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学生と先哲 ――予言僧日蓮―― - 倉田 百三 ( くらた ひゃくぞう )

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学生先哲 ――予言日蓮――      一 予言者のふたつの資格  日蓮理解するには予言者としての視角を離れてはならない。キリストがそうであったように、ルーテルがそうであったように、またニイチェがそうであったように、彼は時代予言者であった。普通の高僧のように彼を見るのみでは、彼のユニイクな宗教性格は釈かれない。予言者とは法を身に体現した自覚をもって、時代に向かって権威を帯びて呼びかけ価値の変革を要求する者である。予言者には宇宙真理とひとつになったという宗教的霊覚がなければならぬのは勿論であるが、さらに特に己れの生きている時代相への痛切な関心と、鋭邁な批判と、燃ゆるが如き本能的な熱愛とをもっていなければならない。普通妥当の真理への忠実公正というだけでなく、同時代への愛、――実にそのためにニイチェのいわゆる没落を辞さないところの、共存同胞のための自己犠牲を余儀なくせしめらるる「熱き腸(はらわた)」を持たねばならない。彼は永遠真理よりの命令的要素のうながしと、この同時代への本能愛の催しのために、常に衝き動かさるるが如くに、叫び、宣し、闘いつつ生きねばならなくなるのだ。倉皇として奔命し、迫害の中に、飢えと孤独忍び、しかも真理のとげ難き嘆きと、共存同悲の愍(あわれ)みの愛のために哭(なげ)きつつ一生を生きるのである。「日蓮は涙流さぬ日はなし」と彼はいった。
 日蓮日本の高僧中最も日本性格を持ったそれである。彼において、法への愛と祖国(くに)への愛とがひとつになって燃え上った。彼は仏子であって同時に国士であった。法の建てなおしと、国の建てなおしとが彼の使命の二大眼目であり、それは彼において切り離せないものであった。彼及び彼の弟子たちは皆その法名に冠するに日の字をもってし、それはわれらの祖国国号の「日本」の日であることが意識せられていた。彼は外房州の「日本で最も早く、最も旺(さか)んなる太平洋日の出」を見つつ育ち、清澄(きよすみ)山の山頂で、同じ日の出に向かって、彼の立宗開宣の題目南無妙法蓮華経」を初めて唱えたのであった。彼は「われ日本の柱とならん」といった。「名のめでたきは日本第一なり、日は東より出でて西を照らす。天然の理、誰かこの理をやぶらんや」といい、「わが日本国月氏漢土にも越え、八万の国にも勝れたる国ぞかし」ともいった。「光は東方より」の大精神はすでに彼においてあり、彼は日本主義の先駆者であった。しかも彼のそれは永遠真理の上に、祖国を築き上げんとする宗教大日本主義であった。
 彼の伝記はすでに数多い。今私がここにそれをそのまま縮写するのみでは役立つこと少ないであろう。それはくわしき伝記について見らるるにしくはない。ここには同じ宗教日本主義者として今日彼に共鳴するところの多い私が、私の目をもって見た日蓮本質性格と、特殊的相貌の把握とを、今の日本に生きつつある若き世代青年たちに、活ける示唆と、役立つべき解釈とによって伝えたいと思うのである。

     二 彼の問いと危機

 日蓮太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮日本国東夷東条安房国海辺旃陀羅(せんだら)が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国|長狭(ながさ)郡東条に貫名(ぬきな)重忠を父とし、梅菊を母として生まれ、幼名を善日麿とよんだ。
 彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄(らくはく)して漁民となったのだといわれているが、彼自身は「片海の石中(いそなか)の賤民が子」とか、「片海の海人(あま)が子也」とかいっている。ともかく彼が生まれ、育ったころには父母は漁民として「なりわい」を立てていたのだ。彼は幾度か父母につれられ、船に乗って荒海に出たに相違ない。彼の激しい性格の中には、ペテロのように、海風のいきおいが見られるのである。そこで彼はその幼時を大洋の日に焼かれた。それ故「海の児」「日の児」としての烙印が彼の性格におされた。「われ日本大船とならん」というような表現を彼は好んだ。また彼の消息には「鏡の如く、もちひのやうな」日輪の譬喩が非常に多い。
 彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退|挺特(ていとく)」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」
 日蓮出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。
それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。
 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。
 日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変である。この日本国体の順逆を犯した不祥の事変日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲(へきすい)の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。


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