崩浪亭主人 - 林 芙美子 ( はやし ふみこ )
砂風の吹く、うそ寒い日である。ホームを驛員が水を撒いてゐる。硝子のない、待合室の外側の壁に凭(もた)れて、磯部隆吉はぼんやりと電車や汽車の出入りを眺めてゐた。
靴のさきが痛い。何だか冷たいものでも降つてきさうな空あひで、ホームの中央に吊りさがつてゐる電氣時計は、四時を一寸廻つて、四圍はもう昏(くら)さをたゞよはせて、如何にもあわたゞしい。若いうちは、中途半端な事に何の怖ろしさもなく、無性に自信を持つてゐたものだけれども、もう、五十の年をきいては、中途半端でゐる事は何よりも不安至極で、人間として少しも値打ちのないやうな空白を感じてくる。この懷(おもひ)つぶさに云ひがたしで、隆吉は、刻み煙草に火をつけながら、ぽつぽつ家へ戻らうかと思つた。
磯部隆吾が、滿洲から、妙子を連れて引揚げて來たのは、一ヶ月ほど前であつた。誰一人身寄りもない日本ではあつたけれども、戻つてみると、故郷はありがたい。古い袷に手をとほしたやうなぬくぬくとしたものを感じた。妻の糸子は甲州のかじかざはと云ふところの生れださうだけれども、これとても、子供の頃に東京へ出て來てゐたので、そのかじかざはと云ふところの名前が、どんな文字で書かれるのかも判らなかつた。
東京の病院で、看護婦をしてゐた糸子と二十五年前に結婚して、すぐ、滿洲に渡り、奉天を振り出しに、北滿の果てまで轉々と居を變へて終戰になつたのである。ハイラルでは四年ほど住んでゐた。驛近くで高級食料品店を開いてゐて、二十歳を頭に、三人の娘があつたのだけれども、女房と、中の娘は終戰と同時に肺患で亡くなり、長女は新京で行方知れずになり、末娘の妙子と二人で今日に到つた。妙子は十七歳で、日本の土地を一度もふんだ事のない娘であつた。
同じ引揚船で苦樂をともにして戻つて來た仲間のうちに、滿鐵の社員で、年配も隆吉と同じ年頃の河邊亮太郎と云ふ男がゐた。家族は東京に殘したまゝであつたので、戻つてゆく栖家(すみか)には不自由がない。戸山ヶ原の近くに五百坪ばかりの地所もあり、家も燒けのこつてゐた。磯部はひとまづ、河邊の家へ落ちついた。無一文、無財産ではあつたけれども根が樂天家で、朴(ほほ)を抱き眞を含めりで、どのやうな環境にもびくともしない心根は、長い間の大陸放浪から來てゐる無欲てんたんにあるのに違ひない。河邊の妻は、私立女學校の家政科の教師をしてゐたが河邊のやつかいな道連れを、あまり心よくは迎へてはくれなかつた。
妙子のきてんで、母のかたみのダイヤの指輪をズボンの裾の縫目に、妙子は閉ぢこめておいた。髮の毛はぢやきぢやきに剪つて、中耳炎の如くよそほひ汚れた繃帶を頭からあごへ卷きつけて兩方の耳の中に、母のプラチナの時計一つと、金の指輪を一つはさみこんで隱して持つて來た。
隆吉は何も知らなかつた。妙子は本當に耳が惡いのだと思つてゐた。繃帶はところどころ血がついて、煮〆たやうに汚れてゐた。十七の娘が、見るかげもなくやつれ果てて痩せて背の高い姿は、誰の注意も惹かなかつた。
無事に、この三つの寶は、娘の體に守られて故國へ戻つて來た。妙子は隆吉の娘のうちでも、とりわけきりやうのいゝ顏立ちで、日本へ戻つて一ヶ月もすると、めきめきと美しさが光を放つて來た。性質は闊達。新京の女學校の寄宿舍では、毒婦と云ふ蔭のニツクネームがあつた位で、どの男の教師も、妙子にあつては自由自在にあつかはれる魔力がひそんでゐた。肌は淺黒く、背が高いので、年よりは一つ二つ大人に見えた。野性的の皓(しろ)い齒並の美しさが、笑ふ度に、何とも云へない魅力を持つてゐたし、太い眉と眼はつまつてゐたけれども、眼は大きく情をたゝへてよく光つてゐた。
首の細いのが弱々しく見えたが、聲は美しく澄んでゐた。日本の土を生れて初めて踏んだ妙子は、何も彼も珍しく、苦難な脱出の日の數々の思ひ出も、祖國にかへつて充分なぐさめられるやうな氣がした。
