寒の梅 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
一月○日
朝飯をたべて、暫く休んで、入浴してかえって横になっていると、傷の写真をとりますから腹帯(ふくたい)はあとになすって下さいということだ。やがて、白い上っぱりを着た写真師が助手をつれて入って来て、ベッドに仰むきに臥ている自分の右側のおなかの傷に向って高いところからアングルをとって写してゆく。もういいのかと思ったら富田さんがいそいで来て、木村先生が御自分でいらっしゃってからおとりになるんだそうですからと云うことだ。若い写真師は廊下で待ちどおしそうにしている。木村先生がひとりで来られ、写真師もまた入って来た。木村先生は粉はないか、何でもいいととりよせた白いこなを傷のところにかけ、この辺からこうずーっと入るようにと指図して、傷に添って小さい物尺をおなかの上に置いた。ホウ、一センチ七ばかりですね。二センチもないじゃないか。御満悦の態である。私も勿論大変うれしい。切ったとき傷は六センチぐらいあったのが、そんなに小さくちぢんだ。癒せるものなら人間の体へは出来るだけ小さく傷をつけるというのが、木村先生のモットウである由。元日に外科では手術室をすっかり片づけて恒例福引をし、今年は木村先生の盲腸の手術、指も入らない、で子供の指環をとった看護婦があったそうだ。
おなかの丸みで、細い医療用の物尺がうまくおさまっていない。木村先生はベッドの裾の方から廻って窮屈な形に肱をつき、自分で物尺を持ってあてがいながら、ずーっとこの辺入るかね? と些か堅くなっている写真師の手元を熱心に見上げて居られる。自分の仕事にすっかりうちはまって集注的に単純になっている先生の様子はなかなか興味があった。そして共感をそそる味いに溢れている。
○ 午後、建物の内廊下を歩き初め。傷のところをぎゅっと抑えて歩く。それでも胃の方を引っぱるようで気分がわるい。いい加減で中止。
○ バラさん風呂。一人で椅子にかけ、窓の高いところから青い冬空と風にゆられている樹の梢を眺めている。廊下では例によってフランスのお爺さんと毛糸屋さんとが特徴のある年よりらしい甲高声で、何とか何とかネスパ? ああウイウイと話しながら往ったり来たりしている。
このごろは、体じゅう引き潮加減ながら調和した感じなのだが、まだ時々、肉体の内にのこっている衝撃のようなものが甦って来る。ああ苦しかったなあ、と思う。それにつれて、目の前の宙で何か透き徹って小さいものが実に容赦なくキュッキュッと廻って止った、という感じがする。透明なものは生と死で、切迫した時間のうちにキリキリといくつか廻り、生がこっち向いてぴたッと停った、そんな感じだ。これは異様な、愕きをともなった感覚であって、まるで風の音もきこえない暖い病室で臥たり、笑ったりしている平穏な自分の内部に折々名状しがたい瞬間となって浮び出て来る。やっぱり腹を切るというのは相当のこと也。
○ 手術した晩に、安らかな気持なのだが頭の中がオレンジ色がかった明るさで、いかにも譫語が云いたくてたまらなかったのは面白い。薬のためにああいう状態になっているときの譫語は、全く我を知らずに口走るのではなくて、先ず、何かとりとめなく喋りたいという明瞭な欲望が感じられた。ああいうとき、頭でも撫でられていたら、その欲望に身をまかせてきっと、どっさり喋っただろうと思う。傷の癒着と、こういう全身的な衝撃の余韻とがおなじテムポで消えないで、傷は日に日によくなっても、疲れが奥深いところにある。
○ 鴎外の「妻への手紙」。明治三十七八年という時代の色、匂いが何と高いだろう。手紙の書かれた環境も、部分的ではあるがまざまざと見える。鴎外は、お前さんという呼びかたで夫人をよび、子供の着物のきせかたから、良人の心をうたった和歌の解釈までしてやっている。自分の精神の世界の複雑さと、細君の世俗的な心のありようとの相異、甚しい距離をそれなりに認めた上で、ちょいちょい向上のことも云っている。どこまでも教えてやるという態度で。漱石のむきな夫婦げんか、男と女との交渉の見かたとの対比。
