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弥次行 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 1』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 ★ 豪華版 日本現代文学全集 泉鏡花集 ★ 講談社
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 6』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集』 限定版 恩地孝四郎装幀 著者落款入 函
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 5』 (ちくま文庫)
  • 古書「名著複刻全集 日本橋 泉鏡花」
  • 日本幻想文学集成 1 泉鏡花 須永朝彦編 梅木英治
  • 図録★番町の家・慶応義塾図書館所蔵泉鏡花遺品展★09年
  • 泉鏡花賞受賞 柳美里「フルハウス」初版
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彌次行  今(いま)は然(さ)る憂慮(きづかひ)なし。大塚(おほつか)より氷川(ひかは)へ下(お)りる、たら/\坂(ざか)は、恰(あたか)も芳野世經氏宅(よしのせいけいしたく)の門(もん)について曲(まが)る、昔(むかし)は辻斬(つじぎり)ありたり。こゝに幽靈坂(いうれいざか)、猫又坂(ねこまたざか)、くらがり坂(ざか)など謂(い)ふあり、好事(かうず)の士(し)は尋(たづ)ぬべし。田圃(たんぼ)には赤蜻蛉(あかとんぼ)、案山子(かゝし)、鳴子(なるこ)などいづれも風情(ふぜい)なり。天(てん)麗(うらゝ)かにして其(その)幽靈坂(いうれいざか)の樹立(こだち)の中(なか)に鳥(とり)の聲(こゑ)す。句(く)になるね、と知(し)つた振(ふり)をして聲(こゑ)を懸(か)くれば、何(なに)か心得(こゝろえ)たる樣子(やうす)にて同行(どうかう)の北八(きたはち)は腕組(うでぐみ)をして少時(しばらく)默(だま)る。
 氷川神社(ひかはじんじや)を石段(いしだん)の下(した)にて拜(をが)み、此宮(このみや)と植物園(しよくぶつゑん)の竹藪(たけやぶ)との間(あひだ)の坂(さか)を上(のぼ)りて原町(はらまち)へ懸(かゝ)れり。路(みち)の彼方(あなた)に名代(なだい)の護謨(ごむ)製造所(せいざうしよ)のあるあり。職人(しよくにん)眞黒(まつくろ)になつて働(はたら)く。護謨(ごむ)の匂(にほひ)面(おもて)を打(う)つ。通(とほ)り拔(ぬ)ければ木犀(もくせい)の薫(かをり)高(たか)き横町(よこちやう)なり。これより白山(はくさん)の裏(うら)に出(い)でて、天外君(てんぐわいくん)の竹垣(たけがき)の前(まへ)に至(いた)るまでは我々(われ/\)之(これ)を間道(かんだう)と稱(とな)へて、夜(よる)は犬(いぬ)の吠(ほ)ゆる難處(なんしよ)なり。件(くだん)の垣根(かきね)を差覗(さしのぞ)きて、をぢさん居(ゐ)るか、と聲(こゑ)を懸(か)ける。黄菊(きぎく)を活(い)けたる床(とこ)の間(ま)の見透(みとほ)さるゝ書齋(しよさい)に聲(こゑ)あり、居(ゐ)る/\と。
 やがて着流(きなが)し懷手(ふところで)にて、冷(つめた)さうな縁側(えんがは)に立顯(たちあらは)れ、莞爾(につこ)として曰(いは)く、何處(どこ)へ。あゝ北八(きたはち)の野郎(やらう)とそこいらまで。まあ、お入(はひ)り。いづれ、と言(い)つて分(わか)れ、大乘寺(だいじようじ)の坂(さか)を上(のぼ)り、駒込(こまごめ)に出(い)づ。
 料理屋(れうりや)萬金(まんきん)の前(まへ)を左(ひだり)へ折(を)れて眞直(まつすぐ)に、追分(おひわけ)を右(みぎ)に見(み)て、むかうへ千駄木(せんだぎ)に至(いた)る。
