怪談女の輪 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
枕(まくら)に就(つ)いたのは黄昏(たそがれ)の頃(ころ)、之(これ)を逢魔(あふま)が時(とき)、雀色時(すゞめいろどき)などといふ一日(いちにち)の内(うち)人間(にんげん)の影法師(かげぼふし)が一番(いちばん)ぼんやりとする時(とき)で、五時(ごじ)から六時(ろくじ)の間(あひだ)に起(おこ)つたこと、私(わたし)が十七の秋(あき)のはじめ。
部屋(へや)は四疊(よでふ)敷(し)けた。薄暗(うすぐら)い縱(たて)に長(なが)い一室(いつしつ)、兩方(りやうはう)が襖(ふすま)で何室(どつち)も他(ほか)の座敷(ざしき)へ出入(でいり)が出來(でき)る。詰(つま)り奧(おく)の方(はう)から一方(いつぱう)の襖(ふすま)を開(あ)けて、一方(いつぱう)の襖(ふすま)から玄關(げんくわん)へ通拔(とほりぬ)けられるのであつた。
一方(いつぱう)は明窓(あかりまど)の障子(しやうじ)がはまつて、其外(そのそと)は疊(たゝみ)二疊(にでふ)ばかりの、しツくひ叩(だたき)の池(いけ)で、金魚(きんぎよ)も緋鯉(ひごひ)も居(ゐ)るのではない。建物(たてもの)で取※(とりま)はした此(こ)の一棟(ひとむね)の其池(そのいけ)のある上(うへ)ばかり大屋根(おほやね)が長方形(ちやうはうけい)に切開(きりひら)いてあるから雨水(あまみづ)が溜(たま)つて居(ゐ)る。雨落(あまおち)に敷詰(しきつ)めた礫(こいし)には苔(こけ)が生(は)えて、蛞蝓(なめくぢ)が這(は)ふ、濕(し)けてじと/\する、内(うち)の細君(さいくん)が元結(もとゆひ)をこゝに棄(す)てると、三七(さんしち)二十一日(にじふいちにち)にして化(くわ)して足卷(あしまき)と名(な)づける蟷螂(かまきり)の腹(はら)の寄生蟲(きせいちう)となるといつて塾生(じゆくせい)は罵(のゝし)つた。池(いけ)を圍(かこ)んだ三方(さんぱう)の羽目(はめ)は板(いた)が外(はづ)れて壁(かべ)があらはれて居(ゐ)た。室數(へやかず)は總體(そうたい)十七もあつて、庭(には)で取※(とりまは)した大家(たいけ)だけれども、何百年(なんびやくねん)の古邸(ふるやしき)、些(すこし)も手(て)が入(はひ)らないから、鼠(ねずみ)だらけ、埃(ほこり)だらけ、草(くさ)だらけ。
塾生(じゆくせい)と家族(かぞく)とが住(す)んで使(つか)つてゐるのは三室(みま)か四室(よま)に過(す)ぎない。玄關(げんくわん)を入(はひ)ると十五六疊(じふごろくでふ)の板敷(いたじき)、其(それ)へ卓子(テエブル)椅子(いす)を備(そな)へて道場(だうぢやう)といつた格(かく)の、英漢數學(えいかんすうがく)の教場(けうぢやう)になつて居(ゐ)る。外(そと)の蜘蛛(くも)の巣(す)の奧(おく)には何(なに)が住(す)んでるか、内(うち)の者(もの)にも分(わか)りはせなんだ。
其日(そのひ)から數(かぞ)へて丁度(ちやうど)一週間前(いつしうかんまへ)の夜(よ)、夜學(やがく)は無(な)かつた頃(ころ)で、晝間(ひるま)の通學生(つうがくせい)は歸(かへ)つて了(しま)ひ、夕飯(ふゆはん)が濟(す)んで、私(わたし)の部屋(へや)の卓子(つくゑ)の上(うへ)で、燈下(とうか)に美少年録(びせうねんろく)を讀(よ)んで居(ゐ)た。
