待つ者 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
少しく距離をへだてた人家の、硝子戸のある窓や縁先から、灯火のついている室内を眺めると、往々、おかしなことを考える。じかにまざまざと見えるのではいけない。多少の距離と硝子戸などで、室内の灯火と物象とがぼかされ美化され、人影はくっきり浮出しながらその人物は分らない、それくらいの程度がよい。
そうした室内の遠望のうち、最も面白いのは、食膳と臥床である。或る自然主義の大家ならば、人は起きて食い働き食いそして眠る、一生同じことを繰返してよく倦きないものだと、歎息するところであろうが、私はもっと幼稚なばかげたことを空想する。
四角な餉台、遠目によくは分らないが、大小さまざまな皿や椀、側には飯櫃や鍋、恐らくは心こめた而もつつましい料理が整えられていることだろう。母親か或は細君らしい人が、それらのものを程よく置き並べ、餉台の上に白布をかぶせて、どこかへ行ってしまった。それきり、誰も出て来ない。餉台の上の料理は、白布の下で、いつまでも待っている。一体誰に食べてもらうつもりなのか。電灯が明るくついているだけで、人の姿は見えない。食べる人はどこにいるのか、どこに行ったのか。時がたち、そしてなおいつまでも、食べる人はやって来ない。誰も出て来ない。料理だけがなおじっと待っている。
また、硝子戸に半ばカーテンを引かれた室内で、若い女が静に動いている。奥働きの女中であろうか。押入の襖を開いて、寝床をのべているのだ。柔かな布団、真白なシーツ、恐らくは、枕の覆いも真白な新らしいものであろう。床をのべ終って、行儀のよい女中は、小腰をかがめて押入の襖をしめ、そして出て行った。電灯はなお明るく輝き、カーテンはなお半ば開き、そのままで、誰も姿を見せない。誰があの電灯を薄暗くし、誰があの雨戸をしめ、誰があのカーテンを引くだろうか。それよりも、誰が一体あの臥床に休らうのであろうか。布団は徒らに軽やかで柔く、シーツや枕覆いは徒らに白い。そこに休息の眠りを取るべき人は、どこに行ったのか。いつまで待っても誰も来ない。夜通し、そしてなお幾日も、臥床は待ち通すだろう……。
それが、私の空想なのだ。
こんな下らないことを、人に話したって、ただ一笑に付されるにちがいない。その上、こんなことを考えるのは、人に物を云いたくない時のことである。或る一つのことに思い耽って、精神の明暗の分野がくっきりと分たれ、明るい部分が狭く凝縮してくる。そうした時に限る。そしてその明るい部分の中に、人生の日常の経路が中断された、その断面が浮んでくる。主人公を徒らに待ちわびている餉台や臥床は、人生の日常経路の中断面の相貌なのだ。そして暗い部分のなかに、他のさまざまなことが溺れこむ。よく知ってる人の名前を忘れたり、はっきり分ってる事柄が曖昧になったりする。だから、精神の狭い明所に浮ぶ人生の中断面を一人で見つめていればよいので、そんなことは人に話したとて同感を得るわけのものではなく、人に話せるようなことは精神の暗所の中に沈没してるのである。然るに、それを、なぜ今茲に書くかと云えば、実は、一人の人から同感されたのである。
私は酒が好きで、酒の上での知人が幾人かある。酒の上の知人は面白いもので、お互に、経歴も身分も住所も知らず、ただ顔と声と思想とだけで相識り、而も往々、親しい者にも話せないようなことまで不用意に打明ける。そういう話の中では、嘘も事実も共に真実となる。
それらの知人のうちの一人と、私は或る夜遅く、私達の交際場所たる小料理屋で出会った。どちらも酔っていた。彼は何かと話しかけてきた。生憎私は、物を云いたくない時機にあった。或る一つのことに思い耽って、精神内のぽつりとした明るみを見守っていた。彼は話しかけてくる。私はうるさくなって、今は口を利きたくない時だから黙っていてくれと云った。今自分が考えてることは誰にも分らないような種類のものだと云った。彼は口を噤んで、娘の子のような眼付で私の方に窺いよってくるのだった。
そうした室内の遠望のうち、最も面白いのは、食膳と臥床である。或る自然主義の大家ならば、人は起きて食い働き食いそして眠る、一生同じことを繰返してよく倦きないものだと、歎息するところであろうが、私はもっと幼稚なばかげたことを空想する。
四角な餉台、遠目によくは分らないが、大小さまざまな皿や椀、側には飯櫃や鍋、恐らくは心こめた而もつつましい料理が整えられていることだろう。母親か或は細君らしい人が、それらのものを程よく置き並べ、餉台の上に白布をかぶせて、どこかへ行ってしまった。それきり、誰も出て来ない。餉台の上の料理は、白布の下で、いつまでも待っている。一体誰に食べてもらうつもりなのか。電灯が明るくついているだけで、人の姿は見えない。食べる人はどこにいるのか、どこに行ったのか。時がたち、そしてなおいつまでも、食べる人はやって来ない。誰も出て来ない。料理だけがなおじっと待っている。
また、硝子戸に半ばカーテンを引かれた室内で、若い女が静に動いている。奥働きの女中であろうか。押入の襖を開いて、寝床をのべているのだ。柔かな布団、真白なシーツ、恐らくは、枕の覆いも真白な新らしいものであろう。床をのべ終って、行儀のよい女中は、小腰をかがめて押入の襖をしめ、そして出て行った。電灯はなお明るく輝き、カーテンはなお半ば開き、そのままで、誰も姿を見せない。誰があの電灯を薄暗くし、誰があの雨戸をしめ、誰があのカーテンを引くだろうか。それよりも、誰が一体あの臥床に休らうのであろうか。布団は徒らに軽やかで柔く、シーツや枕覆いは徒らに白い。そこに休息の眠りを取るべき人は、どこに行ったのか。いつまで待っても誰も来ない。夜通し、そしてなお幾日も、臥床は待ち通すだろう……。
それが、私の空想なのだ。
こんな下らないことを、人に話したって、ただ一笑に付されるにちがいない。その上、こんなことを考えるのは、人に物を云いたくない時のことである。或る一つのことに思い耽って、精神の明暗の分野がくっきりと分たれ、明るい部分が狭く凝縮してくる。そうした時に限る。そしてその明るい部分の中に、人生の日常の経路が中断された、その断面が浮んでくる。主人公を徒らに待ちわびている餉台や臥床は、人生の日常経路の中断面の相貌なのだ。そして暗い部分のなかに、他のさまざまなことが溺れこむ。よく知ってる人の名前を忘れたり、はっきり分ってる事柄が曖昧になったりする。だから、精神の狭い明所に浮ぶ人生の中断面を一人で見つめていればよいので、そんなことは人に話したとて同感を得るわけのものではなく、人に話せるようなことは精神の暗所の中に沈没してるのである。然るに、それを、なぜ今茲に書くかと云えば、実は、一人の人から同感されたのである。
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