幕末維新懐古談 47 彫工会の成り立ちについて - 高村 光雲 ( たかむら こううん )
幕末維新懐古談
彫工会の成り立ちについて
この頃になって一時に種々(いろいろ)の事が一緒に起って来るので、どの話をしてよろしいか自分ながら選択に苦しみますが、先に日本美術協会の話をしたから、引き続き、ついでに東京彫工会のことについて話します。
東京彫工会というものの出来たのは、妙なことが動機となって出来たのであります(ちょっと断わって置きますが、その当時の彫刻家は全部|牙彫(げちょう)という有様であった)。その彫刻界に一つの刺撃が与えられそれが導火線となってこの会が起ったのであります。一方に既に美術協会が成立し、それがますます盛大になっているのであるから、この際別に彫工会というような会の起る必要を感じない訳であるが、それが出来なければならない機運となって来ました。この彫工会発会のことについては私は木彫家のことで関係は薄い。私が当面に立って立ち働いたという訳でもないのであるが、当時の牙彫界には友人の多い関係から多少助力をしたことであるからその行きさつを話して置きます。
この事は、最初は象牙彫刻の方の人たちのいさかいから初まる……というもおかしな話ですが、まずそういった形であった。
当時、牙彫の方は全盛期であるから、その工人も実に夥多(おびただ)しいもので、彫刻師といえば牙彫をする人たちのことを指(さ)していうのであると世間から思われた位。この事は前に度々(たびたび)申したが、その中で変り者の私位が木の方をやっている位のものであって、ほとんど全部が牙彫であった。で、こう物が盛んで流行(はや)り出せば、何んの業にもあることであるが、その工人仲間の人々の中に党派とか流派とかいうようなものが出来て、同じ牙彫の工人の中でも、比較的上等なものを取り扱って、高尚な方へかたまっている人たちと、牙彫商人の売り物にはめて、貿易向き一方をやり、出来栄(できばえ)は第二にして、まず手間にさえなればよろしいという側の人たちと、こう二つの派に別れば分けられるといった形になって来る。前のは、なかなか商人のいうままにはならない。自分で一己の了見があって、製作本位に仕事をする。つまり先生株の人たちであり、後のは、何処までも職人的で手間取りが目的、商人のいうままにどうともなろうという側である。こうまず二派に別れるのでありますが、その高尚の方の先生株には、旭玉山氏、石川光明氏、島村俊明氏などを筆頭として、その他沢山ありますが、この人たちがまず代表的の人、いずれも商人の方で一目置いている。一方は商人に使われる組で、一口にいえば売り物専門で貿易目的である。この方もなかなか旺(さか)んにやっている人たちがあって、その大将株の親方が谷中(やなか)に住まっておった。なかなか勢力があったもので、商人との取引も盛んなところから弟子や職工を沢山使っている。牙彫界ではこれを谷中派と称しておったのです。
ところで、当時、東京府(多分府であったと思う)の仕事の中に諸職業の組合組織というものを許可することになった。それはそれらの団体が一塊(ひとかたまり)となって共通的な行動を取るように仕組まれた組織で、一つの組合には組長、副組長というものがあって、その社会の種々(いろいろ)な規約的なことを総括する一つの機関であるのですが、この事が発表になると、牙彫の方でも谷中派の連中がまずその組合というものを組織し出したのです。それはたとえば、牙彫業者がここに三百人あるとして、その三分の二以上の人数――すなわち二百人が結托して組合を組織すれば、その組合というものは、その業務に従事しているすべての人の上に権力を働かすことが出来るのであって、よし、他に不賛成者があるとしても、少数者はその規則の下に服さねばならんといった訳であった。もし不賛成者があれば、市内から離れて郡部へ行かねばならんというのである。その組合の規約が随分不条理なもので圧制的であると思っても、差し当って職業のことに影響するから、嫌(いや)でも入らなければならない。よくよくいやならば郊外へ出るよりほかはない。と……こういう有様であった。
そこで、谷中派の大将株の人たちは、自分側の方で、この組合を作って通過させ、権力を握りたいものであるが、しかし、牙彫界を見渡したところで、前申す如き有様であるから、どうも頭が閊(つか)えている。自分たちの好き勝手な真似(まね)ばかりをするわけにも参りません。それで彼らは自分たちの方の幕下(ばっか)のものを糾合し遊説して二百人からの人数(にんず)をこしらえまして、その組合というものを組織したのであった。
府の掛かりの方でも、牙彫界に幾人の人数が現在にあるものか、充分調べも附いていないので、谷中派の組織して出した願書を許可したのであった。すなわち谷中派の差し出した願書には二百人以上あるから、この人数は現在の彫刻師の人数の三分の二強であろうと掛かりの人は思っていたので許可したのでしょう。それとも、そういうことまで考えも及ばなかったのか。とにかく、谷中派のした仕事は通ったのであった。
