富士 - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )
人間も四つ五つのこどもの時分には草木のたたずまいを眺めて、あれがおのれに盾突くものと思い、小さい拳(こぶし)を振り上げて争う様子をみせることがある。ときとしては眺めているうちこどもはむこうの草木に気持を移らせ、風に揺ぐ枝葉と一つに、われを忘れてゆららに身体を弾ませていることがある。いずれにしろ稚純な心には非情有情の界を越え、彼(ひ)と此(し)の区別を無(な)みする単直なものが残っているであろう。
天地もまだ若く、人間もまだ稚純な時代であった。自然と人とは、時には獰猛(どうもう)に闘い、時には肉親のように睦(むつ)び合った。けれどもその闘うにしろ睦ぶにしろ両者の間には冥通する何物かがあった。自然と人とは互に冥通する何者かを失うことなしに或は争い或は親しんだ。
ここに山を愛し、山に冥通するがゆえに、山の祖神(おやのかみ)と呼ばるる翁(おきな)があった。西国に住んでいた。
平地に突兀(とつこつ)として盛り上る土積。山。翁は手を翳(かざ)して眺める。翁は須臾(しゅゆ)にして精神のみか肉体までも盛り上る土堆と関聯した生理的感覚を覚える。わが肉体が大地となって延長し、在るべき凸所に必定在る凸所として、山に健やけきわが肉体の一部の発育をみた。
翁は、時には、手を長くさし出して地平の線に指尖を擬する。地平の線には立木の林が陽を享けて薄(すすき)の群れのように光っている。翁は地平のかなたの端から、擬した指尖を徐(おもむ)ろに目途(めじ)の正面へと撫(な)で移して行く。そこに距離の間隔はあれども無きが如く、翁の擬して撫で来る指の腹に地平の林は皮膚のうぶ毛のように触れられた。いつまでも平(たいら)の続く地平線を撫で移って行く感覚は退屈なものである。人間の翁がそう感ずると等しく、自然自体も感ずるのであろうか、翁の指尖が目途の正面を越して反対側へ撫で移るまもないところから地平は隆起し、麓(ふもと)から中腹にさしかかり、ついに聳(そび)え立つ峯巒(ほうらん)となる。遠方から翁の指尖はこつに嵌(はま)ったその飛躍の線に沿うて撫で移って行くと音楽のような楽しいリズムを指の腹に感ずる。地の高まりというものは何と心を昂揚さすものであろう。人を悠久に飽かしめない感動点として山は天地間に造られているのであろう。
火の端(はた)で翁は、つれづれであった。翁は腕を動かして自分の肉体の凸所を撫でまわす。肩尖、膝頭、臀部、あたま――翁の眼中、一々、その凸所の形に似通う山の姿が触覚より視覚へ通じ影像となって浮んで来た。
山処(やまと)の
ひと本すゝぎ
朝雨(あささめ)の
狭霧(さぎり)に将起(たゝん)ぞ
翁は身体を撫でながら愛に絶えないような声調で、微吟した。
山又山の峯の重なりを望むときの翁は、何となく焦慮を感じた。対象するもののあまりに豊量なのに惑喜させられたからだった。翁は掌を裏返しに脇腹を焦(じ)れったそうに掻いた。
峯々に雲がかかっているときは、翁は憂(うれた)げな眼を伏せてはまた開いて眺めた。藍墨の曇りの掃毛目(はけめ)の見える大空から雲は剥(はが)れてまくれ立った。灰いろと葡萄(ぶどう)いろの二流れの雲は峯々を絡み、うずめ、解けて棚引く。峯々の雲は日のある空へ棚引いては消え去る。消え去るあとからあとから、藍墨の掃毛目の空は剥離して雲を供給する。峯はいつまで経っても憂愁の纏流(てんりゅう)から免れ得ないようである。それを見ている翁は、心中それほどの苦悩もないのだが、眼だけでも峯の愁いに義理を感じて、憂げに伏せてはまた開くのであった。そのうち翁は眼が怠(だる)くなって草原へごろりと臥(ね)てしまった。雲の去来は翁の眠っている暇にも続けられていた。だが、やがて雲は流れ尽き、峯は胸から下界へ向けて虹をかけ渡していた。
西国にて知れる限りの山々を翁はみな自分の分身のように感じられた。翁は山々を愛するがゆえに、それ等の山々の美醜長短を、人間の性格才能のように感じ取った。事実、山には一目見ただけでも傲慢であったり、独りよがりのお人好しであったりしそうな性格に見立てられるものがある。翁がみるところによると、どの山の性格でも翁自身の性格の中に無い性格はなかった。中には自分に潜んでいて、却(かえ)って山に現れ出て、逆に自分に気付かせられるようなこともあった。翁は山を愛するが、しかし山を惧(おそ)れ、そして最後に山を信じた。