一體(いつたい)塾(じゆく)では小説(せうせつ)が嚴禁(げんきん)なので、うつかり教師(けうし)に見着(みつ)かると大目玉(おほめだま)を喰(く)ふのみならず、此(この)以前(いぜん)も三馬(さんば)の浮世風呂(うきよぶろ)を一册(いつさつ)沒收(ぼつしう)されて四週間(ししうかん)置放(おきつぱな)しにされたため、貸本屋(かしほんや)から嚴談(げんだん)に逢(あ)つて、大金(たいきん)を取(と)られ、目(め)を白(しろ)くしたことがある。
其夜(そのよ)は教師(けうし)も用達(ようたし)に出掛(でか)けて留守(るす)であつたから、良(やゝ)落着(おちつ)いて讀(よ)みはじめた。やがて、
二足(にそく)つかみの供振(ともぶり)を、見返(みかへ)るお夏(なつ)は手(て)を上(あ)げて、憚樣(はゞかりさま)やとばかりに、夕暮近(ゆふぐれぢか)き野路(のぢ)の雨(あめ)、思(おも)ふ男(をとこ)と相合傘(あひあひがさ)の人目(ひとめ)稀(まれ)なる横※(よこしぶき)、濡(ぬ)れぬ前(きき)こそ今(いま)はしも、
と前後(ぜんご)も辨(わきま)へず讀(よ)んで居(ゐ)ると、私(わたし)の卓子(つくゑ)を横(よこ)に附着(つきつ)けてある件(くだん)の明取(あかりとり)の障子(しやうじ)へ、ぱら/\と音(おと)がした。
忍(しの)んで小説(せうせつ)を讀(よ)む内(うち)は、木(き)にも萱(かや)にも心(こゝろ)を置(お)いたので、吃驚(びつくり)して、振返(ふりかへ)ると、又(また)ぱら/\ぱら/\といつた。
雨(あめ)か不知(しら)、時(とき)しも秋(あき)のはじめなり、洋燈(ランプ)に油(あぶら)をさす折(をり)に覗(のぞ)いた夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の模樣(もやう)では、今夜(こんや)は眞晝(まひる)の樣(やう)な月夜(つきよ)でなければならないがと思(おも)ふ内(うち)も猶(なほ)其音(そのおと)は絶(た)えず聞(きこ)える。おや/\裏庭(うらには)の榎(えのき)の大木(たいぼく)の彼(あ)の葉(は)が散込(ちりこ)むにしては風(かぜ)もないがと、然(さ)う思(おも)ふと、はじめは臆病(おくびやう)で障子(しやうじ)を開(あ)けなかつたのが、今(いま)は薄氣味惡(うすきみわる)くなつて手(て)を拱(こまぬ)いて、思(おも)はず暗(くら)い天井(てんじやう)を仰(あふ)いで耳(みゝ)を澄(す)ました。
一分(いつぷん)、二分(にふん)、間(あひだ)を措(お)いては聞(きこ)える霰(あられ)のやうな音(おと)は次第(しだい)に烈(はげ)しくなつて、池(いけ)に落込(おちこ)む小※(こしぶき)の形勢(けはひ)も交(まじ)つて、一時(いちじ)は呼吸(いき)もつかれず、ものも言(い)はれなかつた。だが、しばらくして少(すこ)し靜(しづ)まると、再(ふたゝ)びなまけた連續(れんぞく)した調子(てうし)でぱら/\。
家(いへ)の内(うち)は不殘(のこらず)、寂(しん)として居(ゐ)たが、この音(おと)を知(し)らないではなく、いづれも聲(こゑ)を飮(の)んで脈(みやく)を數(かぞ)へて居(ゐ)たらしい。
窓(まど)と筋斜(すぢかひ)に上下(うへした)差向(さしむか)つて居(ゐ)る二階(にかい)から、一度(いちど)東京(とうきやう)に來(き)て博文館(はくぶんくわん)の店(みせ)で働(はたら)いて居(ゐ)たことのある、山田(やまだ)なにがしといふ名代(なだい)の臆病(おくびやう)ものが、あてもなく、おい/\と沈(しづ)んだ聲(こゑ)でいつた。
