或る男の手記 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
もう準備はすっかり整っている。準備と云っても、新らしい剃刀(かみそり)と石鹸と六尺の褌とだけだ。それが、鍵の掛った書棚の抽出の中にはいっている。私としては、愈々やれるかどうか、それを試してみるだけのことだ。然しその前に、一切のことを書き誌してみたい――と云うより寧ろ、文字というはっきりした形で考えてみたい。馬鹿げた欲求だということは分っているが、そうにでもしなければ、何かしら心に落着(おさまり)がつきにくいのだ。
とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきりがない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子(みつこ)を眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急(せ)き込んだ語気からして、何かしら切羽(せっぱ)つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気が急(せ)いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分|懶(なま)け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。
とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきりがない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子(みつこ)を眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急(せ)き込んだ語気からして、何かしら切羽(せっぱ)つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気が急(せ)いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分|懶(なま)け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。
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