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後光殺人事件 - 小栗 虫太郎 ( おぐり むしたろう )

  • 週刊プロレス 蘇った後光/1995.2/14no.655
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  一、合掌する屍体  前捜査局長で目下一流の刑事弁護士である法水麟太郎(のりみずりんたろう)は、招かれた精霊の去る日に、新しい精霊が何故去ったか――を突き究めねばならなかった。と云うのは、七月十六日の朝、普賢山劫楽寺の住職――と云うよりも、絵筆を捨てた堅山画伯と呼ぶ方が著名(ポピュラー)であろうが――その鴻巣胎龍(こうのすたいりゅう)氏が奇怪な変死を遂げたと云う旨を、支倉(はぜくら)検事電話で伝えたからである。然し、劫楽寺は彼にとって全然未知の場所ではない。法水の友人で、胎龍と並んで木賊(とくさ)派の双璧と唱われた雫石(しずくいし)喬村の家が、劫楽寺と恰度垣一重の隣にあって、二階から二つの大池のある風景が眼下に見える。それには、造園技巧がないだけに、却ってもの鄙びた雅致があった。
 小石川清水谷の坂を下ると、左手に樫や榛(はしばみ)の大樹が欝蒼と繁茂している――その高台が劫楽寺だ。周囲は桜堤と丈余の建仁寺垣に囲まれていて、本堂の裏手には、この寺の名を高からしめている薬師堂がある。胎龍の屍体発見されたのは、薬師堂背景をなす杉林に囲まれた、荒廃した堂宇の中であった。
 三尺四方もある大きな敷石が、本堂横手から始まっていて、薬師堂を卍形に曲り、現場に迄達している。堂は四坪程の広さで、玄白堂と云う篆額(てんがく)が掛っているが、堂とは名のみのこと、内部(なか)には板敷もなく、入口にもお定まりの狐格子さえない。そして、残りの三方は分厚な六分板で張り詰められ、それを、二つの大池をつなぐ池溝が、馬蹄形になって取り囲んでいる。更に堂の周囲を説明すると、池溝は右手の池の堰から始まっていて、それが、堂の後方をすぎて馬蹄形の左辺にかかる辺り迄は、両岸が擬山岩の土堤になっている。樹木は堂の周囲にはないが、前方に差し交した杉の大枝が陽を遮っているので、早朝ホンの一刻しか陽が射さず、周囲は苔と湿気とで、深山のような土の匂いがするのだった。
 細かい砂礫を敷き詰めた堂の内部には、蜘蛛の巣と煤が鐘乳石のように垂れ下っていて、奥の暗がりの中に色泥の剥げた伎芸天女の等身像が、それも白い顔だけが、無気味な生々しさで浮き出していた。それに、石垣にあるような大石が、天人像近くに一つ転がっている所は、恰度南北物のト書とでも云った所で、それが何んとも云われぬ鬼気なのであった。
 法水の顔を見ると、支倉(はぜくら)検事は親し気に目礼したが、その背後から例の野生的な声を張り上げて、捜査局長の熊城(くましろ)卓吉が、その脂切った短躯をノッシノッシ乗り出して来た。
「いいかね法水君、これが発見当時その儘の状況なんだぜ。それが判ると、僕が態々(わざわざ)君をお招きした理由合点が往くだろう」