同時(どうじ)に一室(ひとま)措(お)いた奧(おく)の居室(へや)から震(ふる)へ聲(ごゑ)で、何(なん)でせうね。更(さら)に、一寸(ちよつと)何(なん)でせうね。止(や)むことを得(え)ず、えゝ、何(なん)ですか、音(おと)がしますが、と、之(これ)をキツカケに思(おも)ひ切(き)つて障子(しやうじ)を開(あ)けた。池(いけ)はひつくりかへつても居(を)らず、羽目板(はめいた)も落(お)ちず、壁(かべ)の破(やぶれ)も平時(いつも)のまゝで、月(つき)は形(かたち)は見(み)えないが光(ひかり)は眞白(まつしろ)にさして居(ゐ)る。とばかりで、何事(なにごと)も無(な)く、手早(てばや)く又(また)障子(しやうじ)を閉(し)めた。音(おと)はかはらず聞(きこ)えて留(や)まぬ。
處(ところ)へ、細君(さいくん)はしどけない寢衣(ねまき)のまゝ、寢(ね)かしつけて居(ゐ)たらしい、乳呑兒(ちのみご)を眞白(まつしろ)な乳(ちゝ)のあたりへしつかりと抱(だ)いて色(いろ)を蒼(あを)うして出(で)て見(み)えたが、ぴつたり私(わたし)の椅子(いす)の下(もと)に坐(すわ)つて、石(いし)のやうに堅(かた)くなつて目(め)を※(みは)つて居(ゐ)る。
おい山田(やまだ)下(お)りて來(こ)い、と二階(にかい)を大聲(おほごゑ)で呼(よ)ぶと、ワツといひさま、けたゝましく、石垣(いしがき)が崩(くづ)れるやうにがたびしと駈(か)け下(お)りて、私(わたし)の部屋(へや)へ一所(いつしよ)になつた。いづれも一言(ひとこと)もなし。
此上(このうへ)何事(なにごと)か起(おこ)つたら、三人(さんにん)とも團子(だんご)に化(な)つてしまつたらう。
何(なん)だか此池(このいけ)を仕切(しき)つた屋根(やね)のあたりで頻(しきり)に礫(つぶて)を打(う)つやうな音(おと)がしたが、ぐる/\渦(うづ)を卷(ま)いちやあ屋根(やね)の上(うへ)を何十(なんじふ)ともない礫(つぶて)がひよい/\駈(か)けて歩行(ある)く樣(やう)だつた。をかしいから、俺(おれ)は門(もん)の處(ところ)に立(た)つて氣(き)を取(と)られて居(ゐ)たが、變(へん)だなあ、うむ、外(そと)は良(い)い月夜(つきよ)で、蟲(むし)の這(は)ふのが見(み)えるやうだぜ、恐(おそろ)しく寒(さむ)いぢやあないか、と折(をり)から歸(かへ)つて來(き)た教師(けうし)はいつたのである。
幸(さいは)ひ美少年録(びせうねんろく)も見着(みつ)からず、教師(けうし)は細君(さいくん)を連(つ)れて別室(べつしつ)に去(さ)り、音(おと)も其(それ)ツ切(きり)聞(きこ)えずに濟(す)んだ。
夜(よ)が明(あ)けると、多勢(おほぜい)の通學生(つうがくせい)をつかまへて、山田(やまだ)が其(その)吹聽(ふいちやう)といつたらない。鵺(ぬえ)が來(き)て池(いけ)で行水(ぎやうずゐ)を使(つか)つたほどに、事(こと)大袈裟(おほげさ)に立到(たちいた)る。
其奴(そいつ)引捕(ひつとら)へて呉(く)れようと、海陸軍(かいりくぐん)を志願(しぐわん)で、クライブ傳(でん)、三角術(さんかくじゆつ)などを講(かう)じて居(ゐ)る連中(れんぢう)が、鐵骨(てつこつ)の扇(あふぎ)、短刀(たんたう)などを持參(ぢさん)で夜更(よふけ)まで詰懸(つめかけ)る、近所(きんじよ)の仕出屋(しだしや)から自辨(じべん)で兵糧(ひやうらう)を取寄(とりよ)せる、百目蝋燭(ひやくめらふそく)を買入(かひい)れるといふ騷動(さうどう)。
四五日(しごにち)經(た)つた、が豪傑連(がうけつれん)何(なん)の仕出(しだ)したこともなく、無事(ぶじ)にあそんで靜(しづ)まつて了(しま)つた。
