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幕末維新懐古談 79 その後の弟子の事 - 高村 光雲 ( たかむら こううん )

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幕末維新懐古談 その後の弟子の事  ここで、少し断わって置かねばならぬことは、こういう門弟たちのことは別段興味のある話しというではなく、また事実としても、いわば私事(わたくしごと)になって、特に何かの参考となることでもありませんから、深く立ち入り、管々(くだくだ)しくなることは避けたいと思います。  それに、最早(もはや)世を去った人などのことはとにかく、現存の人であって見れば、私と師弟関係があるだけ、毀誉褒貶(きよほうへん)の如何(いかん)に関せずおもしろくないと思いますから、批評がましいことは避けます。それに、自分では、今思い出すままを、記憶に任せてお話することで、疎密繁閑取り取りですから、その辺はそのつもりでお聞き下さい。とにかく、私の覚え帳に名前の乗ってるだけの弟子の数も五、六十名に達することで、一わたり、ざっと話して置きましょう。
 今度は山崎朝雲氏が入門された時分のことになります。朝雲氏は私の弟子となる以前に、もはや相当仕事出来ていた人です。明治二十八年に京都内国勧業博覧会が開かれた時、私は農商務省の方からは審査員を嘱托(しょくたく)され、個人としては彫工会の役員として当会に出張したのでしたが、その時山崎氏の作は出品されていました。氏は福岡県博多(はかた)の人で、同地よりの出品でした(米原氏も当時は安来帰郷していて其所(そこ)から軍鶏(しゃも)の彫刻を出品した)。山崎氏の作は養老の孝子でありましたが、地方からの出品としては、この作と、米原氏の軍鶏とが出色でした(いずれも三等賞を得た)。私は審査員として山崎氏の作を見た時、なかなか傑作であるが、惜しいことには素人離れがしておらぬ。つまり、道具の拵え方が鈍くて、水ばなれがしないので、何んとなく眠たい感がある。これが惜しいと思いました。これは地方作家のことでやむをえないが、今一応その道の門をくぐったらさらに確かなものになるであろうと思ったことでした。
 やがて、博覧会も終りに近づいた頃、私は彫工会の事務所にまだいましたが、或る日大村西崖氏が見え(氏はその頃京都美術学校教鞭(きょうべん)を取られていたと記憶す)、弟子一人御丹精を願いたい。その人はこれこれこうこうという話を聞くと、私もその作品はよく知ってかなり認めていた養老作者ですから、あの人なら、もはや弟子入りをする必要もないかと思う。ただ、道具の鈍いのは難で、素人離れのしないのは欠点といえば欠点だが、事々(ことごと)しく私へ弟子入りするほどの必要もないかと思う。まあ友達のつもりで、聞きたいことがあれば聞きにお出(い)でになれば、知ってるだけはお話もしましょう。実は私も、少し弟子作り過ぎて持て余しの形の処|故(ゆえ)、そういう軽い気持でなら、東京へお出での時にお尋ねになってもよろしいと答えましたが、大村氏は、それではきまりが附かぬから是非とおいいで、二度目には当人の山崎氏を伴(つ)れて見えられたから、前と同様のことをいって置きました。そして帰京すると、ほどなく山崎氏道具箱をしょって出掛けて来られ、是非弟子にしてもらいたいというので、もはや否応(いやおう)をいう処でもないからそのまま弟子ということになったのです。
 しかし、前にも申した通り衣食住のことなど自弁出来る人はなるべく自弁にするようにしてもらうのが、自弁出来ない人を世話するために私の都合も好いので、……山崎氏は他の二、三の弟子たちと一緒に私宅の直ぐ前の小さな家を借り、自炊をしてやることになったが、もはや、大体出来ている人ですから、手を取って教えるというような余地もなく、ただ小刀が不完全ですから、自分の多年使った道具を同氏に見せますと、氏は大層感じたような顔をして見ていました。おそらく田舎江戸|前(まえ)とは道具だけでも大分違うと思ったでありましょう。「なるほど、これでなくっちゃ」といって、非常に得心(とくしん)した風であった。
 それから道具を新しく購(か)い、毎日々々それを磨(と)いでは柄をすげ、道具調べの方をひたすら熱心にやっていたようでありました。そうして道具が一切これで好(い)いとなった暁、初めて東京へ出てからの彫刻に取り掛かったものを見ると、これは一目見てもよく分るほど旧来のものとは異(ちが)ってほとんど生まれ代ったかの感がありました。これは、この人の作風が異なったというのではなく小刀が変ったのであるが、作品は、生き生きとして出来て、前の水離れのしない眠ったいよう素人臭さは全然取れていました。
 こういう風であったから、山崎氏私について長年稽古をしたというわけでなく、私の傍(そば)へ来て私のやっていることを見ただけで、自分研究されたのです。それから氏には黒田清輝氏、金子堅太郎(かねこけんたろう)氏など知名の人の援助もあって、製作するのに好都合であったらしく、作品美術協会、彫工会等においていつも好評でありました。こんなわけで、氏は上京後はさしたる苦労もなく一家を為(な)すに至り、国許(くにもと)より妻子を招き、まず順当に今日に至ったのである。