財産を失ひ、妻や娘を亡くした隆吉も、月日がたつにつれ、一種のあきらめが出來て、妙子の持つて歸つたさゝやかな寶石類を賣つて六萬圓ばかりの金をつくつた。亮太郎の世話で、池袋の商店街に、小さいマアケツトの出物があつたのをゆづりうけて、そこでさゝやかな酒場を開いた。名前も自分で皮肉つた崩浪亭(はうらうてい)とつけて、妙子と二人で一生懸命に働いた。開店の時期もよかつたのか、ことのほか繁昌したし、客種も割合よくて、食料店をやつてゐたゞけに、酒だけはぎんみしてゐたので、とくいの客も段々ふえて行つた。なかには、妙子を目標にして來る客もあり、妙子はよく心得て、さうした客達をじよさいなくあつかつてゐた。
磯部隆吉は、店が繁昌していつたところで、それが愉しいと云ふわけでもなく、一生懸命に働いてはゐても、昔ほどの野心も欲望もなく、酒好きな河邊亮太郎が尋ねて來ると、隆吉は亮太郎と、狹い自分達の部屋で、酒を飮みながらよもやま話をするのが唯一の愉しみであつた。
店の土間は三坪ばかりで、粗末な卓子と椅子を置き、紙張りの天井には、雨漏りの汚點が出來てゐると云つた佗しいかまへで、自分達の部屋も六疊一間で、軍隊毛布を、破れた疊に敷き、小さい電氣コンロの炬燵を置いた風情のない部屋であつた。臺所が土間の三疊で、こゝだけには豐富に酒や、仕入れの食料がぎつしり詰つてゐた。臺所の出口には、隆吾が手作りの箱をつくつて、そこへ白色レグホンを二羽飼つてゐた。朝の早い隆吉は、鷄の鳴く聲がきゝたいばつかりに鷄を飼つたのである。
滿洲でも、隆吉は鷄を澤山飼つてゐた。仄々と明けてゆく夜明の時刻に、たけだけしく鳴く鷄の聲は、隆吉にいろいろな思ひ出をさそふのである。あゝあんな時もあつた、こんな事もあつたと、蒲團に腹這ひになつて、煙草を一服つけながら、間をおいては、時を告げる鷄の聲に耳をかたむけてゐる氣分は何とも云へなかつた。自分によりそつてぐつすり眠つてゐる妙子のおもざしのなかに、亡くなつた妻の糸子のおもかげがはうふつとして、ふつと若き日の夫婦のこまやかな思ひ出を呼びおこす……。駈落のやうな氣持で内地を去るときの、若い糸子との旅立ちも、いまは一片の夢になり果てて、もう苦樂をともにした妻は冥府へ去つてゐないのだと思ふと、何となく、寒々しい淋しさが身内にせまつて來た。
靴のさきが痛い。何だか冷たいものでも降つてきさうな空あひで、ホームの中央に吊りさがつてゐる電氣時計は、四時を一寸廻つて、四圍はもう昏(くら)さをたゞよはせて、如何にもあわたゞしい。若いうちは、中途半端な事に何の怖ろしさもなく、無性に自信を持つてゐたものだけれども、もう、五十の年をきいては、中途半端でゐる事は何よりも不安至極で、人間として少しも値打ちのないやうな空白を感じてくる。この懷(おもひ)つぶさに云ひがたしで、隆吉は、刻み煙草に火をつけながら、ぽつぽつ家へ戻らうかと思つた。
磯部隆吾が、滿洲から、妙子を連れて引揚げて來たのは、一ヶ月ほど前であつた。誰一人身寄りもない日本ではあつたけれども、戻つてみると、故郷はありがたい。古い袷に手をとほしたやうなぬくぬくとしたものを感じた。妻の糸子は甲州のかじかざはと云ふところの生れださうだけれども、これとても、子供の頃に東京へ出て來てゐたので、そのかじかざはと云ふところの名前が、どんな文字で書かれるのかも判らなかつた。
東京の病院で、看護婦をしてゐた糸子と二十五年前に結婚して、すぐ、滿洲に渡り、奉天を振り出しに、北滿の果てまで轉々と居を變へて終戰になつたのである。ハイラルでは四年ほど住んでゐた。驛近くで高級食料品店を開いてゐて、二十歳を頭に、三人の娘があつたのだけれども、女房と、中の娘は終戰と同時に肺患で亡くなり、長女は新京で行方知れずになり、末娘の妙子と二人で今日に到つた。妙子は十七歳で、日本の土地を一度もふんだ事のない娘であつた。
同じ引揚船で苦樂をともにして戻つて來た仲間のうちに、滿鐵の社員で、年配も隆吉と同じ年頃の河邊亮太郎と云ふ男がゐた。家族は東京に殘したまゝであつたので、戻つてゆく栖家(すみか)には不自由がない。戸山ヶ原の近くに五百坪ばかりの地所もあり、家も燒けのこつてゐた。磯部はひとまづ、河邊の家へ落ちついた。無一文、無財産ではあつたけれども根が樂天家で、朴(ほほ)を抱き眞を含めりで、どのやうな環境にもびくともしない心根は、長い間の大陸放浪から來てゐる無欲てんたんにあるのに違ひない。河邊の妻は、私立女學校の家政科の教師をしてゐたが河邊のやつかいな道連れを、あまり心よくは迎へてはくれなかつた。