扨(さて)其黄昏(そのたそがれ)は、少(すこ)し風(かぜ)の心持(こゝろもち)、私(わたし)は熱(ねつ)が出(で)て惡寒(さむけ)がしたから掻卷(かいまき)にくるまつて、轉寢(うたゝね)の内(うち)も心(こゝろ)が置(お)かれる小説(せうせつ)の搜索(さうさく)をされまいため、貸本(かしほん)を藏(かく)してある件(くだん)の押入(おしいれ)に附着(くツつ)いて寢(ね)た。眠(ねむ)くはないので、ぱちくり/\目(め)を※(あ)いて居(ゐ)ても、物(もの)は幻(まぼろし)に見(み)える樣(やう)になつて、天井(てんじやう)も壁(かべ)も卓子(テエブル)の脚(あし)も段々(だん/\)消(き)えて行(ゆ)く心細(こゝろぼそ)さ。
塾(じゆく)の山田(やまだ)は、湯(ゆ)に行(い)つて、教場(けうぢやう)にも二階(にかい)にも誰(たれ)も居(を)らず、物音(ものおと)もしなかつた。枕頭(まくらもと)へ……ばたばたといふ跫音(あしおと)、ものの近寄(ちかよ)る氣勢(けはひ)がする。
枕(まくら)をかへして、頭(つむり)を上(あ)げた、が誰(たれ)も來(き)たのではなかつた。
しばらくすると、再(ふたゝ)び、しと/\しと/\と摺足(すりあし)の輕(かる)い、譬(たと)へば身體(からだ)の無(な)いものが、踵(きびす)ばかり疊(たゝみ)を踏(ふ)んで來(く)るかと思(おも)ひ取(と)られた。また顏(かほ)を上(あ)げると何(なん)にも居(を)らない。其時(そのとき)は前(まへ)より天窓(あたま)が重(おも)かつた、顏(かほ)を上(あ)げるが物憂(ものう)かつた。
繰返(くりかへ)して三度(さんど)、また跫音(あしおと)がしたが、其時(そのとき)は枕(まくら)が上(あが)らなかつた。室内(しつない)の空氣(くうき)は唯(たゞ)彌(いや)が上(うへ)に蔽重(おほひかさな)つて、おのづと重量(ぢうりやう)が出來(でき)て壓(おさ)へつけるやうな!
鼻(はな)も口(くち)も切(せつな)さに堪(た)へられず、手(て)をもがいて空(くう)を拂(はら)ひながら呼吸(いき)も絶(た)え/″\に身(み)を起(おこ)した、足(あし)が立(た)つと、思(おも)はずよろめいて向(むか)うの襖(ふすま)へぶつかつたのである。
一方(いつぱう)は明窓(あかりまど)の障子(しやうじ)がはまつて、其外(そのそと)は疊(たゝみ)二疊(にでふ)ばかりの、しツくひ叩(だたき)の池(いけ)で、金魚(きんぎよ)も緋鯉(ひごひ)も居(ゐ)るのではない。建物(たてもの)で取※(とりま)はした此(こ)の一棟(ひとむね)の其池(そのいけ)のある上(うへ)ばかり大屋根(おほやね)が長方形(ちやうはうけい)に切開(きりひら)いてあるから雨水(あまみづ)が溜(たま)つて居(ゐ)る。雨落(あまおち)に敷詰(しきつ)めた礫(こいし)には苔(こけ)が生(は)えて、蛞蝓(なめくぢ)が這(は)ふ、濕(し)けてじと/\する、内(うち)の細君(さいくん)が元結(もとゆひ)をこゝに棄(す)てると、三七(さんしち)二十一日(にじふいちにち)にして化(くわ)して足卷(あしまき)と名(な)づける蟷螂(かまきり)の腹(はら)の寄生蟲(きせいちう)となるといつて塾生(じゆくせい)は罵(のゝし)つた。池(いけ)を圍(かこ)んだ三方(さんぱう)の羽目(はめ)は板(いた)が外(はづ)れて壁(かべ)があらはれて居(ゐ)た。室數(へやかず)は總體(そうたい)十七もあつて、庭(には)で取※(とりまは)した大家(たいけ)だけれども、何百年(なんびやくねん)の古邸(ふるやしき)、些(すこし)も手(て)が入(はひ)らないから、鼠(ねずみ)だらけ、埃(ほこり)だらけ、草(くさ)だらけ。