○ 夜、寿江子、和服を着て来るや否やしめつけない帯がずるずるになったと云って、バラさんに直して貰っている。
一月○日
十日に入営する隆ちゃんより来信。点呼のとき青年団員が復唱するような勇壮な調子で入営について書いてあり、又ほのかな思い出を家にのこしてとても優しく書いてあったり。姉上の御全快と御幸福をおいのりいたします。そして最後に「これにてペンにブレーキをかけます」この純真な若者は、次兄の出征の留守、トラックを運転しているのだ。思わず笑い、同時に胸がいっぱいになる。深く動かされた。
一月○日
今、夜の七時すぎ。絶え間なくギーとあいてバタンと閉る戸のあおり。
おなかの丸みで、細い医療用の物尺がうまくおさまっていない。木村先生はベッドの裾の方から廻って窮屈な形に肱をつき、自分で物尺を持ってあてがいながら、ずーっとこの辺入るかね? と些か堅くなっている写真師の手元を熱心に見上げて居られる。自分の仕事にすっかりうちはまって集注的に単純になっている先生の様子はなかなか興味があった。そして共感をそそる味いに溢れている。
○ 午後、建物の内廊下を歩き初め。傷のところをぎゅっと抑えて歩く。それでも胃の方を引っぱるようで気分がわるい。いい加減で中止。
○ バラさん風呂。一人で椅子にかけ、窓の高いところから青い冬空と風にゆられている樹の梢を眺めている。廊下では例によってフランスのお爺さんと毛糸屋さんとが特徴のある年よりらしい甲高声で、何とか何とかネスパ? ああウイウイと話しながら往ったり来たりしている。
このごろは、体じゅう引き潮加減ながら調和した感じなのだが、まだ時々、肉体の内にのこっている衝撃のようなものが甦って来る。ああ苦しかったなあ、と思う。それにつれて、目の前の宙で何か透き徹って小さいものが実に容赦なくキュッキュッと廻って止った、という感じがする。透明なものは生と死で、切迫した時間のうちにキリキリといくつか廻り、生がこっち向いてぴたッと停った、そんな感じだ。これは異様な、愕きをともなった感覚であって、まるで風の音もきこえない暖い病室で臥たり、笑ったりしている平穏な自分の内部に折々名状しがたい瞬間となって浮び出て来る。やっぱり腹を切るというのは相当のこと也。
○ 手術した晩に、安らかな気持なのだが頭の中がオレンジ色がかった明るさで、いかにも譫語が云いたくてたまらなかったのは面白い。薬のためにああいう状態になっているときの譫語は、全く我を知らずに口走るのではなくて、先ず、何かとりとめなく喋りたいという明瞭な欲望が感じられた。ああいうとき、頭でも撫でられていたら、その欲望に身をまかせてきっと、どっさり喋っただろうと思う。傷の癒着と、こういう全身的な衝撃の余韻とがおなじテムポで消えないで、傷は日に日によくなっても、疲れが奥深いところにある。
○ 鴎外の「妻への手紙」。明治三十七八年という時代の色、匂いが何と高いだろう。手紙の書かれた環境も、部分的ではあるがまざまざと見える。鴎外は、お前さんという呼びかたで夫人をよび、子供の着物のきせかたから、良人の心をうたった和歌の解釈までしてやっている。自分の精神の世界の複雑さと、細君の世俗的な心のありようとの相異、甚しい距離をそれなりに認めた上で、ちょいちょい向上のことも云っている。どこまでも教えてやるという態度で。漱石のむきな夫婦げんか、男と女との交渉の見かたとの対比。
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2000年11月◆川崎ロック - STRIPwiki - STRIPwiki
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