そこで、組長、副組長は谷中派の大将株の両名がなることになって、規則書が出来上がったのである。ところが、それを見ると、親方の方の都合の好いようなことばかり並べてある。たとえば親方が弟子や職人を使うのに都合よいこと、つまり後進者を牽制(けんせい)する向きの箇条が甚(はなは)だ多い。年季中に暇を取るものは罰金を取るとか、或る親方から他に移り変るものは組合中使用せぬとか除名するとか、これから修業しようという弟子側に取っては不利益な規約ばかりである。こういうものが出来上がってそれを牙彫界一般に配附したのであります。これを手にした一流側の人々は大いに面喰(めんくら)ったわけでありました。しかし、旭玉山氏や石川光明氏とか、島村俊明、田中玉宝氏などいう人たちは名人|肌(はだ)な人で、別にこういう世間的のことには一向関係しないので、平生から自分の腕だけのものを作り、気位は高く、先生気取りの人たちであるから、ただ、変なことが初まったものだと思う位であるが、他には、そういう人ばかりでもないので、まず谷中派の人たちに出し抜かれた形で、一体これはどうしたものかと問題になったのであります。
元来、谷中派と先生派とこれに属する技術家とは技術に対する心掛けが違っているのであるから何にもこの際、弟子側のものを圧迫する必要も感じないし、またいろいろな規約の中に押し籠められる因縁もないと思っている。いわばなるだけ面倒な事には関係しないで仕事に励み忠実熱心である方ですから、こういう不条理な規約書が郵便で、各自(てんで)の許(もと)に舞い込んで来て見ると、甚だ迷惑に感じた。もし、不賛成を唱えるとなると、市中で職業が出来ないという。郊外へ退いて行かねばならないとなると、これは差し当って考え物である。さてそれが困るからといって規約に賛成して、組合へ這入(はい)るとなると、平生(ふだん)から仕事の上で侮蔑(ぶべつ)している所の谷中派の支配を受けねばならない。これは郊外へ退去するよりも一層馬鹿気ている。それもまあ好いとしても、修業盛りの弟子たちを何にも圧迫して叱責(いじ)めることはない。かれこれ、この組合規則なるものは甚だ不都合千万なのである。これはとても這入るわけには参らんというのがこの派の人たち一般の意向でありました。
しかしながら、既にこうして、府からの許可を得て組合規則を出して来たものに対して、不賛成であるからといって、反抗の趣意を申し立てるにしても、この際、反抗するだけの何らか確たる材料がないことにおいては、対抗的に運動することも出来ないということに気が附くと、皆々気を揉(も)んで、どうしたら宣(よ)かろうかとよりより協議するような有様であった。
すると、ここに金田兼次郎という人が一つの意見を提出しました。
この事は、最初は象牙彫刻の方の人たちのいさかいから初まる……というもおかしな話ですが、まずそういった形であった。
当時、牙彫の方は全盛期であるから、その工人も実に夥多(おびただ)しいもので、彫刻師といえば牙彫をする人たちのことを指(さ)していうのであると世間から思われた位。この事は前に度々(たびたび)申したが、その中で変り者の私位が木の方をやっている位のものであって、ほとんど全部が牙彫であった。で、こう物が盛んで流行(はや)り出せば、何んの業にもあることであるが、その工人仲間の人々の中に党派とか流派とかいうようなものが出来て、同じ牙彫の工人の中でも、比較的上等なものを取り扱って、高尚な方へかたまっている人たちと、牙彫商人の売り物にはめて、貿易向き一方をやり、出来栄(できばえ)は第二にして、まず手間にさえなればよろしいという側の人たちと、こう二つの派に別れば分けられるといった形になって来る。前のは、なかなか商人のいうままにはならない。自分で一己の了見があって、製作本位に仕事をする。つまり先生株の人たちであり、後のは、何処までも職人的で手間取りが目的、商人のいうままにどうともなろうという側である。こうまず二派に別れるのでありますが、その高尚の方の先生株には、旭玉山氏、石川光明氏、島村俊明氏などを筆頭として、その他沢山ありますが、この人たちがまず代表的の人、いずれも商人の方で一目置いている。一方は商人に使われる組で、一口にいえば売り物専門で貿易目的である。この方もなかなか旺(さか)んにやっている人たちがあって、その大将株の親方が谷中(やなか)に住まっておった。なかなか勢力があったもので、商人との取引も盛んなところから弟子や職工を沢山使っている。牙彫界ではこれを谷中派と称しておったのです。