塾生(じゆくせい)と家族(かぞく)とが住(す)んで使(つか)つてゐるのは三室(みま)か四室(よま)に過(す)ぎない。玄關(げんくわん)を入(はひ)ると十五六疊(じふごろくでふ)の板敷(いたじき)、其(それ)へ卓子(テエブル)椅子(いす)を備(そな)へて道場(だうぢやう)といつた格(かく)の、英漢數學(えいかんすうがく)の教場(けうぢやう)になつて居(ゐ)る。外(そと)の蜘蛛(くも)の巣(す)の奧(おく)には何(なに)が住(す)んでるか、内(うち)の者(もの)にも分(わか)りはせなんだ。
其日(そのひ)から數(かぞ)へて丁度(ちやうど)一週間前(いつしうかんまへ)の夜(よ)、夜學(やがく)は無(な)かつた頃(ころ)で、晝間(ひるま)の通學生(つうがくせい)は歸(かへ)つて了(しま)ひ、夕飯(ふゆはん)が濟(す)んで、私(わたし)の部屋(へや)の卓子(つくゑ)の上(うへ)で、燈下(とうか)に美少年録(びせうねんろく)を讀(よ)んで居(ゐ)た。
一體(いつたい)塾(じゆく)では小説(せうせつ)が嚴禁(げんきん)なので、うつかり教師(けうし)に見着(みつ)かると大目玉(おほめだま)を喰(く)ふのみならず、此(この)以前(いぜん)も三馬(さんば)の浮世風呂(うきよぶろ)を一册(いつさつ)沒收(ぼつしう)されて四週間(ししうかん)置放(おきつぱな)しにされたため、貸本屋(かしほんや)から嚴談(げんだん)に逢(あ)つて、大金(たいきん)を取(と)られ、目(め)を白(しろ)くしたことがある。
其夜(そのよ)は教師(けうし)も用達(ようたし)に出掛(でか)けて留守(るす)であつたから、良(やゝ)落着(おちつ)いて讀(よ)みはじめた。やがて、
二足(にそく)つかみの供振(ともぶり)を、見返(みかへ)るお夏(なつ)は手(て)を上(あ)げて、憚樣(はゞかりさま)やとばかりに、夕暮近(ゆふぐれぢか)き野路(のぢ)の雨(あめ)、思(おも)ふ男(をとこ)と相合傘(あひあひがさ)の人目(ひとめ)稀(まれ)なる横※(よこしぶき)、濡(ぬ)れぬ前(きき)こそ今(いま)はしも、
と前後(ぜんご)も辨(わきま)へず讀(よ)んで居(ゐ)ると、私(わたし)の卓子(つくゑ)を横(よこ)に附着(つきつ)けてある件(くだん)の明取(あかりとり)の障子(しやうじ)へ、ぱら/\と音(おと)がした。
忍(しの)んで小説(せうせつ)を讀(よ)む内(うち)は、木(き)にも萱(かや)にも心(こゝろ)を置(お)いたので、吃驚(びつくり)して、振返(ふりかへ)ると、又(また)ぱら/\ぱら/\といつた。
雨(あめ)か不知(しら)、時(とき)しも秋(あき)のはじめなり、洋燈(ランプ)に油(あぶら)をさす折(をり)に覗(のぞ)いた夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の模樣(もやう)では、今夜(こんや)は眞晝(まひる)の樣(やう)な月夜(つきよ)でなければならないがと思(おも)ふ内(うち)も猶(なほ)其音(そのおと)は絶(た)えず聞(きこ)える。おや/\裏庭(うらには)の榎(えのき)の大木(たいぼく)の彼(あ)の葉(は)が散込(ちりこ)むにしては風(かぜ)もないがと、然(さ)う思(おも)ふと、はじめは臆病(おくびやう)で障子(しやうじ)を開(あ)けなかつたのが、今(いま)は薄氣味惡(うすきみわる)くなつて手(て)を拱(こまぬ)いて、思(おも)はず暗(くら)い天井(てんじやう)を仰(あふ)いで耳(みゝ)を澄(す)ました。
