忠義 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )
芥川龍之介
一 前島林右衛門(まえじまりんえもん)
板倉修理(いたくらしゅり)は、病後の疲労が稍(やや)恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。――
肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下(ろうか)を通る人の足音とか、家中(かちゅう)の者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意が擾(みだ)されてしまう。それがだんだん嵩(こう)じて来ると、今度は極(ごく)些細(ささい)な刺戟からも、絶えず神経を虐(さいな)まれるような姿になった。
第一、莨盆(たばこぼん)の蒔絵(まきえ)などが、黒地に金(きん)の唐草(からくさ)を這(は)わせていると、その細い蔓(つる)や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙(ぞうげ)の箸(はし)とか、青銅の火箸とか云う先の尖(とが)った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁(へり)の交叉した角(かど)や、天井の四隅(よすみ)までが、丁度|刃物(はもの)を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
修理(しゅり)は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄(ありじごく)に落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、徒(いたずら)に万一を惧(おそ)れている「譜代(ふだい)の臣」ばかりである。「己(おれ)は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎(ことごと)に興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架(かたなかけ)の刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣(けいれん)して眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発作(ほっさ)が甚しくなると、必ず左右の鬢(びん)の毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近習(きんじゅ)の者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索引(さくいん)にした。そう云う時には、互に警(いまし)め合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、己(おのれ)を脅(おびや)かすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉(ふきつ)な不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」
――そう思うと、彼は、俄(にわか)に眼の前が、暗くなるような心もちがした。
勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。
―――――――――――――――――――――――――
修理(しゅり)のこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島|林右衛門(りんえもん)である。
林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板倉式部(いたくらしきぶ)から、附人(つけびと)として来ているので、修理も彼には、日頃から一目(いちもく)置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、赭(あか)ら顔の大男で、文武の両道に秀(ひい)でている点では、家中(かちゅう)の侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の大久保彦左(おおくぼひこざ)」などと呼ばれていたのも、完(まった)くこの忠諫(ちゅうかん)を進める所から来た渾名(あだな)である。
林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心を煩(わずら)わした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩(びょうかん)の御礼として、登城(とじょう)しなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附合(つきあい)の諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰(にんじょうざた)にでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑(いんかん)は遠からず、堀田稲葉(ほったいなば)の喧嘩(けんか)にあるではないか。
林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。
第一、莨盆(たばこぼん)の蒔絵(まきえ)などが、黒地に金(きん)の唐草(からくさ)を這(は)わせていると、その細い蔓(つる)や葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙(ぞうげ)の箸(はし)とか、青銅の火箸とか云う先の尖(とが)った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁(へり)の交叉した角(かど)や、天井の四隅(よすみ)までが、丁度|刃物(はもの)を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
修理(しゅり)は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄(ありじごく)に落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、徒(いたずら)に万一を惧(おそ)れている「譜代(ふだい)の臣」ばかりである。「己(おれ)は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎(ことごと)に興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架(かたなかけ)の刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣(けいれん)して眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発作(ほっさ)が甚しくなると、必ず左右の鬢(びん)の毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近習(きんじゅ)の者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索引(さくいん)にした。そう云う時には、互に警(いまし)め合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、己(おのれ)を脅(おびや)かすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉(ふきつ)な不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」
――そう思うと、彼は、俄(にわか)に眼の前が、暗くなるような心もちがした。
勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。
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修理(しゅり)のこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島|林右衛門(りんえもん)である。
林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板倉式部(いたくらしきぶ)から、附人(つけびと)として来ているので、修理も彼には、日頃から一目(いちもく)置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、赭(あか)ら顔の大男で、文武の両道に秀(ひい)でている点では、家中(かちゅう)の侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の大久保彦左(おおくぼひこざ)」などと呼ばれていたのも、完(まった)くこの忠諫(ちゅうかん)を進める所から来た渾名(あだな)である。
林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心を煩(わずら)わした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩(びょうかん)の御礼として、登城(とじょう)しなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附合(つきあい)の諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰(にんじょうざた)にでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑(いんかん)は遠からず、堀田稲葉(ほったいなば)の喧嘩(けんか)にあるではないか。
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