寄席と芝居と - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )
一 高坐の牡丹燈籠
明治時代の落語家(はなしか)と一と口に云っても、その真打(しんうち)株の中で、いわゆる落とし話を得意とする人と、人情話を得意とする人との二種がある。前者は三遊亭円遊、三遊亭遊三、禽語楼小さんのたぐいで、後者は三遊亭円朝、柳亭燕枝、春錦亭柳桜のたぐいであるが、前者は劇に関係が少ない。ここに語るのは後者の人情話一派である。
人情話の畑では前記の円朝、燕枝、柳桜が代表的の落語家と認められている。就中(なかんずく)、円朝が近代の名人と称せられているのは周知の事実である。円朝は明治三十三年八月、六十二歳を以て世を去ったのであるから、私は高坐(こうざ)における此の人をよく識っている。例の「牡丹燈籠」や「|累ヶ淵(かさねがふち)」や「塩原多助」も聴いている。私の十七、八歳の頃、即ち明治二十一、二年の頃までは、大抵の寄席の木戸銭(入場料などとは云わない)は三銭か三銭五厘であったが、円朝の出る席は四銭の木戸銭を取る。僅かに五厘の相違であるが、「円朝は偉い、四銭の木戸を取る。」と云われていた。
さてその芸談であるが、落語家の芸を語るのは、俳優の芸を語るよりも更にむずかしい。俳優の技芸は刹那に消えるものと云いながら、その扮装の写真等によって舞台のおもかげを幾分か彷彿させることも出来るが、落語家に至ってはどうすることも出来ない。したがって、ここで何とも説明することは不可能であるが、早く云えば円朝の話し口は、柔かな、しんみりとした、いわゆる「締めてかかる」と云うたぐいであった。もし人情話も落語の一種であるというならば、円朝の話し口は少しく勝手違いの感があるべきであるが、自然に聴衆を惹き付けて、常に一時間内外の長丁場をツナギ続けたのは、確かにその話術の妙に因るのであった。
私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせて娘子供の人気を博し、かなりに気障(きざ)な芸人であったらしい。しかも明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあいだにも其の技倆を認めらるるに至ったのである。彼はその当時の寄席芸人に似合わず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にも大(おお)師匠として尊敬されていた。
明治十七、八年の頃とおぼえている。速記術というものが次第に行なわれるようになって、三遊亭円朝口演、若林|坩蔵(かんぞう)速記の「怪談牡丹燈籠」が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴(かりとじ)にした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであった。これが講談落語の速記本の嚆矢(こうし)であろうと思われるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、あわせて「牡丹燈籠」を有名ならしめ、さらに速記術というものを世間にひろく紹介することにもなったのである。
私は「牡丹燈籠」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件(くだ)りを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ。」と、母は嚇(おど)すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。」
速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥(の)んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日(こんにち)と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎(は)ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸(おび)えさせるような凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きまくっている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。
春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆で記(しる)して置いたのであるという。自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺い知られる。円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。
人情話の畑では前記の円朝、燕枝、柳桜が代表的の落語家と認められている。就中(なかんずく)、円朝が近代の名人と称せられているのは周知の事実である。円朝は明治三十三年八月、六十二歳を以て世を去ったのであるから、私は高坐(こうざ)における此の人をよく識っている。例の「牡丹燈籠」や「|累ヶ淵(かさねがふち)」や「塩原多助」も聴いている。私の十七、八歳の頃、即ち明治二十一、二年の頃までは、大抵の寄席の木戸銭(入場料などとは云わない)は三銭か三銭五厘であったが、円朝の出る席は四銭の木戸銭を取る。僅かに五厘の相違であるが、「円朝は偉い、四銭の木戸を取る。」と云われていた。
さてその芸談であるが、落語家の芸を語るのは、俳優の芸を語るよりも更にむずかしい。俳優の技芸は刹那に消えるものと云いながら、その扮装の写真等によって舞台のおもかげを幾分か彷彿させることも出来るが、落語家に至ってはどうすることも出来ない。したがって、ここで何とも説明することは不可能であるが、早く云えば円朝の話し口は、柔かな、しんみりとした、いわゆる「締めてかかる」と云うたぐいであった。もし人情話も落語の一種であるというならば、円朝の話し口は少しく勝手違いの感があるべきであるが、自然に聴衆を惹き付けて、常に一時間内外の長丁場をツナギ続けたのは、確かにその話術の妙に因るのであった。
私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせて娘子供の人気を博し、かなりに気障(きざ)な芸人であったらしい。しかも明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあいだにも其の技倆を認めらるるに至ったのである。彼はその当時の寄席芸人に似合わず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にも大(おお)師匠として尊敬されていた。
明治十七、八年の頃とおぼえている。速記術というものが次第に行なわれるようになって、三遊亭円朝口演、若林|坩蔵(かんぞう)速記の「怪談牡丹燈籠」が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴(かりとじ)にした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであった。これが講談落語の速記本の嚆矢(こうし)であろうと思われるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、あわせて「牡丹燈籠」を有名ならしめ、さらに速記術というものを世間にひろく紹介することにもなったのである。
私は「牡丹燈籠」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件(くだ)りを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ。」と、母は嚇(おど)すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。」
速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥(の)んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日(こんにち)と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎(は)ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸(おび)えさせるような凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きまくっている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。
春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆で記(しる)して置いたのであるという。自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺い知られる。円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野(こうずけ)下野(しもつけ)道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。
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