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山と雪の日記 - 板倉 勝宣 ( いたくら かつのぶ )

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   夏の日記       大正池  峰々の谷に抱かれた雪の滴を集めて流れて、梓川細長上高地平原を、焼岳の麓まできた時に、神の香炉から流れ出たラヴァはたちまちにその流れを阻んだ。岩に激してきた水は、焼岳の麓の熊笹をひたし、白樺の林をひたして対岸の霞沢岳の麓に及んだ。いままでゴーゴーと流れる谷川の水はここにきて、たちまち死んだようになみなみとたたえた緑藍色の湖の中に吸いこまれて行く。その中に枯れた白樺の林が、ツクツク影を写して立つ。焼の麓の岸は急で、熊笹は水の中までつかっている。池の辺の熊笹は、丈より高かった。中をわけて行くと、ガサゴソと大変やかましい音がして、世の中は熊笹の音ばかりになってしまう。岸に出た。むやみと急である。ずれ落ちると濃藍の、このうすきみの悪い水に落ちなければならない。やっと、水の辺に下りて、やや平らな中に熊笹をわけて腰を下ろした。光線のさしこんだところはグリーンから底に行くほど、藍色に変って行く。そしてその中に、いわなの斑点のある身体が、二匹も三匹も動いている。鰭(ひれ)の動くのさえ鰓(えら)のひらくのさえ見える。この水の上に、小さな虫が落ちると、今まで下の方ですましていた奴が、いきなり上を向いて突進してくる。パクッと、あたりの静けさを破る音とともに、虫は水の下へ、魚の腹へ、消えて行く。一面にたたえた水をへだてて、対岸に霞沢岳左手に岩ばかりの穂高の頭が雲の中に出ている。Y字形雪谷と、その上に噛みあった雪とが、藍色の水と相対して、一種の凄みがある。水の中に立った白樺のめぐりを、水にすれすれに円を画いて五、六匹の白蝶が、ひらひらひらとたわむれていたが、そのうちの一匹は、力がつきたのか、水の上にぱたりと落ちた。疲れた翼を励まして水を打ったが、二、三寸滑走してまた落ちた。ぱたぱたぱた水の中でもがく。友に救いを求めるように。そしてその小さな波が、岸の熊笹の葉を動かした時に、パッと音がして白蝶の姿は藍色の水に吸いこまれた。あとに小さな渦が一つ、二、三寸、左のほうへ動いて行って、スーッと消えた。霞沢岳の影と白樺の影が、一緒になって、ぶるぶると震えている。哀れとはこんな感じであろう。あたりは、いたって静かだ。相変らず蝶を呑むいわなが水の中を動いている。水の中に悪魔がいる。大正池は魔の池である。

      上高地の月

 井戸の中の蛙が見たら、空はこんなにも美しいものかと、私はいつも上高地の夜の空を見るたびに思った。空の半分は広い河原を隔てて、僅か六町さきの麓から屏風のようにそそり立った六百山霞沢岳のためにさえぎられて、空の一部しか見ることができない。夜になると、この六百と霞がまっ黒にぬりつぶざれて、その頂上に悪魔の歯を二本立てたような岩が、うす白く輪かくを表わす。そしてこの大きな暗黒の下に、広い河原流れる梓川の音が凄く、暗闇に響く。ある日この頂上の上に、月が出た。小さいが、強い光の月だ。白い雲が、悪魔呼吸のように、白い歯の影から、月を目がけて吹きかけて行くが、月のところにくると光にあった幽霊のごとくに消えうすれて行く。時には、月が動いているようにも見えた。霞の暗黒の下で、広い河原が月に照らされてその中の急流に、月が落ちて、くだかれて洗われている。水の面には白い霞がたなびいて、そこから風が起こるのか、すぐ傍の柳は、月の光を吸いながら、ゆるやかに動いていた。河辺にたつと月の光はくだけているばかりか、水の中に浸みこんで行く。河に沿うて、高峰の月を見ながら、流れの音を聞きながら歩いた。夜露がすっかり草の上に下りて、あたりの空気はひどくしめっぽかった。白樺が闇に浮く路を、黙って歩くと、いい得ぬ思いが胸にわく。焼は少し白く見えた。穂高はほとんど暗かった。いま穂高の上にいたらばと思って、一人でくやしかった。

      霞沢岳

 頂上は狭い。三角標の下に腰を下ろすと、そこいらのはい松の上で、ぶよのなく声が聞えてくる。日光は、はい松の上にも黄色い花の上にも一面にあたって、そこらの植物は光を迎え、その愛にひたっているように見えた。


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