋の下では二艘ボートが若い女をのせ、イルミネーションのとけ込んでいる辺だけ小さく漕いでいる。
最近の二年間はすべてを変えた。ソヴェトの生産振興の為の五ヵ年計画は一一〇パーセントの全生産拡張プランとともに生活全線を社会主義再建設に向って勇敢にねじ向けてしまった。――
が、そのことは又別に話すとして、地図にかえろう。我々はモスクワ市の環状ブルワールを見つけたい。
一本はこれである。クレムリンを中心に一寸がたついたコムパスで大きく描いた円みたいな環状線。これは外の並木通りで、絞りをずっと縮めてゆくともう一本やっぱりクレムリンを遠巻きにして円く――そう! これが内の並木通りである。
並木通新聞(ブリヴァールナヤ・ガゼータ)という言葉がある。
先年、モスクワ駐在の不幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであろう自分の名誉という強迫観念によって、古典的なサムライの手法をもって生命を絶った。当局者の一人がその時、事件に対するヨーロッパ人らしい意外の感じを外交的表現によって云った。――私共はあんな並木通新聞(ブリヴァールナヤ・ガゼータ)なんぞのぞいたこともないので――
|並木通り(ブリヴァール)を歩くと云うことがある。これはソヴェトで「|私の知り合い(モイ・ズナコームイ)」という言葉と同様二重の意味をもっている。
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