 前にも申した通り、私の弟子を取った目的は我が木彫(もくちょう)の勢力を社会的に扶植しようということにあったというよりも我が木彫芸術の衰頽(すいたい)を輓回(ばんかい)するということにあったので、したがって、旧来私どもが師匠を取った時のように年季を入れてどうするとかいう面倒なことは省いて(またそういうことをする時勢でもなかったから)、規則だったことよりも、後進子弟が自由気まま彫刻勉強することの出来る方針を取ったので、いわば私の仕事場は一つの彫刻道場で、彫刻熱心の人は遠慮なく来ておやりなさいといった塩梅(あんばい)で、弟子入りをしたからといって月謝を取るでもなく、万事、その人たちの都合のよろしいようにと私は心掛けておりました。だが、経済的の事があるので、これは、その人々の境涯次第で、或る人は少しも物質的に私の扶助を借りずに、仕事のことばかりを習った人もあれば、また或る人は、小遣いまでも心配をしたり、その親御(おやご)たちの生計(くらし)のことまで見て上げたりしたもので、少しも一様ではありませんでした。また、中には美術学校入学目的で、その下稽古をするために一時私の弟子となった人もあり、こういう人は学校へ這入(はい)るのに都合の好いような教え方を取り、人の気質、境遇等に応じてなるべく自由な方針を取る心持で弟子をあずかったことでありました。
 そこで、ざっと前後次第不同でその人々の名をば挙げて置きます。

 後藤光岳君は、後藤貞行氏の息で、私の内弟子となったが、美術学校入学卒業後一家を為(な)している。
 斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻学び美術学校鋳金科へ入学し、優等で卒業後朝李王家の嘱托を受けて渡鮮し、帰国後銅像その他鋳造を専門にやっております。
 高木春葉君は、美術学校給仕(きゅうじ)であったが、日曜ごとに稽古に参り、相当物になった処で、残念ながら病死しました。
 川上邦世君は古い洋画家川上冬崖氏の孫で、私の弟子となり、美術学校卒業今日に及んでいる。
 米原雲海氏が島根出身という処から、郷党に感化を及ぼしたのであろうか。島根県からは二、三の人が出ている。加藤景雲君、内藤伸君などで、いずれも私宅へ参って稽古を致し、今日では知名の人となっている。内藤伸氏は帝国美術院会員の栄職を負う。加藤景雲氏は島根県|能義(のぎ)郡荒島村の出身で大工の家に生まれ、父の大工修行彫刻を志望し、二十一歳の時出京し、私の門人となり成績良く卒業独立し、再三帝展出品して皆入選す、その他種々の会にて入賞を得、現在私の助手として本郷区神明町の自宅から通勤しています。
 本多西雲君は深川(ふかがわ)木場(きば)の人。鹿島岩蔵氏の番頭さんの悴(せがれ)で、鹿島氏の援助で私の許(もと)へ来て稽古し一家を為(な)した。
 安田久吉君は日本橋新右衛門町(しんえもんちょう)の安田松慶氏という仏師の次男、一時門生となり、後美術学校入学
 佐藤理三郎君も初めは私の門生、後美術学校入学卒業後、香川県下の工芸学校校長となった。
 松原源蔵君(象雲と号す)は熊本県人。今日熊本市本妙寺清正公の地内に彫刻をやっているとの事です。
 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)君は人の知る如く日本美術院同人である。大阪で修業をされ、中年に私の門下となった。


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