一分(いつぷん)、二分(にふん)、間(あひだ)を措(お)いては聞(きこ)える霰(あられ)のやうな音(おと)は次第(しだい)に烈(はげ)しくなつて、池(いけ)に落込(おちこ)む小※(こしぶき)の形勢(けはひ)も交(まじ)つて、一時(いちじ)は呼吸(いき)もつかれず、ものも言(い)はれなかつた。だが、しばらくして少(すこ)し靜(しづ)まると、再(ふたゝ)びなまけた連續(れんぞく)した調子(てうし)でぱら/\。
家(いへ)の内(うち)は不殘(のこらず)、寂(しん)として居(ゐ)たが、この音(おと)を知(し)らないではなく、いづれも聲(こゑ)を飮(の)んで脈(みやく)を數(かぞ)へて居(ゐ)たらしい。
窓(まど)と筋斜(すぢかひ)に上下(うへした)差向(さしむか)つて居(ゐ)る二階(にかい)から、一度(いちど)東京(とうきやう)に來(き)て博文館(はくぶんくわん)の店(みせ)で働(はたら)いて居(ゐ)たことのある、山田(やまだ)なにがしといふ名代(なだい)の臆病(おくびやう)ものが、あてもなく、おい/\と沈(しづ)んだ聲(こゑ)でいつた。
同時(どうじ)に一室(ひとま)措(お)いた奧(おく)の居室(へや)から震(ふる)へ聲(ごゑ)で、何(なん)でせうね。更(さら)に、一寸(ちよつと)何(なん)でせうね。止(や)むことを得(え)ず、えゝ、何(なん)ですか、音(おと)がしますが、と、之(これ)をキツカケに思(おも)ひ切(き)つて障子(しやうじ)を開(あ)けた。池(いけ)はひつくりかへつても居(を)らず、羽目板(はめいた)も落(お)ちず、壁(かべ)の破(やぶれ)も平時(いつも)のまゝで、月(つき)は形(かたち)は見(み)えないが光(ひかり)は眞白(まつしろ)にさして居(ゐ)る。とばかりで、何事(なにごと)も無(な)く、手早(てばや)く又(また)障子(しやうじ)を閉(し)めた。音(おと)はかはらず聞(きこ)えて留(や)まぬ。
處(ところ)へ、細君(さいくん)はしどけない寢衣(ねまき)のまゝ、寢(ね)かしつけて居(ゐ)たらしい、乳呑兒(ちのみご)を眞白(まつしろ)な乳(ちゝ)のあたりへしつかりと抱(だ)いて色(いろ)を蒼(あを)うして出(で)て見(み)えたが、ぴつたり私(わたし)の椅子(いす)の下(もと)に坐(すわ)つて、石(いし)のやうに堅(かた)くなつて目(め)を※(みは)つて居(ゐ)る。
おい山田(やまだ)下(お)りて來(こ)い、と二階(にかい)を大聲(おほごゑ)で呼(よ)ぶと、ワツといひさま、けたゝましく、石垣(いしがき)が崩(くづ)れるやうにがたびしと駈(か)け下(お)りて、私(わたし)の部屋(へや)へ一所(いつしよ)になつた。いづれも一言(ひとこと)もなし。
此上(このうへ)何事(なにごと)か起(おこ)つたら、三人(さんにん)とも團子(だんご)に化(な)つてしまつたらう。
何(なん)だか此池(このいけ)を仕切(しき)つた屋根(やね)のあたりで頻(しきり)に礫(つぶて)を打(う)つやうな音(おと)がしたが、ぐる/\渦(うづ)を卷(ま)いちやあ屋根(やね)の上(うへ)を何十(なんじふ)ともない礫(つぶて)がひよい/\駈(か)けて歩行(ある)く樣(やう)だつた。をかしいから、俺(おれ)は門(もん)の處(ところ)に立(た)つて氣(き)を取(と)られて居(ゐ)たが、變(へん)だなあ、うむ、外(そと)は良(い)い月夜(つきよ)で、蟲(むし)の這(は)ふのが見(み)えるやうだぜ、恐(おそろ)しく寒(さむ)いぢやあないか、と折(をり)から歸(かへ)つて來(き)た教師(けうし)はいつたのである。
