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寒さ - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

  • 朗読CD 朗読街道30「魔術・妙な話・春の夜」芥川龍之介
  • 「芥川龍之介」 関口安義   岩波新書
  • ◆◇ 芥川龍之介 著「羅生門・鼻」(新潮文庫) ◇◆
  • 朗読CD 朗読街道28「トロッコ・蜜柑・片恋・他」芥川龍之介
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  • 芥川龍之介◆侏儒の言葉・西方の人◆続西方の人収録
  • 別冊毎日グラフ 芥川龍之介 生誕百年、そして今
  • 絶版■芥川龍之介【邪宗門・杜子春】新潮文庫帯/昭和42年/葱.秋
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芥川龍之介  ある雪上(ゆきあが)りの午前だった。保吉(やすきち)は物理教官室の椅子(いす)にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色(きいろ)に燃え上ったり、どす黒い灰燼(かいじん)に沈んだりした。それは室内に漂(ただよ)う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、赤あかと熱した石炭何か同情に近いものを感じた。
堀川(ほりかわ)君。」
 保吉はストオヴの前に立った宮本(みやもと)と云う理学士の顔を見上げた。近眼鏡(きんがんきょう)をかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭(くちひげ)の薄い唇(くちびる)に人の好(い)い微笑を浮べていた。
堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」
動物だと云うことは知っているが。」
動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果最近発見した真理なんだがね。」
堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目(まじめ)に聞いてはいけませんよ。」
 これはもう一人物理教官、――長谷川(はせがわ)と云う理学士の言葉だった。保吉は彼をふり返った。長谷川は保吉の後(うし)ろの机に試験の答案を調べかけたなり、額の禿(は)げ上(あが)った顔中に当惑そうな薄笑いを漲(みなぎ)らせていた。
「こりゃ怪(け)しからん。僕の発見長谷川君を大いに幸福にしているはずじゃないか?――堀川君、君は伝熱作用法則を知っているかい?」
「デンネツ? 電気の熱か何かかい?」
「困るなあ、文学者は。」
 宮本はそう云う間(あいだ)にも、火の気(け)の映(うつ)ったストオヴの口へ一杯の石炭を浚(さら)いこんだ。
温度の異なる二つの物体を互に接触(せっしょく)せしめるとだね、熱は高温度物体から低温度物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」
当り前じゃないか、そんなことは?」
「それを伝熱作用法則と云うんだよ。さて女を物体とするね。好(い)いかい? もし女を物体とすれば、男も勿論物体だろう。すると恋愛は熱に当る訣(わけ)だね。今この男女接触せしめると、恋愛の伝わるのも伝熱のように、より逆上(ぎゃくじょう)した男からより逆上していない女へ、両者の恋愛の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるはずだろう。長谷川君の場合などは正にそうだね。……」
「そおら、はじまった。」
 長谷川はむしろ嬉しそうに、擽(くすぐ)られる時に似た笑い声を出した。
「今Sなる面積を通し、T時間内に移る熱量をEとするね。すると――好(い)いかい? Hは温度、Xは熱伝導(ねつでんどう)の方面に計(はか)った距離、Kは物質により一定されたる熱伝導率だよ。すると長谷川君の場合はだね。……」
 宮本は小さい黒板公式らしいものを書きはじめた。が、突然ふり返ると、さもがっかりしたように白墨(はくぼく)の欠(かけ)を抛(ほう)り出した。
「どうも素人(しろうと)の堀川君を相手じゃ、せっかくの発見の自慢(じまん)も出来ない。――とにかく長谷川君の許嫁(いいなずけ)なる人は公式通りにのぼせ出したようだ。」
「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが。」
 保吉は長ながと足をのばし、ぼんやり窓の外の雪景色を眺めた。この物理教官室は二階の隅に当っているため、体操器械のあるグラウンドや、グラウンドの向うの並松(なみまつ)や、そのまた向うの赤煉瓦(あかれんが)の建物を一目(ひとめ)に見渡すのも容易だった。海も――海は建物建物との間(あいだ)に薄暗い波を煙(けむ)らせていた。
「その代りに文学者は上(あが)ったりだぜ。――どうだい、この間出した本の売れ口は?」
「不相変(あいかわらず)ちっとも売れないね。作者読者との間には伝熱作用も起らないようだ。――時に長谷川君の結婚はまだなんですか?」
「ええ、もう一月ばかりになっているんですが、――その用もいろいろあるものですから、勉強出来ないのに弱っています。」
勉強出来ないほど待ち遠しいかね。」
宮本さんじゃあるまいし、第一|家(いえ)を持つとしても、借家(しゃくや)のないのに弱っているんです。現にこの前の日曜などにはあらかた市中を歩いて見ました。けれどもたまに明(あ)いていたと思うと、ちゃんともう約定済(やくじょうず)みになっているんですからね。」
「僕の方じゃいけないですか? 毎日学校へ通うのに汽車へ乗るのさえかまわなければ。」
「あなたの方じゃ少し遠すぎるんです。


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