妙子のきてんで、母のかたみのダイヤの指輪をズボンの裾の縫目に、妙子は閉ぢこめておいた。髮の毛はぢやきぢやきに剪つて、中耳炎の如くよそほひ汚れた繃帶を頭からあごへ卷きつけて兩方の耳の中に、母のプラチナの時計一つと、金の指輪を一つはさみこんで隱して持つて來た。
隆吉は何も知らなかつた。妙子は本當に耳が惡いのだと思つてゐた。繃帶はところどころ血がついて、煮〆たやうに汚れてゐた。十七の娘が、見るかげもなくやつれ果てて痩せて背の高い姿は、誰の注意も惹かなかつた。
無事に、この三つの寶は、娘の體に守られて故國へ戻つて來た。妙子は隆吉の娘のうちでも、とりわけきりやうのいゝ顏立ちで、日本へ戻つて一ヶ月もすると、めきめきと美しさが光を放つて來た。性質は闊達。新京の女學校の寄宿舍では、毒婦と云ふ蔭のニツクネームがあつた位で、どの男の教師も、妙子にあつては自由自在にあつかはれる魔力がひそんでゐた。肌は淺黒く、背が高いので、年よりは一つ二つ大人に見えた。野性的の皓(しろ)い齒並の美しさが、笑ふ度に、何とも云へない魅力を持つてゐたし、太い眉と眼はつまつてゐたけれども、眼は大きく情をたゝへてよく光つてゐた。
首の細いのが弱々しく見えたが、聲は美しく澄んでゐた。日本の土を生れて初めて踏んだ妙子は、何も彼も珍しく、苦難な脱出の日の數々の思ひ出も、祖國にかへつて充分なぐさめられるやうな氣がした。
財産を失ひ、妻や娘を亡くした隆吉も、月日がたつにつれ、一種のあきらめが出來て、妙子の持つて歸つたさゝやかな寶石類を賣つて六萬圓ばかりの金をつくつた。亮太郎の世話で、池袋の商店街に、小さいマアケツトの出物があつたのをゆづりうけて、そこでさゝやかな酒場を開いた。名前も自分で皮肉つた崩浪亭(はうらうてい)とつけて、妙子と二人で一生懸命に働いた。開店の時期もよかつたのか、ことのほか繁昌したし、客種も割合よくて、食料店をやつてゐたゞけに、酒だけはぎんみしてゐたので、とくいの客も段々ふえて行つた。なかには、妙子を目標にして來る客もあり、妙子はよく心得て、さうした客達をじよさいなくあつかつてゐた。
磯部隆吉は、店が繁昌していつたところで、それが愉しいと云ふわけでもなく、一生懸命に働いてはゐても、昔ほどの野心も欲望もなく、酒好きな河邊亮太郎が尋ねて來ると、隆吉は亮太郎と、狹い自分達の部屋で、酒を飮みながらよもやま話をするのが唯一の愉しみであつた。
店の土間は三坪ばかりで、粗末な卓子と椅子を置き、紙張りの天井には、雨漏りの汚點が出來てゐると云つた佗しいかまへで、自分達の部屋も六疊一間で、軍隊毛布を、破れた疊に敷き、小さい電氣コンロの炬燵を置いた風情のない部屋であつた。臺所が土間の三疊で、こゝだけには豐富に酒や、仕入れの食料がぎつしり詰つてゐた。臺所の出口には、隆吾が手作りの箱をつくつて、そこへ白色レグホンを二羽飼つてゐた。朝の早い隆吉は、鷄の鳴く聲がきゝたいばつかりに鷄を飼つたのである。
滿洲でも、隆吉は鷄を澤山飼つてゐた。仄々と明けてゆく夜明の時刻に、たけだけしく鳴く鷄の聲は、隆吉にいろいろな思ひ出をさそふのである。あゝあんな時もあつた、こんな事もあつたと、蒲團に腹這ひになつて、煙草を一服つけながら、間をおいては、時を告げる鷄の聲に耳をかたむけてゐる氣分は何とも云へなかつた。自分によりそつてぐつすり眠つてゐる妙子のおもざしのなかに、亡くなつた妻の糸子のおもかげがはうふつとして、ふつと若き日の夫婦のこまやかな思ひ出を呼びおこす……。駈落のやうな氣持で内地を去るときの、若い糸子との旅立ちも、いまは一片の夢になり果てて、もう苦樂をともにした妻は冥府へ去つてゐないのだと思ふと、何となく、寒々しい淋しさが身内にせまつて來た。
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