幻の彼方 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
一
岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。
いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。
「何をしてるんだい。」
「知りませんよ。」
つんと澄ました声だったが、もう刺を含んではいなかった。
順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。
「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」
冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚(びっくり)した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」
彼女は呼吸器が弱かった。肺尖|加答児(カタル)を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。
「じゃあ熱でも出るのかい。」
「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」
空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どんと空中にはね上げられた心地がした。
「え、姙娠!」
「そうらしいわ。」
「いつから?」
彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。
ほう、そうかなあ! というような心地で順造は小首を一寸傾げたが、そのまま心が宙に浮んで、何処へ落着けていいか分らなかった。
彼は立ち上って室の中を歩いた。縁側に出て両腕を組みながら、其処に腰掛けて足をぶらぶらさした。
長い間たったようだった。秋子の方から彼の所へやって来た。
「明日(あした)もお晴天(てんき)のようですわね。」と彼女は云った。
実際、広々とした夜の空には銀河が輝いていた。然しそんなことはどうでもいいのだった。取澄ましてる彼女の全身を、非難の塊(かたまり)のように順造は感じた。果して彼女は云い進んできた。
「あなたは、私が姙娠したのが御不満なんでしょう。」
「馬鹿なことを云うな!」
一寸|気色(けしき)ばんでみたが、それから却って感傷的な気分をそそられて、彼は秋子を其処へ坐らした。彼女は逆らわなかった。それを彼は更に自分の膝に抱いてやりたかった。けれど……。
変梃な気持だった。――折にふれて漠然と頭に浮べたこと、夫婦生活の結果として何気なく想像したこと、僕の所はまださなどと平気で友人等に答えながら、もしそうなったらと後でぼんやり空想したこと、それとは全く異っていた。何だかこう得体(えたい)の知れないものが、眼の前に現われてきたのだった。秋子の腹の中に小さな卵が――幼虫が宿って、それがだんだん大きくなってゆき、恐ろしい勢で外に飛び出し、それが一個の人間――自分の血を分けた子供……となる。そのことが実際に起りかけてるのだ。
「おい。」と彼は云った、「お前は本当に姙娠しているのかい?」
「ええ、どうもそうらしいわ。」
彼女はその態度から声の調子まで落着き払っていた。
順造は縁からぶら下げてる足をやけにばたばた動かした。
「どうなすったの?」
振り向いてみると、笑ってる彼女の眼がこちらを覗き込んでいた。
「何をしてるんだい。」
「知りませんよ。」
つんと澄ました声だったが、もう刺を含んではいなかった。
順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。
「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」
冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚(びっくり)した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」
彼女は呼吸器が弱かった。肺尖|加答児(カタル)を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。
「じゃあ熱でも出るのかい。」
「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」
空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どんと空中にはね上げられた心地がした。
「え、姙娠!」
「そうらしいわ。」
「いつから?」
彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。
ほう、そうかなあ! というような心地で順造は小首を一寸傾げたが、そのまま心が宙に浮んで、何処へ落着けていいか分らなかった。
彼は立ち上って室の中を歩いた。縁側に出て両腕を組みながら、其処に腰掛けて足をぶらぶらさした。
長い間たったようだった。秋子の方から彼の所へやって来た。
「明日(あした)もお晴天(てんき)のようですわね。」と彼女は云った。
実際、広々とした夜の空には銀河が輝いていた。然しそんなことはどうでもいいのだった。取澄ましてる彼女の全身を、非難の塊(かたまり)のように順造は感じた。果して彼女は云い進んできた。
「あなたは、私が姙娠したのが御不満なんでしょう。」
「馬鹿なことを云うな!」
一寸|気色(けしき)ばんでみたが、それから却って感傷的な気分をそそられて、彼は秋子を其処へ坐らした。彼女は逆らわなかった。それを彼は更に自分の膝に抱いてやりたかった。けれど……。
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「ええ、どうもそうらしいわ。」
彼女はその態度から声の調子まで落着き払っていた。
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「どうなすったの?」
振り向いてみると、笑ってる彼女の眼がこちらを覗き込んでいた。
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