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或る女 - 林 芙美子 ( はやし ふみこ )

  • 【林芙美子】林芙美子 集英社刊 日本文学全集48 
  • 林芙美子『林芙美子傑作集』新潮文庫
  • 林芙美子 ちくま日本文学全集 文庫版
  • 文庫★絵本猿飛佐助★林芙美子
  • 昭和12年『林芙美子選集/人生賦』初版*装丁:中川一政
  • ★「稲妻」林芙美子 昭21初版 飛鳥書店★
  • 林芙美子傑作集 新潮文庫 昭和27年発行 11作品
  • 今川英子★林芙美子 巴里の恋 巴里の小遣ひ帳 1932年の日記 初版
  • 林芙美子☆日本文学全集☆放浪記,牡蠣,浮雲☆集英社☆即決
  • 日本文学全集48 【林芙美子集】
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 何時ものやうに歸つて來ると、跫音をしのばせて梯子段へ足さぐりで行つたが、梯子段の下の暗がりで、良人の堂助が矢庭に懷中電燈をとぼした。たか子はぎくつとして小さい叫び聲を擧げた。
「何さ‥‥まだ、あなた、起きていらつしたの?」
「寢てればよかつたのかい?」
「厭アな方ねえ、一寸遲くなるとこれなンですもの‥‥あなたのお時計、いま幾時なンですの?」
 さう云つて、たか子は暗がりの中へつつ立つてゐる堂助の方へ手を泳がせて良人の腕時計のある手首をつかんだ。
「パパ一寸それ照らして頂戴」
 堂助は素直に懷中電燈をつけた。腕時計の針は丁度十二時に十五分前を差してゐる。
「あら、本當ねえ、隨分遲いわ‥‥ごめんなさい」
「‥‥‥‥」
「でも、吃驚したわ、パパそこへ立つていらつして‥‥」
「俺が立つてゐたからつて、そんなに驚くこたアないぢやないか‥‥」
「誰だとおもつたからよ‥‥」
「ふふん、佐々のおばけとでもおもつたかい?」
「まア、厭だ! それ皮肉でおつしやるの?」
皮肉ぢやないよ‥‥」
 堂助は、ふふんと口のなかで笑つて、懷中電燈を照しながら、さつさと二階へあがつて行つた。(何だつて、あのひとは懷中電燈など持ち出したンだらう‥‥)
 たか子はわざと荒々しく、廊下のスヰイツチをひねつた。四圍が森閑としてゐるので、堂助が書齋の革椅子をきしませて腰をかけてゐるのまで階下へきこえて來る。
 たか子は化粧部屋へ這入つて着物をぬいだ。着物をぬぎながら、たか子は瞼に涙のたまるやうな熱いものを感じた。
 寢卷きに着替へて二階の寢室へあがつて行つたが、堂助は書齋の灯をつけて何時までも起きてゐる樣子だつた。
「パパ、おやすみにならないの?」
「ああ」
「何故? 何を怒つてらつしやるの?」
 たか子は寢床から起きあがると、良人の部屋へはいつて行つた。堂助は窓を明けて、星空を眺めながら煙草を吸つてゐた。
「あら、綺麗なお星樣だこと‥‥」
 たか子は、太つた躯を堂助の膝の處へ持つて行つたが、堂助は小さい聲で、
「厭だ」と云つて、窓ぶちへ立つて行つた。
「何、そんな怖い顏して憤つてらつしやるの、だつて、今日遠藤さんの出版記念の會ぢやありませんか、遲くなるの仕方ないわ」
 何時までも堂助が默つてゐるので、たか子は、たよりなささうに良人のそばへ行き、
「怒つてるンだつたら、かんにんして頂戴、そんな怖い顏してるの厭よ‥‥」
「もういいよ。寢ておしまひ。怒つてなンかゐないよ‥‥」
「さう、でも‥‥」
 たか子は、良人の机の灯を消すと、久しぶりに堂助とむきあつて窓ぶちに腰をおろした。
 星が飛んでゐる。明日も天氣なのだらう、寺院天井のやうに、高い星空で、秋の夜風が、たか子の髮を頬にふきよせてゐる。
「ねえ、おい‥‥」
「何ですの?」
「俊助や孝助の事考へるかい?」
「パパ、何云つてるの? 俊助から何か云つて來ましたの?」
「何も云つて來やしないよ。――だけどねえ、おい、子供の事を考へると、夫婦別れも中々めんだうだつて云ひたいのさ‥‥」
「厭! 何! パパの云ふこと‥‥別れるなンて何なのツ!」
「お前は子供のやうな顏をしてゐて、隨分押しが太いよ‥‥君には誰だつて甘いとばかりおもつちやいけないよ。わかるかい‥‥」
「パパは佐々さんの事をまだ責めていらつしやるの?」
「責めてはゐないが、氣持ちはよくないねえ」
「‥‥‥‥」