 法水は努めて冷静を装ってはいたが、流石心中の動揺は覆い隠せなかった。彼は非度く神経的な手附で屍体を弄(いじ)り始めた。屍体は既に冷却し完全に強直してはいるが、その形状は宛ら怪奇派の空想画である。大石に背を凭(もた)せて、両手に珠数をかけて合掌したまま、沈痛な表情で奥の天人像に向って端座しているのだ。年齢五十五、六、左眼は失明していて、右眼だけをカッと瞶(みひら)いている。燈芯のような躯の身長が精々五尺あるかなしかだが、白足袋を履き紫襴の袈裟をつけた所には、流石(さすが)争われぬ貫録があった。創傷は、顱頂骨と前頭骨の縫合部に孔けられている、円い鏨型の刺傷であって、それが非常なお凸(でこ)であるために、頭顱の略々(ほぼ)円芯に当っていた。創傷の径は約半|糎(センチ)、創底は頭蓋腔中に突入していて、周囲の骨には陥没した骨折もなく、砕片も見当らない。創傷中心に細い朱線を引いて、蜘蛛糸のような裂罅(れっか)が縫合部を蜒り走っているが、何れ左右の楔状骨に迄達している。そして、流血が腫起した周囲を塗って火山型に盛り上り凝結している所は、宛ら桜実(さくらんぼう)を載せた氷菓(アイスクリーム)そっくりであるが、それ以外には外傷は勿論血痕一つない。のみならず、着衣にも汚れがなく、襞も着付も整然としている。泥の附着も地面に接した部分にだけで、それも極め自然であり、堂内には格闘の形跡は愚か、指紋は勿論その他の如何なる痕跡も残されていないのだ。
「どうだい、この屍体は、実に素晴らしい彫刻じゃないか」と熊城が、寧ろ挑戦的な調子で云った。
「何処から何処まで不可解ずくめなんて、ピッタリと君の趣味だぜ」
「なァに、驚く事はないさ。新しい流派(イズム)の画と云うやつは、とかくこう云ったものなんだよ」法水はやり返して腰を伸ばしたが、「だが、妙だな。この像の右眼だけが、盲目(めくら)なんだぜ。それに、像だけに埃が付いていないのは、どうしたと云うものだろう」と呟いた。
「それは、被害者の胎龍だけが、繁くこの堂に出入りしていたと云うからね。多分その辺に原因があるに違いないぜ。それから、今朝八時に検屍したのだが、死後十時間以上十二時間と云う鑑定だ。然し、傷口の中に羽蟻が二匹捲き込まれている所を見ると、絶命は八時から九時迄の間と云えるだろう。昨夜はその頃に、羽蟻の猛烈な襲来があったそうだよ
「すると、兇器は?」
「それがまだ発見(みつ)からんのだ。それから、この日和下駄被害者が履いていたのだそうだ」
 堂の右端にある敷石から、そこと大石との間を往復している雪駄の跡があって、もう一つその右寄りに、二の字が大石の側迄続いているのだが、日和下駄はそこへ脱ぎ捨てられてある。(前頁の図を参照されたい)その間、検事日和下駄の歯跡の溝を計っていたが、
「どうも、体重の割に溝が深いと思うが」
「それは暗い中を歩いたからさ。明るい所と違って、兎角体重が掛り勝ちになるからね」と法水は検事の疑念に答えてから、何んと思ったか、巻尺足跡の辺で縦にすると、それがコロコロ左手に転がって行く。彼はそれを無言の中に眺めていたが、やがて熊城に、「君は、殺人が一体何処で行われたと思うね」と訊ねた。
歴然たるものじゃないか」熊城は異様な所作に続く法水の奇問に、眼をパチクリさせたが、「とにかく見た通りさ。被害者日和を脱いで大石に上ってから、やんわり地上下りたのだ。そして、雪駄を履いた犯人が、背後から兇行を行ったのだよ。然し、屍体形状を見ると、無論それには、破天荒機構(メカニズム)が潜んでいる事だと思うがね」
機構(メカニズム)※」検事は熊城らしくない用語微笑みかけたが、「ウン、確かにある」と頷いて、「その一部屍体合掌さ。あれを見ると、絶命から強直迄の間に、犯人が余程複雑な動作をしたと見なけりゃならん。所が、そんな跡は何処にも見当たらないと来てるんだ」
 法水はそれには別に意見を吐かなかったが、再び屍体を見下ろして頭顱(あたま)に巻尺を当てた。
「熊城君、帽子の寸法(サイズ)で八|吋(インチ)に近い大頭だよ。


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