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岩石の間 - 島崎 藤村 ( しまざき とうそん )

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 懐古園の城門に近く、桑畠(くわばたけ)の石垣の側で、桜井先生は正木大尉に逢った。二人は塾の方で毎朝合せている顔を合せた。
 大尉は塾の小使に雇ってある男を尋ね顔に、
「音(おと)はどうしましたろう」
「中棚の方でしょうよ」桜井先生が答えた。
 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間(たにあい)で、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。
 浅間の麓(ふもと)に添うた傾斜の地勢は、あだかも人工掘割られたように、小諸城址(こもろじょうし)の附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲(とりま)いているが、その桑畠や竹薮(たけやぶ)を背(うしろ)にしたところに桜井先生住居(すまい)があった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大体躯(からだ)を運んで行った。
 谷々は緑葉に包まれていた。二人は高い崖(がけ)の下道に添うて、耕地のある岡の上へ出た。起伏する地の波はその辺で赤土まじりの崖に成って、更に河原続きの谷底の方へ落ちている。崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊(いしころ)を片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。
 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性質、新浴場設計などで持切った。千曲川(ちくまがわ)への水泳の序(ついで)に、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した。生徒等が戯れに突落す石は、他の石にぶつかったり、土煙を立てたりして、ゴロゴロ崖下の方へ転がって行った。
 堀起された岩の間を廻って、先生方はかわるがわる薄暗い穴の中を覗(のぞ)き込んだ。浮き揚った湯の花はあだかも陰気な苔(こけ)のように周囲(まわり)の岩に附着して、極く静かに動揺していた。
 新浴場位置は略(ほぼ)崖下の平地と定(きま)った。荒れるに任せた谷陰には椚林(くぬぎばやし)などの生(お)い茂ったところもある。桜井先生大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉|側(わき)に移そうという話を大尉にした。
 対岸に見える村落、野趣のある釣橋(つりばし)、河原つづきの一帯の平地、遠い近い山々――それらの眺望は先生方を悦(よろこ)ばせた。日あたりの好いことも先生方を悦ばせた。この谷間は割合に豊饒(ほうじょう)で、傾斜の上の方まで耕されている。眼前(めのまえ)に連なる青田は一面緑の波のように見える。士族地からここへ通って来るということも先生方を悦ばせた。あの樹木の蔭の多い道は大尉住居(すまい)からもさ程遠くはなかった。
 その翌日から、桜井先生は塾の方で自分の受持を済まして置いて、暇さえあればここへ見廻りに来た。崖下に浴場経営しようとする人などが廻って来ないことはあっても、先生の姿を見ない日は稀(まれ)だった。そして、そこに土管伏せられるとか、ここに石垣の石が運ばれるとか、何かしらずつ変ったものが先生の眼に映った。河原続きの青田が黄色成りかける頃には、先生の小さな別荘も日に日に形を成して行った。霜の来ないうちに早くと、崖の上でも下でも工事を急いだ。
 雪が来た。谷々は三月の余も深く埋(うず)もれた。やがてそれが溶け初める頃、復(ま)た先生は山歩きでもするような服装(なり)をして、人並すぐれて丈夫な脚(あし)に脚絆(きゃはん)を当て、持病のリョウマチに侵されている左の手を懐(ふところ)に入れて歩いて来た。残雪の間には、崖の道まで滲(にじ)み溢(あふ)れた鉱泉、半ば出来工事、冬を越しても落ちずにある茶色な椚(くぬぎ)の枯葉などが見える。先生は霜のために危く崩(くず)れかけた石垣などまで見て廻った。
 この別荘がいくらか住まわれるように成って、入口に自然木の門などが建った頃には、崖下の浴場でもすっかり出来上るのを待たないで開業した。別に、崖の中途小屋を建てて、鉱泉に老を養おうとする隠居さん夫婦もあった。
 春の新学年前から塾では町立の看板を掛けた。同時に、高瀬という新教員を迎えることに成った。学年前の休みに、先生東京から着いた高瀬をここへ案内して来た。岡の上から見ると中棚鉱泉とした旗が早や谷陰の空に飜(ひるがえ)っている。湯場の煙も薄く上りつつある。

 桜井先生高瀬を連れて、新開の崖の道を下りた。先生がまだ男のさかりの頃、東京私立学校英語教師をした時分、教えた生徒一人高瀬だった。その後、先生高輪(たかなわ)の教会牧師をして、かたわらある女学校へ教えに行った時分、誰か桜井の家名を継がせるものをと思って――その頃は先生も頼りにする子が無かったから――養子の話まで仄(ほの)めかして見たのも高瀬だった。


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