 結城たか子はいはゆる名流婦人であつた。どんな會にも顏を出してゐないと云ふ事がない。俊助、孝助と云ふ二人の子供があつたが、二人の子供は、たか子と友達のやうな大人で、俊助は熊本の高等學校にゐたし、孝助は中學の學生で二人とも寄宿舍生活をしてゐた。良人の結城堂助は日本畫家であつたが、筆のたつ處から、よく、方々の雜誌や新聞に隨筆を載せて識られてゐた。
 たか子には少しばかり歌が讀めた。歌をつくると云つても、乾いたばさばさしたもので、歌は有名ではなかつた。それでも、歌集は一二册自費出版をしてゐて、たかね會と云ふ若い女歌人の集りの幹事をも務めてゐた。
 次男の孝助が丁度中學へ這入つた年の夏だつた。たか子と堂助は休みで歸つてゐる子供達を家へ殘して、輕井澤へ避暑に行つた。輕井澤といつても沓掛に近い方で、堂助の設計になる小さい別莊へ、毎年二人きりで出掛けて行くのである。
 始め、堂助が沓掛へ別莊を持つたころには、四圍は雜草の原で、人家の遠いぽつんとした處だつたが、近年、堂助の別莊の近くには、四五軒も赤屋根の小さい別莊が何時か建つやうになつた。西側白樺林にかこまれては佐々博士和風莊と名づけた別莊がある。ここには子澤山の佐々一家が、二三年來やつて來るのであつたが、その夏は、佐々博士の一家は鎌倉の方へ避暑に行つたとかで、佐々博士の末弟だと云ふ、徹男と云ふ二十七八の青年がダツトサンを持つて一人でぽつんと遊びに來てゐた。
 この青年と一番さきに話すやうになつたのはたか子である。たか子は徹男を知ると、すぐ徹男を良人に紹介して、
「ねえ‥‥パパ、うちの俊助が學校を出たら丁度あんなになるのねえ‥‥外務省に務めてらつしやるンですつて」
 と、徹男の無口さを長男無口さにくらべて、こんなことを云つたりしてゐた。
 夏もそろそろ終り頃になつて、堂助は思ひたつたやうに二三日山の寫生に行つて來ると云つて、戸隱山か黒姫山かに登つて來るのだと、飛びたつやうにして長野へ發つてしまつた。後へ殘されたたか子は、朝から徹男を呼びに行つたり、夜更けまで、徹男の部屋に遊んでゐたりした。――霖雨のやうな雨の降る或日だつた。たか子は東京から菓子を送つて來たと云つて、徹男を自分部屋へ呼んだ。
「ねえ、あんまり寒いから爐を焚いてみたのよ いいでせう?」
 徹男は茶のスウヱータを着て、大きな野櫻のパイプを口にくはへてゐる。たか子は安樂椅子をすすめると、
「ああ、主人がゐない氣持ちなンて、桎梏から離れたやうな氣がするわよ‥‥」
 と、蓮葉なことも云つた。
「だつて、隨分仲のいい御夫婦で、何時も奧さんは愉しさうぢやありませんか‥‥」
「さう見えるのよ。ちつとも愉しくなンかないのよ。早くから子供を産んで年をとつたンですもの、つまらないわ‥‥」
 色んな草木の葉を鳴らして、細かな雨が降りつづいた。さうして、憂々と屈したやうな陰氣な、雨のくせに遠くでいなづまが光つてゐる。
「まるで夏の初めみたいぢやありませんか‥‥」
「さうですね‥‥」
 爐の火ははぜて、ぱちぱち樹皮が燃えあがる。山で傭つた小さい女中が、熱い茶を淹れて持つて來た。
「中々、可愛い娘ですね‥‥」
「あああの娘ですか、毎年傭ふのが嫁に行つたので、その妹が來てるンですけど、素直ですよ」
「いくつですか?」
「十九ですつて、あんなのがお好き?」
「何も知らない、あんなのがいいぢやありませんか‥‥」
「ふふん、徹男さんも隅に置けないひとねえ‥‥」
 二人は安樂椅子の話にも飽いて來ると、雨だれの音を聽きながらむつつり押し默つてゐた。
「ねえ、ドライヴでもしませんか?」
「まア! ドウイヴ? いいわね、雨の中のドライヴなンて素的だわ‥‥」
 たか子は納戸にはいると、洋服を着てゆくのだと云つて、
「ねえ、一寸、徹男さんいらつしてよ、この黄ろいジヤケツをかしいかしら?」
 徹男は苦笑ひに似た表情で、
「何でもいいでせう、寒くさへなけりやア‥‥」と云つた。


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