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- 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

  • 朗読CD 朗読街道30「魔術・妙な話・春の夜」芥川龍之介
  • 「芥川龍之介」 関口安義   岩波新書
  • ◆◇ 芥川龍之介 著「羅生門・鼻」(新潮文庫) ◇◆
  • 朗読CD 朗読街道28「トロッコ・蜜柑・片恋・他」芥川龍之介
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  • 芥川龍之介◆侏儒の言葉・西方の人◆続西方の人収録
  • 別冊毎日グラフ 芥川龍之介 生誕百年、そして今
  • 絶版■芥川龍之介【邪宗門・杜子春】新潮文庫帯/昭和42年/葱.秋
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芥川龍之介  横浜(よこはま)。  日華洋行(にっかようこう)の主人|陳彩(ちんさい)は、机に背広の両肘(りょうひじ)を凭(もた)せて、火の消えた葉巻(はまき)を啣(くわ)えたまま、今日も堆(うずたか)い商用書類に、繁忙な眼を曝(さら)していた。
 更紗(さらさ)の窓掛けを垂れ部屋の内には、不相変(あいかわらず)残暑の寂寞(せきばく)が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの※(におい)のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
 書類が一山片づいた後(のち)、陳(ちん)はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「私(わたし)の家(うち)へかけてくれ給え。」
 陳の唇を洩れ言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子(ふさこ)かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間(ま)に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸(マッチ)を摺(す)って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
 ……煙草の煙、草花の※(におい)、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上(のぼ)る調子|外(はず)れのカルメン音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒(ビール)を前にしながら、たった一人茫然と、卓(テーブル)に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
 女はまだ見た所、二十(はたち)を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙(せわ)しそうにビルを書いている。額の捲(ま)き毛、かすかな頬紅(ほおべに)、それから地味青磁色(せいじいろ)の半襟。――
 陳は麦酒(ビール)を飲み干すと、徐(おもむろ)に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」
 女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら。」
 陳は小銭(こぜに)を探りながら、女の指へ顋(あご)を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの金(きん)の両端(りょうはし)を抱(だ)かせた、約婚の指環が嵌(はま)っている。
「じゃ今夜買って頂戴。」
 女は咄嗟(とっさ)に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ。」
 カッフェの外(そと)のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交(まじ)りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……
 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩(ちんさい)の心を喚(よ)び返した。
「おはいり。」
 その声がまだ消えない内に、ニスの※のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西(いまにし)が、無気味(ぶきみ)なほど静にはいって来た。
手紙が参りました。」
 黙って頷(うなず)いた陳の顔には、その上今西に一言(いちごん)も、口を開かせない不機嫌(ふきげん)さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。
 戸が今西の後にしまった後(のち)、陳は灰皿葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪(けんお)の情が浮んで来た。
「またか。」
 陳は太い眉を顰(しか)めながら、忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、靴(くつ)の踵(かかと)を机の縁(ふち)へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切小刀(かみきりこがたな)も使わずに封を切った。
「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日(こんにち)に至るまで、何等|断乎(だんこ)たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且|珈琲店(コーヒーてん)の給仕女たりし房子(ふさこ)夫人が、……支那人(シナじん)たる貴下のために、万斛(ばんこく)の同情無き能わず候。……今後もし夫人離婚せられずんば、……貴下は万人の嗤笑(ししょう)する所となるも……微衷不悪(びちゅうあしからず)御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」
 手紙は力なく陳の手から落ちた。
 ……陳は卓子(テーブル)に倚(よ)りかかりながら、レエスの窓掛けを洩(も)れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字(もじ)は、房子のイニシアルではないらしい。


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