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技術へ行く問題 - 戸坂 潤 ( とさか じゅん )

  • 古書 「麦の多収穫技術」 (富民技術選書) 野中舜二  
  • 即決!『H18 技術・家庭 技術分野 開隆堂』 W3
  • 『映画技術』 日本映画技術協会 昭和30年から11冊/SA1
  • ■DVD/技術選2003年 第40回全日本スキー技術選手権大会
  • 【即決DVD】 2004全日本スキー技術選 技術解説
  • ☆ 即決 DVD 2005 技術選 第42回全日本スキー技術選 SKI journal
  • 技術と人間 技術革新の虚像と実像 (中公新書) 星野 芳郎
  • 送料込*メッキ技術入門 金属加工技術研究所編 理工学社 耐食性
  • 電子材料のはんだ付技術 その科学と技術 絶版 半田 ハンダ
  • ◆自動車技術(2010年6月)《カーデザインの技術》
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   一 何が目標か  初めに私は、少し大胆かも知れない独断をやって除けたいと思う。この独断には尤も自分なりの動機はあるのだから、その動機から説明してかかる方がいいかも知れない。エーヴ・キュリの『キュリ夫人伝』はずい分上手に書けてある伝記だと思うが、あの内で一等感動させられたのは、キュリがラジウム製造特許権を獲得しようかどうしようか、と夫人相談するくだりである。
 夫人はしばらく考えてから、それは止めた方がいいでしょう、と云うのである。科学は万人のものなのだから、私達が之を私するのはいいことではない、という一見ごく公式的な理由からだ。
 すると夫は、併しこの特許を取っておけば後々の研究費が十分出るから、結局之が最も社会のためになるのではないか、と考え考え、反駁する。キュリ夫人は、それでもやっぱり止めましょう、と云うので結局やめになる。
 之は後になって夫人にとって都合の悪い結果になった。夫人特許権を取っておかなかったばっかりに、アメリカ有志達にラジウム会社からラジウムを買って貰わなければならず、そのお礼に、アメリカ中を見世物のように巡行しなければならなくなった。併し夫人は、之でいいのだと清々しく諦観しているのである。
 人類のために解放した筈のラジウム製造パテントが、アメリカ会社利潤の源となったことは可なり遺憾とすべきで、ここにも問題はあるのであるが、私がヒントを得たのは、寧ろ他の点だ。即ちキュリ夫妻アメリカラジウム会社創立者のために、実験室に於けるラジウム製造過程をそのまま細かく書き送ってやったことである。
 之は一面に於ては全く、学術上の報告論文発表であろう。処が他面では、それがそのまま所謂産業技術公開というものである。この一致は、偶々ラジウムという新元素発見製造場合であったから、成り立ったのではあるが、併し又偶々、所謂科学技術との直接の結び付きを、改めて示唆するように思われた。
 ラジウム製造がなければ、ラジウム発見もなければ放射能研究も十分の意味を得なかったわけで、科学実験研究なるもののクライマックスは、何と云っても物質現実に造るということではないか、と考えたのである。
 検証のための実験などは寧ろ一種教育的な意義さえ勝っていて、単純な意味での創造的な実験とは云えないようだ。科学とは、それでは、実は物を造るのを窮極目標とするのではなかったのか。
 キュリの女婿ジョリオ夫妻人工放射能発見成功したのも暗示的だ。こうやって新しい方法元素人工的に転換=即ち製造されて行くのだろう。そう思いながら、バルザックの『絶対の探究』を読んで見ると、わがバルタザル氏は、要するに炭素から金剛石製造出来れば、絶対はつかまえたことになると信じている。化学は絶対「真理」を目標とするよりも寧ろ金剛石や金の製造生産目標とする。そのための絶対探究だ。私は錬金術の新しい意味発見したような気持ちである。
 こういうわけで、この頃私は、科学目標とは何か、ということを問題にし始めた。科学が他のものの手段になるという意味では決してないが、色々の公認された手段を用いて科学が到達して之で一まず解決、と思える頂点何か、と考える。それはやはりどうも、問題になっている一定の物を造ることのようだ。
 バルタザルは実験室を留守にしている間に金剛石出来て了ったので、金剛石の成立のプロセスが判らなくて、遂に絶対を征服出来ずに没落するのだが、出来るプロセスが判れば、それが本当に製造出来たということである。細胞学者は、先回りして色々の疑似細胞人工的に造っては、本物と似ていないかと比較している。之は云わば、有機的錬金術でもあろう。
 もしそうなら、科学目標真理認識だとする「科学論」は多少の修正を必要とする、という私の独断だ。

   二 科学生産

 科学を一種の錬金術のように考えることは、最近自然科学、特に物理学化学とが極度に交錯した分野に於ては、常識にぞくするとも云えよう。元素人工転換という問題、その理論、その実験はそういう意味で、自然科学発達に於ける甚だ特徴的な現段階であるようだ。
 私が、科学は物を造ること、物的生産目的とする、という一つの独断を導き出したのは、勿論自然科学のことを心に置いていたからである。併しこれは単に自然科学だけにあてはまるのではないように思う。例えば教育学である。之は一個の応用哲学実用哲学のようにも考えられているが、それはとに角として、教育とは人間を造ることでなければならぬ。身体精神能力性格、其の他其の他を統一した人間というものを、つまり社会の一員としての人間を、生産することである。
 生殖出産は、生物としての人間生産することであるが、育児から始めて学校教育社会教育、自己教育に及ぶ所謂教育は、社会の一員としての人間生産することである。之はただの物質生産ではないという意味で、物の生産とは云い切れないが、併しやはり人間という現物を造ることだ。世間でよく云う「肚をつくる」とか「人間をつくる」とか、よりも、もっと現物的な現象だ。
 教育人間生理社会環境に於ける自然成長を補佐掖導するにすぎないから、別に改めて何かを造ると称するには当らないとも考えられるかも知れないが、併し人間のやる一切の生産は、凡て自然発達や行程の補佐掖導以外に出るものではない。吾々は物質を造り出すことは出来ない。物質形態変更出来るだけだ。生産とは一般にそうした形態変更のことでしかない。――で、教育学現物社会人間という)の生産目標とするわけである。
 社会法則に関する科学も亦、社会を造るということが目標である。往々社会科学には実験不可能だと云われているが、併し社会現象の典型的な出来事はすべて、実験としての意味を後から或いは外部から、持ち得るもので、それを別にしても、色々実験が、実験としての自覚の下に、行なわれていることを忘れてはならぬ。例えば栄養食の研究は一定の集団的に規正された生活を営む人間達を材料として、実験的に行なわれる。造る処には必ず実験の役割があるのである。


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