悪獣篇 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎(せんたろう)は、取附(とッつ)きに山門の峨々(がが)と聳(そび)えた。巨刹(おおでら)の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。
門の柱に、毎月(まいげつ)十五十六日当山説教と貼紙(はりがみ)した、傍(かたわら)に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透(すか)して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間(なか)にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴(いわあな)の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄(す)てた、浴衣、襯衣(しゃつ)、上衣(うわぎ)など、ちらちらと渚(なぎさ)に似て、黒く深く、背後(うしろ)の山まで凹(なかくぼ)になったのは本堂であろう。輪にして段々に点(とも)した蝋(ろう)の灯が、黄色に燃えて描いたよう。
向う側は、袖垣(そでがき)、枝折戸(しおりど)、夏草の茂きが中に早咲(はやざき)の秋の花。いずれも此方(こなた)を背戸にして別荘だちが二三軒、廂(ひさし)に海原(うなばら)の緑をかけて、簾(すだれ)に沖の船を縫わせた拵(こしら)え。刎釣瓶(はねつるべ)の竹も動かず、蚊遣(かやり)の煙の靡(なび)くもなき、夏の盛(さかり)の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑(にぎや)かに、町は寂しい樹蔭(こかげ)の細道、たらたら坂(ざか)を下りて来た、前途(ゆくて)は石垣から折曲る、しばらくここに窪(くぼ)んだ処、ちょうどその寺の苔蒸(こけむ)した青黒い段の下、小溝(こみぞ)があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪(やぶ)は自然の寺の垣。
ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋(わらじ)、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅(かや)ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋(いくあき)の月や映(さ)し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危(あやう)く掘立(ほったて)の、柱々、放れ放(ばな)れに傾いているのを、渠(かれ)は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。
「昔……昔、浦島は、小児(こども)の捉(とら)えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦(すさ)むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等(こどもら)の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
銑太郎は、ふと手にした巻莨(まきたばこ)に心着いて、唄をやめた。
「早附木(マッチ)を買いに入ったのかな。」
うっかりして立ったのが、小店(こみせ)の方(かた)に目を注いで、
「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷(うなず)いて独言(ひとりごと)。
別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
「一日(あるひ)大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」
帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方(こなた)の袖に隠れるので、路(みち)を対方(むこう)へ。別荘の袖垣から、斜(ななめ)に坂の方を透かして見ると、連(つれ)の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶(えん)なり。
「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」
と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
「店ぐるみ総じまいにして、一箇(ひとつ)々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」
と呟(つぶや)くうちに真面目(まじめ)になった、銑太郎は我ながら、
「串戯(じょうだん)じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」
二
とは思ったが、歴々(ありあり)彼処(かしこ)に、何の異状なく彳(たたず)んだのが見えるから、憂慮(きづかう)にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間(まっぴるま)。見える処に連(つれ)を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人(おんな)ではあるし、と思う。
今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨(まきたばこ)を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方(そなた)を。
何(なん)となくぼんやりして、ああ、家も、路(みち)も、寺も、竹藪(たけやぶ)を漏る蒼空(あおぞら)ながら、地(つち)の底の世にもなりはせずや、連(つれ)は浴衣の染色(そめいろ)も、浅き紫陽花(あじさい)の花になって、小溝(こみぞ)の暗(やみ)に俤(おもかげ)のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人(おんな)は軒を離れて出た。
小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖(つまさき)白く、濃い黒髪の房(ふさ)やかな双の鬢(びんづら)、浅葱(あさぎ)の紐(ひも)に結び果てず、海水帽を絞って被(かぶ)った、豊(ゆたか)な頬(ほお)に艶(つや)やかに靡(なび)いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬(みずいろちりめん)の蹴出(けだし)の褄(つま)、はらはら蓮(はちす)の莟(つぼみ)を捌(さば)いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃(ほこり)も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
「叔母さん、」
と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃(もゆ)るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花|揺(ゆら)ぐよう。黒目勝(くろめがち)の清(すず)しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月(いつかづき)に青柳(あおやぎ)の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
豪商|狭島(さじま)の令室で、銑太郎には叔母に当る。
この路を去る十二三町、停車場|寄(より)の海岸に、石垣高く松を繞(めぐ)らし、廊下で繋(つな)いで三棟(みむね)に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上(しんしょう)。
裳(もすそ)を厭(いと)う砂ならば路に黄金(こがね)を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐(から)めかで、羽衣着たりと持て囃(はや)すを、白襟で襲衣(かさね)の折から、羅(うすもの)に綾(あや)の帯の時、湯上りの白粉(おしろい)に扱帯(しごき)は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称(とな)えつびょう、リボンかけたる、笄(こうがい)したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女(たおやめ)。
帽子の裡(うち)の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥(おい)を見た目に冴(さえ)がなく、顔の色も薄く曇って、
「銑さん。」
とばかり云った、浴衣の胸は呼吸(いき)ぜわしい。
「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚(びっくり)するほど長かった。」
打見(うちみ)に何の仔細(しさい)はなきが、物怖(ものおじ)したらしい叔母の状(さま)を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情(なさけ)らしく熟(じっ)と見て、
「まあ、呑気(のんき)らしい、早附木(マッチ)を取って上げたんじゃありませんか。
