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巴里の旅窓より - 与謝野 晶子 ( よさの あきこ )

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與謝野晶子  汽車で露西亞や獨逸を過ぎて巴里へ來ると、先づ目に着くのは佛蘭西の男も女もきやしやな體をして其姿の意氣(いき)な事である。勿論一人一人を仔細に觀るなら各※の身分趣味が異ふ儘に優劣はあらうが、概して瀟洒(あつさり)と都雅(みやび)であることは他國人の及ぶ所で無からう。佛蘭西の女と云へば、其れが餘りに容易く目に附くので、どの珈琲店にも、どの酒場にも、どの路上にも徘徊する多數の遊女代表して居る樣に一寸思はれるけれど、自分は矢張りコメデイ・フランセエズの樣な一流の劇場の客間(サロン)に夜會服の裾を引いて歩く婦人を標準として、其れに中流生活をして居る素人婦人の大多數を合せて佛蘭西の女の趣味を考へたい。目の周圍(まはり)にいろんな隈をとつたりする遊女厚化粧は決して此國の誇る趣味ではない。自分劇場や畫の展覽會の中、森を散歩する自動車馬車の上に、睡蓮の精とも云ひたい樣な、細りとした肉附の豐かな、肌に光があつて、物ごしの生生とした、氣韻(きゐん)の高い美人を澤山見る度に、ほれぼれと我を忘れて見送つて居る。而うして、其等の貴婦人趣味中流婦人乃至それ以下一般婦人の間にまで影響して居ると見えて、隨分粗末材料の服裝をして居ながら其姿に貴婦人の俤のある女が澤山に見受けられる。自分は是等の趣味の根柢になつて居る物が何であるかを早く知りたい。
 今(いま)姑(しばら)く自分の歐洲に於ける淺はかな智識で推し量ると、佛蘭西の女の姿の意氣で美しいのは、希臘(ギリシヤ)や伊太利(イタリイ)から普及した美術の品のよい瀟洒(せうしや)な所が久しい間に外から影響したのでは無いか。ルウヴルの博物館にある伊太利の繪と彫刻とを見た丈でも自分は然う云ふ事が想像される。其等古代美術にある表情と線とが現に巴里芝居俳優の形に著しく出て來る樣に、同じく自分は其れを佛蘭西の女の日常の形に見出す氣がして成らない。其れが全部で無くても、大部分は古代藝術自然影響と、又意識して採擇した結果とであらうと想はれる。殊に女優の形と云ふものは希臘伊太利古美術に現はれた人體の美しい形を細密に亙つて研究して居るらしいから、其女優の形が上中流婦人社會に影響するのは當然であらう。

 自分が佛蘭西の婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながら而も流行の中から自分趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲從して居ない事である。自分は三四着の洋服を作らす參考にと思つて目に觸れる女の服裝に注意して見たが、色の配合から釦(ブトン)の附け方まで同じだと云ふ物を一度も見たことが無い。仕立屋(タイユウル)へ行けば流行の形の見本を幾つも見せる。誂(あつら)へる女は決して其見本に盲從する事なく、其れを參考として更に自分の創意に成る或物を加へて自分に適した服を作らせるのである。
 又感服した一つは、身に過ぎた華奢(くわしや)を欲しない儉素な性質の佛蘭西婦人は、概して費用の掛らぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を收めようとする用意が著しい。此點は京都の女と似通つた所がある。富んだ女が絹を用ひる所を麻で濟ませ、麻も日本などに比べて非常に高價であるから、麻の所を更に木綿で濟ませて居ると云ふのが普通である。模造品の製造が巧であるから木綿でも麻や絹に見える上に、着る人の配色が調和を得て居るので、絹を着たのと同じ美しさを示して居る場合が多い。

 歐洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は靜止的である。靜止的の美も結構であるけれど、何うも現代の時勢には適しない美である。自分日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而うして、其れは決して不可能で無い許りか、自分は歐洲へ來て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占め得ることの有望な事を知った。唯其れには内心の自動を要することは勿論、從來の樣な優柔不斷な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及して行く結果現に穩當な覺醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。但し女の容貌は一代や二代で改まる物で無いと云ふ人があるかも知れないが、自分日本の女の容貌を悉く西洋婦人の樣にしようとは願はない。今の儘の顏立でよいから、表情と肉附の生生とした活動の美を備へた女が殖えて欲しい。髮も黒く目も黒い日本式の女は巴里にも澤山にある。外觀に於て巴里の女と似通つた所のある日本の女が何が巴里の女に及び難いかと云へば、内心が依頼主義であつて、自ら進んで生活し、其生活を富まし且つ樂まうとする心掛を缺いて居る所から、作り花の樣に生氣を失つて居る事と、もう一つは、美に對する趣味の低いために化粧下手なのとに原因して居るのでは無いか。日本の男の姿は佛蘭西の男に比べて隨分粗末であるが、まだ其れは可いとして、日本の女の裝飾はもつと思ひ切つて品好く派手にする必要があると感じた。

 松岡氏と良人と自分がアン※リイドの停車場からロダン先生を訪ふ爲にムウドン行の汽車に乘つたのは、初めて詩人レニエ先生を訪うた日の午後であつた。此汽車は甲武線の電車の樣に、街の中を行きながら家竝よりは一段低く道を造つた所を走るのである。短距離にある市内の停車場(ステエシヨン)を七つばかり過ぎて郊外へ出ると、涼しい風が俄に窓から吹き込んで來るのであつた。暗がりから明るみへ出た樣な氣味で自分は右と左を見廻して居た。近い所も遠い所も家は低くてそして代赭色(たいしやいろ)の瓦で皆|葺(ふ)いてある。態とらしく思はれる程その小家の散在した間間に木の群立がある。雛罌粟(コクリコ)の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此國では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。自分が下車すると、例の樣に、
「ジヤポネエズジヤポネエズ」
 と云つて、一汽車の客が皆左の窓際へ集つて眺めるのであつた。自分は秋草を染めたお納戸の絽の着物に、同じ模樣の薄青磁色の絽の帶を結んで居た。停車場の驛夫にロダン先生の家へ行く道を聞くと、彼處をずつと行けば好いと云つて岡の下の一筋道を教へて呉れた。馬車などは一臺もない停車場である。眞直に突當つてと云はれた道が何處迄も果ての無い樣に續いて居る樣なので、自分は男達に後れない樣にして歩きながら時時立留つて汗を拭いては吐息さへもつかれるのであつた。松岡氏と良人とは逢ふ人毎に目的の家を尋ねて居る。逢ふ人毎と云つても一町に一人、三町に二人位のものであることは云ふ迄もない。粉挽小屋職人までが世界偉人を知つて居て、
「ムシユウ・メモトル・ロダン」
 と問ひ返して、其返事を與へる事に幸福と誇りとを感じて居るらしいのを見ると、自分は涙ぐましいやうな氣分にもなるのであつた。


眞赤な土がほろほろと……
だらだら坂の二側(ふたかは)に
アカシヤの樹のつづく路。

あれ、あの森の右の方、
飴色をした屋根屋根
あの間から群青(ぐんじやう)を
ちらと抹(なす)つたセエヌ川。

涼しい風が吹いて來る、
マロニエの香と水の香と。

之が日本の畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。


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