幸(さいは)ひ美少年録(びせうねんろく)も見着(みつ)からず、教師(けうし)は細君(さいくん)を連(つ)れて別室(べつしつ)に去(さ)り、音(おと)も其(それ)ツ切(きり)聞(きこ)えずに濟(す)んだ。
夜(よ)が明(あ)けると、多勢(おほぜい)の通學生(つうがくせい)をつかまへて、山田(やまだ)が其(その)吹聽(ふいちやう)といつたらない。鵺(ぬえ)が來(き)て池(いけ)で行水(ぎやうずゐ)を使(つか)つたほどに、事(こと)大袈裟(おほげさ)に立到(たちいた)る。
其奴(そいつ)引捕(ひつとら)へて呉(く)れようと、海陸軍(かいりくぐん)を志願(しぐわん)で、クライブ傳(でん)、三角術(さんかくじゆつ)などを講(かう)じて居(ゐ)る連中(れんぢう)が、鐵骨(てつこつ)の扇(あふぎ)、短刀(たんたう)などを持參(ぢさん)で夜更(よふけ)まで詰懸(つめかけ)る、近所(きんじよ)の仕出屋(しだしや)から自辨(じべん)で兵糧(ひやうらう)を取寄(とりよ)せる、百目蝋燭(ひやくめらふそく)を買入(かひい)れるといふ騷動(さうどう)。
四五日(しごにち)經(た)つた、が豪傑連(がうけつれん)何(なん)の仕出(しだ)したこともなく、無事(ぶじ)にあそんで靜(しづ)まつて了(しま)つた。
扨(さて)其黄昏(そのたそがれ)は、少(すこ)し風(かぜ)の心持(こゝろもち)、私(わたし)は熱(ねつ)が出(で)て惡寒(さむけ)がしたから掻卷(かいまき)にくるまつて、轉寢(うたゝね)の内(うち)も心(こゝろ)が置(お)かれる小説(せうせつ)の搜索(さうさく)をされまいため、貸本(かしほん)を藏(かく)してある件(くだん)の押入(おしいれ)に附着(くツつ)いて寢(ね)た。眠(ねむ)くはないので、ぱちくり/\目(め)を※(あ)いて居(ゐ)ても、物(もの)は幻(まぼろし)に見(み)える樣(やう)になつて、天井(てんじやう)も壁(かべ)も卓子(テエブル)の脚(あし)も段々(だん/\)消(き)えて行(ゆ)く心細(こゝろぼそ)さ。
塾(じゆく)の山田(やまだ)は、湯(ゆ)に行(い)つて、教場(けうぢやう)にも二階(にかい)にも誰(たれ)も居(を)らず、物音(ものおと)もしなかつた。枕頭(まくらもと)へ……ばたばたといふ跫音(あしおと)、ものの近寄(ちかよ)る氣勢(けはひ)がする。
枕(まくら)をかへして、頭(つむり)を上(あ)げた、が誰(たれ)も來(き)たのではなかつた。
しばらくすると、再(ふたゝ)び、しと/\しと/\と摺足(すりあし)の輕(かる)い、譬(たと)へば身體(からだ)の無(な)いものが、踵(きびす)ばかり疊(たゝみ)を踏(ふ)んで來(く)るかと思(おも)ひ取(と)られた。また顏(かほ)を上(あ)げると何(なん)にも居(を)らない。其時(そのとき)は前(まへ)より天窓(あたま)が重(おも)かつた、顏(かほ)を上(あ)げるが物憂(ものう)かつた。
繰返(くりかへ)して三度(さんど)、また跫音(あしおと)がしたが、其時(そのとき)は枕(まくら)が上(あが)らなかつた。室内(しつない)の空氣(くうき)は唯(たゞ)彌(いや)が上(うへ)に蔽重(おほひかさな)つて、おのづと重量(ぢうりやう)が出來(でき)て壓(おさ)へつけるやうな!
鼻(はな)も口(くち)も切(せつな)さに堪(た)へられず、手(て)をもがいて空(くう)を拂(はら)ひながら呼吸(いき)も絶(た)え/″\に身(み)を起(おこ)した、足(あし)が立(た)つと、思(おも)はずよろめいて向(むか)うの襖(ふすま)へぶつかつたのである。
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