ところで、当時、東京府(多分府であったと思う)の仕事の中に諸職業の組合組織というものを許可することになった。それはそれらの団体が一塊(ひとかたまり)となって共通的な行動を取るように仕組まれた組織で、一つの組合には組長、副組長というものがあって、その社会の種々(いろいろ)な規約的なことを総括する一つの機関であるのですが、この事が発表になると、牙彫の方でも谷中派の連中がまずその組合というものを組織し出したのです。それはたとえば、牙彫業者がここに三百人あるとして、その三分の二以上の人数――すなわち二百人が結托して組合を組織すれば、その組合というものは、その業務に従事しているすべての人の上に権力を働かすことが出来るのであって、よし、他に不賛成者があるとしても、少数者はその規則の下に服さねばならんといった訳であった。もし不賛成者があれば、市内から離れて郡部へ行かねばならんというのである。その組合の規約が随分不条理なもので圧制的であると思っても、差し当って職業のことに影響するから、嫌(いや)でも入らなければならない。よくよくいやならば郊外へ出るよりほかはない。と……こういう有様であった。
そこで、谷中派の大将株の人たちは、自分側の方で、この組合を作って通過させ、権力を握りたいものであるが、しかし、牙彫界を見渡したところで、前申す如き有様であるから、どうも頭が閊(つか)えている。自分たちの好き勝手な真似(まね)ばかりをするわけにも参りません。それで彼らは自分たちの方の幕下(ばっか)のものを糾合し遊説して二百人からの人数(にんず)をこしらえまして、その組合というものを組織したのであった。
府の掛かりの方でも、牙彫界に幾人の人数が現在にあるものか、充分調べも附いていないので、谷中派の組織して出した願書を許可したのであった。すなわち谷中派の差し出した願書には二百人以上あるから、この人数は現在の彫刻師の人数の三分の二強であろうと掛かりの人は思っていたので許可したのでしょう。それとも、そういうことまで考えも及ばなかったのか。とにかく、谷中派のした仕事は通ったのであった。
そこで、組長、副組長は谷中派の大将株の両名がなることになって、規則書が出来上がったのである。ところが、それを見ると、親方の方の都合の好いようなことばかり並べてある。たとえば親方が弟子や職人を使うのに都合よいこと、つまり後進者を牽制(けんせい)する向きの箇条が甚(はなは)だ多い。年季中に暇を取るものは罰金を取るとか、或る親方から他に移り変るものは組合中使用せぬとか除名するとか、これから修業しようという弟子側に取っては不利益な規約ばかりである。こういうものが出来上がってそれを牙彫界一般に配附したのであります。これを手にした一流側の人々は大いに面喰(めんくら)ったわけでありました。しかし、旭玉山氏や石川光明氏とか、島村俊明、田中玉宝氏などいう人たちは名人|肌(はだ)な人で、別にこういう世間的のことには一向関係しないので、平生から自分の腕だけのものを作り、気位は高く、先生気取りの人たちであるから、ただ、変なことが初まったものだと思う位であるが、他には、そういう人ばかりでもないので、まず谷中派の人たちに出し抜かれた形で、一体これはどうしたものかと問題になったのであります。
元来、谷中派と先生派とこれに属する技術家とは技術に対する心掛けが違っているのであるから何にもこの際、弟子側のものを圧迫する必要も感じないし、またいろいろな規約の中に押し籠められる因縁もないと思っている。いわばなるだけ面倒な事には関係しないで仕事に励み忠実熱心である方ですから、こういう不条理な規約書が郵便で、各自(てんで)の許(もと)に舞い込んで来て見ると、甚だ迷惑に感じた。もし、不賛成を唱えるとなると、市中で職業が出来ないという。郊外へ退いて行かねばならないとなると、これは差し当って考え物である。さてそれが困るからといって規約に賛成して、組合へ這入(はい)るとなると、平生(ふだん)から仕事の上で侮蔑(ぶべつ)している所の谷中派の支配を受けねばならない。これは郊外へ退去するよりも一層馬鹿気ている。それもまあ好いとしても、修業盛りの弟子たちを何にも圧迫して叱責(いじ)めることはない。かれこれ、この組合規則なるものは甚だ不都合千万なのである。これはとても這入るわけには参らんというのがこの派の人たち一般の意向でありました。
しかしながら、既にこうして、府からの許可を得て組合規則を出して来たものに対して、不賛成であるからといって、反抗の趣意を申し立てるにしても、この際、反抗するだけの何らか確たる材料がないことにおいては、対抗的に運動することも出来ないということに気が附くと、皆々気を揉(も)んで、どうしたら宣(よ)かろうかとよりより協議するような有様であった。
すると、ここに金田兼次郎という人が一つの意見を提出しました。
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