門の柱に、毎月(まいげつ)十五十六日当山説教と貼紙(はりがみ)した、傍(かたわら)に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透(すか)して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間(なか)にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴(いわあな)の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄(す)てた、浴衣、襯衣(しゃつ)、上衣(うわぎ)など、ちらちらと渚(なぎさ)に似て、黒く深く、背後(うしろ)の山まで凹(なかくぼ)になったのは本堂であろう。輪にして段々に点(とも)した蝋(ろう)の灯が、黄色に燃えて描いたよう。
向う側は、袖垣(そでがき)、枝折戸(しおりど)、夏草の茂きが中に早咲(はやざき)の秋の花。いずれも此方(こなた)を背戸にして別荘だちが二三軒、廂(ひさし)に海原(うなばら)の緑をかけて、簾(すだれ)に沖の船を縫わせた拵(こしら)え。刎釣瓶(はねつるべ)の竹も動かず、蚊遣(かやり)の煙の靡(なび)くもなき、夏の盛(さかり)の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑(にぎや)かに、町は寂しい樹蔭(こかげ)の細道、たらたら坂(ざか)を下りて来た、前途(ゆくて)は石垣から折曲る、しばらくここに窪(くぼ)んだ処、ちょうどその寺の苔蒸(こけむ)した青黒い段の下、小溝(こみぞ)があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪(やぶ)は自然の寺の垣。
ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋(わらじ)、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅(かや)ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋(いくあき)の月や映(さ)し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危(あやう)く掘立(ほったて)の、柱々、放れ放(ばな)れに傾いているのを、渠(かれ)は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。
「昔……昔、浦島は、小児(こども)の捉(とら)えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦(すさ)むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等(こどもら)の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
銑太郎は、ふと手にした巻莨(まきたばこ)に心着いて、唄をやめた。
「早附木(マッチ)を買いに入ったのかな。」
うっかりして立ったのが、小店(こみせ)の方(かた)に目を注いで、
「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷(うなず)いて独言(ひとりごと)。
別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
「一日(あるひ)大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」
帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方(こなた)の袖に隠れるので、路(みち)を対方(むこう)へ。別荘の袖垣から、斜(ななめ)に坂の方を透かして見ると、連(つれ)の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶(えん)なり。
「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」
と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
「店ぐるみ総じまいにして、一箇(ひとつ)々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」
と呟(つぶや)くうちに真面目(まじめ)になった、銑太郎は我ながら、
「串戯(じょうだん)じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」
二
とは思ったが、歴々(ありあり)彼処(かしこ)に、何の異状なく彳(たたず)んだのが見えるから、憂慮(きづかう)にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間(まっぴるま)。見える処に連(つれ)を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人(おんな)ではあるし、と思う。
今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨(まきたばこ)を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方(そなた)を。
何(なん)となくぼんやりして、ああ、家も、路(みち)も、寺も、竹藪(たけやぶ)を漏る蒼空(あおぞら)ながら、地(つち)の底の世にもなりはせずや、連(つれ)は浴衣の染色(そめいろ)も、浅き紫陽花(あじさい)の花になって、小溝(こみぞ)の暗(やみ)に俤(おもかげ)のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人(おんな)は軒を離れて出た。
小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖(つまさき)白く、濃い黒髪の房(ふさ)やかな双の鬢(びんづら)、浅葱(あさぎ)の紐(ひも)に結び果てず、海水帽を絞って被(かぶ)った、豊(ゆたか)な頬(ほお)に艶(つや)やかに靡(なび)いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬(みずいろちりめん)の蹴出(けだし)の褄(つま)、はらはら蓮(はちす)の莟(つぼみ)を捌(さば)いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃(ほこり)も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
「叔母さん、」
と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃(もゆ)るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花|揺(ゆら)ぐよう。黒目勝(くろめがち)の清(すず)しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月(いつかづき)に青柳(あおやぎ)の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
豪商|狭島(さじま)の令室で、銑太郎には叔母に当る。
この路を去る十二三町、停車場|寄(より)の海岸に、石垣高く松を繞(めぐ)らし、廊下で繋(つな)いで三棟(みむね)に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上(しんしょう)。
裳(もすそ)を厭(いと)う砂ならば路に黄金(こがね)を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐(から)めかで、羽衣着たりと持て囃(はや)すを、白襟で襲衣(かさね)の折から、羅(うすもの)に綾(あや)の帯の時、湯上りの白粉(おしろい)に扱帯(しごき)は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称(とな)えつびょう、リボンかけたる、笄(こうがい)したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女(たおやめ)。
帽子の裡(うち)の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥(おい)を見た目に冴(さえ)がなく、顔の色も薄く曇って、
「銑さん。」
とばかり云った、浴衣の胸は呼吸(いき)ぜわしい。
「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚(びっくり)するほど長かった。」
打見(うちみ)に何の仔細(しさい)はなきが、物怖(ものおじ)したらしい叔母の状(さま)を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情(なさけ)らしく熟(じっ)と見て、
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悪獣篇 (あくじゅうへん) のリンク元
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- [[nifty]] ??b?
- [[nifty]] ? ?? ??b?
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- [[ezweb]] 獣 小説 綾
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