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或敵打の話 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

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芥川龍之介      発端  肥後(ひご)の細川家(ほそかわけ)の家中(かちゅう)に、田岡甚太夫(たおかじんだゆう)と云う侍(さむらい)がいた。これは以前|日向(ひゅうが)の伊藤家浪人であったが、当時細川家番頭(ばんがしら)に陞(のぼ)っていた内藤三左衛門(ないとうさんざえもん)の推薦で、新知(しんち)百五十|石(こく)に召し出されたのであった。
 ところが寛文(かんぶん)七年の春、家中(かちゅう)の武芸の仕合(しあい)があった時、彼は表芸(おもてげい)の槍術(そうじゅつ)で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守(えっちゅうのかみ)綱利(つなとし)自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望(しょもう)した。甚太夫竹刀(しない)を執(と)って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流(しんかげりゅう)の剣術指南している瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)が相手になった。甚太夫指南番の面目(めんぼく)を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎(にく)くなった。そこで甚太夫がわざと受太刀(うけだち)になった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く喉(のど)を突かれて、仰向(あおむ)けにそこへ倒れてしまった。その容子(ようす)がいかにも見苦しかった。綱利(つなとし)は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後(のち)は、甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をしたまま、一言(いちごん)も彼を犒(ねぎら)わなかった。
 甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口(かげぐち)の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀(かわい)や剣術竹刀(しない)さえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂(うわさ)が誰云うとなく、たちまち家中(かちゅう)に広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬(しっと)や羨望(せんぼう)も交(まじ)っていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門(ないとうさんざえもん)の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番|瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)と三本勝負をしたいと云う願書(ねがいしょ)を出した。
 日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合(しあい)をする事になった。始(はじめ)は甚太夫兵衛小手(こて)を打った。二度目は兵衛が甚太夫の面(めん)を打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十|石(こく)の加増を命じた。兵衛蚯蚓腫(みみずばれ)になった腕を撫(な)でながら、悄々(すごすご)綱利の前を退いた。
 それから三四日経ったある雨の夜(よ)、加納太郎(かのうへいたろう)と云う同|家中(かちゅう)の侍が、西岸寺(さいがんじ)の塀外(へいそと)で暗打ちに遇(あ)った。平太郎知行(ちぎょう)二百石の側役(そばやく)で、算筆(さんぴつ)に達した老人であったが、平生(へいぜい)の行状から推して見ても、恨(うらみ)を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天(ちくてん)した事が知れると共に、始めてその敵(かたき)が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好(せいかっこう)はよく似寄っていた。その上|定紋(じょうもん)は二人とも、同じ丸に抱(だ)き明姜(みょうが)であった。兵衛はまず供の仲間(ちゅうげん)が、雨の夜路を照らしている提灯(ちょうちん)の紋に欺(あざむ)かれ、それから合羽(かっぱ)に傘(かさ)をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽(そこつ)にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
 平太郎には当時十七歳の、求馬(もとめ)と云う嫡子(ちゃくし)があった。求馬は早速|公(おおやけ)の許(ゆるし)を得て、江越喜三郎(えごしきさぶろう)と云う若党と共に、当時の武士習慣通り、敵打(かたきうち)の旅に上(のぼ)る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免(まぬか)れなかったのか、彼もまた後見(うしろみ)のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友(ねんゆう)の約があった、津崎左近(つざきさこん)と云う侍も、同じく助太刀(すけだち)の儀を願い出した。綱利は奇特(きどく)の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。
 求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎初七日(しょなぬか)をすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本(くまもと)の城下を後にした。

        一

 津崎左近(つざきさこん)は助太刀の請(こい)を却(しりぞ)けられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬(もとめ)と取換した起請文(きしょうもん)の面(おもて)を反故(ほご)にするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋輩(ほうばい)たちに、後指(うしろゆび)をさされはしないかと云う、懸念(けねん)も満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、念友(ねんゆう)の求馬を唯一人|甚太夫(じんだゆう)に託すと云う事であった。そこで彼は敵打(かたきうち)の一行(いっこう)が熊本城下を離れた夜(よ)、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後(あと)を慕うべく、双親(ふたおや)にも告げず家出をした。
 彼は国境(くにざかい)を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅(さんえき)の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重(いくえ)にも同道を懇願した。


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