少年 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )
芥川龍之介
一 クリスマス
昨年のクリスマスの午後、堀川保吉(ほりかわやすきち)は須田町(すだちょう)の角(かど)から新橋行(しんばしゆき)の乗合自働車に乗った。彼の席だけはあったものの、自働車の中は不相変(あいかわらず)身動きさえ出来ぬ満員である。のみならず震災後の東京の道路は自働車を躍(おど)らすことも一通りではない。保吉はきょうもふだんの通り、ポケットに入れてある本を出した。が、鍛冶町(かじちょう)へも来ないうちにとうとう読書だけは断念した。この中でも本を読もうと云うのは奇蹟(きせき)を行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者(しょうじゃ)なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。
宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁(てつぶち)のパンス・ネエをかけた、鶏のように顔の赤い、短い頬鬚(ほおひげ)のある仏蘭西(フランス)人である。保吉は横目を使いながら、ちょっとその本を覗(のぞ)きこんだ、Essai sur les ……あとは何だか判然しない。しかし内容はともかくも、紙の黄ばんだ、活字の細(こま)かい、とうてい新聞を読むようには読めそうもない代物(しろもの)である。
保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想に耽(ふけ)り出した。――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安を護(まも)っている。勿論(もちろん)異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔(つば)の広い帽子の上に、逆立(さかだ)ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白(めじろ)押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談(じょうだん)を云い合っている。おや、一人の小天使は耳の穴の中から顔を出した。そう云えば鼻柱の上にも一人、得意そうにパンス・ネエに跨(またが)っている。……
自働車の止まったのは大伝馬町(おおでんまちょう)である。同時に乗客は三四人、一度に自働車を降りはじめた。宣教師はいつか本を膝(ひざ)に、きょろきょろ窓の外を眺めている。すると乗客の降り終るが早いか、十一二の少女が一人、まっ先に自働車へはいって来た。褪紅色(たいこうしょく)の洋服に空色の帽子(ぼうし)を阿弥陀(あみだ)にかぶった、妙に生意気(なまいき)らしい少女である。少女は自働車のまん中にある真鍮(しんちゅう)の柱につかまったまま、両側の席を見まわした。が、生憎(あいにく)どちら側にも空(あ)いている席は一つもない。
「お嬢さん。ここへおかけなさい。」
宣教師は太い腰を起した。言葉はいかにも手に入った、心もち鼻へかかる日本語である。
「ありがとう。」
少女は宣教師と入れ違いに保吉の隣りへ腰をかけた。そのまた「ありがとう」も顔のように小(こ)ましゃくれた抑揚(よくよう)に富んでいる。保吉は思わず顔をしかめた。由来子供は――殊に少女は二千年|前(ぜん)の今月今日、ベツレヘムに生まれた赤児(あかご)のように清浄無垢(しょうじょうむく)のものと信じられている。しかし彼の経験によれば、子供でも悪党のない訣(わけ)ではない。それをことごとく神聖がるのは世界に遍満(へんまん)したセンティメンタリズムである。
「お嬢さんはおいくつですか?」
宣教師は微笑(びしょう)を含んだ眼に少女の顔を覗(のぞ)きこんだ。少女はもう膝の上に毛糸の玉を転がしたなり、さも一かど編めるように二本の編み棒を動かしている。それが眼は油断なしに編み棒の先を追いながら、ほとんど媚(こび)を帯びた返事をした。
「あたし? あたしは来年十二。」
「きょうはどちらへいらっしゃるのですか?」
「きょう? きょうはもう家(うち)へ帰る所なの。」
自働車はこう云う問答の間に銀座の通りを走っている。走っていると云うよりは跳(は)ねていると云うのかも知れない。ちょうど昔ガリラヤの湖(みずうみ)にあらしを迎えたクリストの船にも伯仲(はくちゅう)するかと思うくらいである。宣教師は後(うし)ろへまわした手に真鍮(しんちゅう)の柱をつかんだまま、何度も自働車の天井へ背(せい)の高い頭をぶつけそうになった。しかし一身の安危(あんき)などは上帝(じょうてい)の意志に任せてあるのか、やはり微笑を浮かべながら、少女との問答をつづけている。
「きょうは何日(なんにち)だか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」
保吉はもう一度顔をしかめた。
宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁(てつぶち)のパンス・ネエをかけた、鶏のように顔の赤い、短い頬鬚(ほおひげ)のある仏蘭西(フランス)人である。保吉は横目を使いながら、ちょっとその本を覗(のぞ)きこんだ、Essai sur les ……あとは何だか判然しない。しかし内容はともかくも、紙の黄ばんだ、活字の細(こま)かい、とうてい新聞を読むようには読めそうもない代物(しろもの)である。
保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想に耽(ふけ)り出した。――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安を護(まも)っている。勿論(もちろん)異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔(つば)の広い帽子の上に、逆立(さかだ)ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白(めじろ)押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談(じょうだん)を云い合っている。おや、一人の小天使は耳の穴の中から顔を出した。そう云えば鼻柱の上にも一人、得意そうにパンス・ネエに跨(またが)っている。……
自働車の止まったのは大伝馬町(おおでんまちょう)である。同時に乗客は三四人、一度に自働車を降りはじめた。宣教師はいつか本を膝(ひざ)に、きょろきょろ窓の外を眺めている。すると乗客の降り終るが早いか、十一二の少女が一人、まっ先に自働車へはいって来た。褪紅色(たいこうしょく)の洋服に空色の帽子(ぼうし)を阿弥陀(あみだ)にかぶった、妙に生意気(なまいき)らしい少女である。少女は自働車のまん中にある真鍮(しんちゅう)の柱につかまったまま、両側の席を見まわした。が、生憎(あいにく)どちら側にも空(あ)いている席は一つもない。
「お嬢さん。ここへおかけなさい。」
宣教師は太い腰を起した。言葉はいかにも手に入った、心もち鼻へかかる日本語である。
「ありがとう。」
少女は宣教師と入れ違いに保吉の隣りへ腰をかけた。そのまた「ありがとう」も顔のように小(こ)ましゃくれた抑揚(よくよう)に富んでいる。保吉は思わず顔をしかめた。由来子供は――殊に少女は二千年|前(ぜん)の今月今日、ベツレヘムに生まれた赤児(あかご)のように清浄無垢(しょうじょうむく)のものと信じられている。しかし彼の経験によれば、子供でも悪党のない訣(わけ)ではない。それをことごとく神聖がるのは世界に遍満(へんまん)したセンティメンタリズムである。
「お嬢さんはおいくつですか?」
宣教師は微笑(びしょう)を含んだ眼に少女の顔を覗(のぞ)きこんだ。少女はもう膝の上に毛糸の玉を転がしたなり、さも一かど編めるように二本の編み棒を動かしている。それが眼は油断なしに編み棒の先を追いながら、ほとんど媚(こび)を帯びた返事をした。
「あたし? あたしは来年十二。」
「きょうはどちらへいらっしゃるのですか?」
「きょう? きょうはもう家(うち)へ帰る所なの。」
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「きょうは何日(なんにち)だか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
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