翁は妻との間にたくさんこどもを生んだ。こどもが生れて一人動きできるようになると、翁はこれを山に持って行って置いて来た。
山の麓にこどもを置去りにして来て、果してそれで育つものかどうか危ぶまれた。しかしどこへ置いたところでその幸(さち)のないものは、育った方が却って面白からぬことになるような育ち上りをしてしまうかも知れない。
天地もまだ若く、人間もまだ稚純な時代であった。自然と人とは、時には獰猛(どうもう)に闘い、時には肉親のように睦(むつ)び合った。けれどもその闘うにしろ睦ぶにしろ両者の間には冥通する何物かがあった。自然と人とは互に冥通する何者かを失うことなしに或は争い或は親しんだ。
ここに山を愛し、山に冥通するがゆえに、山の祖神(おやのかみ)と呼ばるる翁(おきな)があった。西国に住んでいた。
平地に突兀(とつこつ)として盛り上る土積。山。翁は手を翳(かざ)して眺める。翁は須臾(しゅゆ)にして精神のみか肉体までも盛り上る土堆と関聯した生理的感覚を覚える。わが肉体が大地となって延長し、在るべき凸所に必定在る凸所として、山に健やけきわが肉体の一部の発育をみた。
翁は、時には、手を長くさし出して地平の線に指尖を擬する。地平の線には立木の林が陽を享けて薄(すすき)の群れのように光っている。翁は地平のかなたの端から、擬した指尖を徐(おもむ)ろに目途(めじ)の正面へと撫(な)で移して行く。そこに距離の間隔はあれども無きが如く、翁の擬して撫で来る指の腹に地平の林は皮膚のうぶ毛のように触れられた。いつまでも平(たいら)の続く地平線を撫で移って行く感覚は退屈なものである。人間の翁がそう感ずると等しく、自然自体も感ずるのであろうか、翁の指尖が目途の正面を越して反対側へ撫で移るまもないところから地平は隆起し、麓(ふもと)から中腹にさしかかり、ついに聳(そび)え立つ峯巒(ほうらん)となる。遠方から翁の指尖はこつに嵌(はま)ったその飛躍の線に沿うて撫で移って行くと音楽のような楽しいリズムを指の腹に感ずる。地の高まりというものは何と心を昂揚さすものであろう。人を悠久に飽かしめない感動点として山は天地間に造られているのであろう。
火の端(はた)で翁は、つれづれであった。翁は腕を動かして自分の肉体の凸所を撫でまわす。肩尖、膝頭、臀部、あたま――翁の眼中、一々、その凸所の形に似通う山の姿が触覚より視覚へ通じ影像となって浮んで来た。
山処(やまと)の
ひと本すゝぎ
朝雨(あささめ)の
狭霧(さぎり)に将起(たゝん)ぞ
翁は身体を撫でながら愛に絶えないような声調で、微吟した。
山又山の峯の重なりを望むときの翁は、何となく焦慮を感じた。対象するもののあまりに豊量なのに惑喜させられたからだった。翁は掌を裏返しに脇腹を焦(じ)れったそうに掻いた。
峯々に雲がかかっているときは、翁は憂(うれた)げな眼を伏せてはまた開いて眺めた。藍墨の曇りの掃毛目(はけめ)の見える大空から雲は剥(はが)れてまくれ立った。灰いろと葡萄(ぶどう)いろの二流れの雲は峯々を絡み、うずめ、解けて棚引く。峯々の雲は日のある空へ棚引いては消え去る。消え去るあとからあとから、藍墨の掃毛目の空は剥離して雲を供給する。峯はいつまで経っても憂愁の纏流(てんりゅう)から免れ得ないようである。それを見ている翁は、心中それほどの苦悩もないのだが、眼だけでも峯の愁いに義理を感じて、憂げに伏せてはまた開くのであった。そのうち翁は眼が怠(だる)くなって草原へごろりと臥(ね)てしまった。雲の去来は翁の眠っている暇にも続けられていた。だが、やがて雲は流れ尽き、峯は胸から下界へ向けて虹をかけ渡していた。
西国にて知れる限りの山々を翁はみな自分の分身のように感じられた。翁は山々を愛するがゆえに、それ等の山々の美醜長短を、人間の性格才能のように感じ取った。事実、山には一目見ただけでも傲慢であったり、独りよがりのお人好しであったりしそうな性格に見立てられるものがある。翁がみるところによると、どの山の性格でも翁自身の性格の中に無い性格はなかった。中には自分に潜んでいて、却(かえ)って山に現れ出て、逆に自分に気付かせられるようなこともあった。翁は山を愛するが、しかし山を惧(おそ)れ、そして最後に山を信じた。
翁は妻との間にたくさんこどもを生んだ。こどもが生れて一人動きできるようになると、翁はこれを山に持って行って置いて来た。
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