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小さき者へ - 有島 武郎 ( ありしま たけお )

  • ○有島武郎『小さき者へ生まれ出づる悩み』岩波文庫/昭15年初版
  • 有島武郎「小さき者へ」角川文庫昭和42年発行
  • 古本 小さき者へ生まれ出づる悩み 有島武郎
  • 岩波文庫 有島武郎 「小さき者へ 生まれいずる悩み
  • ●有島武郎【小さき者へ・生れ出づる悩み】新潮文庫
  • ★有島武郎 或る女 小さき者へ
  • 新潮文庫 小さき者へ・生れ出づる悩み 有島武郎
  • 有島武郎 日本文学全集 集英社 みかん虫,小さき者へ,ドモ又の死
  • 岩波文庫【小さき者へ】有島武郎 (プチソフト1)
  • 小さき者へ・生れ出づる悩み 有島武郎著 新潮文庫
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 お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡(くりひろ)げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映(うつ)るか、それは想像出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤(わら)い憐(あわ)れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為(た)めにそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固(がんこ)なのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く
 お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復(かいふく)の途(みち)なく不幸だ。不幸なものたちよ。
 暁方(あけがた)の三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中に拡(ひろ)がったのは今から思うと七年前の事だ。それは吹雪(ふぶき)も吹雪北海道ですら、滅多(めった)にはないひどい吹雪の日だった。市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子(ガラス)に吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮(さえぎ)って、夜の暗さがいつまでも部屋から退(ど)かなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地に呻(うめ)き苦しんだ。私は一人学生一人女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息(いき)をついて安堵(あんど)したが、昼になっても昼過ぎになっても出産模様が見えないで、産婆看護婦の顔に、私だけに見える気遣(きづか)いの色が見え出すと、私は全く慌(あわ)ててしまっていた。書斎に閉じ籠(こも)って結果を待っていられなくなった。私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起る度毎(たびごと)に産婆は叱るように産婦を励まして、一分も早く産を終らせようとした。然し暫(しばら)くの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠り落ちてしまった。鼾(いびき)さえかいて安々と何事も忘れたように見えた。産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師昏睡(こんすい)が来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。
 昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮(しず)まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯(たわむ)れるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽(おお)い被(かぶ)さった。医師医師で、産婆産婆で、私は私で、銘々(めいめい)の不安に捕われてしまった。その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵(ふち)に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々(こんこん)として死の方へ眠って行った。
 丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼(まぶた)を開いて、あてどもなく一所(ひとところ)を睨(にら)みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師産婆場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。
 ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙(あ)げて見た。産婆の膝許(ひざもと)には血の気のない嬰児(えいじ)が仰向けに横たえられていた。産婆は毬(まり)でもつくようにその胸をはげしく敲(たた)きながら、葡萄酒(ぶどうしゅ)葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒を盥(たらい)の中にあけろと命じた。


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