 路(みち)に門(もん)あり、門内(もんない)兩側(りやうがは)に小松(こまつ)をならべ植(う)ゑて、奧深(おくふか)く住(すま)へる家(いへ)なり。主人(あるじ)は、巣鴨(すがも)邊(へん)の學校(がくかう)の教授(けうじゆ)にて知(し)つた人(ひと)。北八(きたはち)を顧(かへり)みて、日曜(にちえう)でないから留守(るす)だけれども、氣(き)の利(き)いた小間使(こまづかひ)が居(ゐ)るぜ、一寸(ちよつと)寄(よ)つて茶(ちや)を呑(の)まうかと笑(わら)ふ。およしよ、と苦(にが)い顏(かほ)をする。即(すなは)ちよして、團子坂(だんござか)に赴(おもむ)く。坂(さか)の上(うへ)の煙草屋(たばこや)にて北八(きたはち)嗜(たし)む處(ところ)のパイレートを購(あがな)ふ。勿論(もちろん)身錢(みぜに)なり。此(こ)の舶來(はくらい)煙草(たばこ)此邊(このへん)には未(いま)だ之(こ)れあり。但(たゞ)し濕(しめ)つて味(あじはひ)可(か)ならず。
 坂(さか)の下(した)は、左右(さいう)の植木屋(うゑきや)、屋外(をくぐわい)に足場(あしば)を設(まう)け、半纏着(はんてんぎ)の若衆(わかもの)蛛手(くもで)に搦(から)んで、造菊(つくりぎく)の支度最中(したくさいちう)なりけり。行(ゆ)く/\フと古道具屋(ふるだうぐや)の前(まへ)に立(た)つ。彌次(やじ)見(み)て曰(いは)く、茶棚(ちやだな)はあんなのが可(い)いな。入(い)らつしやいまし、と四十恰好(しじふかつかう)の、人柄(ひとがら)なる女房(にようばう)奧(おく)より出(い)で、坐(ざ)して慇懃(いんぎん)に挨拶(あいさつ)する。南無三(なむさん)聞(きこ)えたかとぎよつとする。爰(こゝ)に於(おい)てか北八(きたはち)大膽(だいたん)に、おかみさん彼(あ)の茶棚(ちやだな)はいくら。皆(みな)寒竹(かんちく)でございます、はい、お品(しな)が宜(よろ)しうございます、五圓六十錢(ごゑんろくじつせん)に願(ねが)ひたう存(ぞん)じます。兩人(りやうにん)顏(かほ)を見合(みあは)せて思入(おもひいれ)あり。北八(きたはち)心得(こゝろえ)たる顏(かほ)はすれども、さすがにどぎまぎして言(い)はむと欲(ほつ)する處(ところ)を知(し)らず、おかみさん歸(かへり)にするよ。唯々(はい/\)。お邪魔(じやま)でしたと兄(にい)さんは旨(うま)いものなり。虎口(ここう)を免(のが)れたる顏色(かほつき)の、何(ど)うだ、北八(きたはち)恐入(おそれい)つたか。餘計(よけい)な口(くち)を利(き)くもんぢやないよ。
 思(おも)ひ懸(が)けず又(また)露地(ろぢ)の口(くち)に、抱餘(かゝへあま)る松(まつ)の大木(たいぼく)を筒切(つゝぎり)にせしよと思(おも)ふ、張子(はりこ)の恐(おそろ)しき腕(かひな)一本(いつぽん)、荷車(にぐるま)に積置(つみお)いたり。追(おつ)て、大江山(おほえやま)はこれでござい、入(い)らはい/\と言(い)ふなるべし。
 笠森稻荷(かさもりいなり)のあたりを通(とほ)る。路傍(みちばた)のとある駄菓子屋(だぐわしや)の奧(おく)より、中形(ちうがた)の浴衣(ゆかた)に繻子(しゆす)の帶(おび)だらしなく、島田(しまだ)、襟白粉(えりおしろい)、襷(たすき)がけなるが、緋褌(ひこん)を蹴返(けかへ)し、ばた/\と駈(か)けて出(い)で、一寸(ちよつと)、煮豆屋(にまめや)さん/\。手(て)には小皿(こざら)を持(も)ちたり。四五軒(しごけん)行過(ゆきす)ぎたる威勢(ゐせい)の善(よ)き煮豆屋(にまめや)、振返(ふりかへ)りて、よう!と言(い)ふ。
 そら又(また)化性(けしやう)のものだと、急足(いそぎあし)に谷中(やなか)に着(つ)く。いつも變(かは)らぬ景色(けしき)ながら、腕(うで)と島田(しまだ)におびえし擧句(あげく)の、心細(こゝろぼそ)さいはむ方(かた)なし。
 森(もり)の下(した)の徑(こみち)を行(ゆ)けば、土(つち)濡(ぬ)れ、落葉(おちば)濕(しめ)れり。


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