擬体 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
退社間際になって、青木は、ちょっと居残ってくれるようにと石村から言われて、自席に残った。同僚が退出した後の事務室は、空気までも冷え冷えとしてきた感じで、眼を慰めるものとてない。壁に懸ってる地図だのカレンダーだの怪しげな版画だの、毎日見馴れてるものばかりだった。受付兼給仕の宮崎がまだ残っていたが、衝立の陰で、何をしているのやら、ひっそりとして物音一つ立てなかった。青木はやたらに煙草を吹かしながら、新聞の綴込をぼんやり読みあさるより外はなかった。
石村は社長室で、来客と話し込んでいた。前の石村商事、今の石村証券の、彼は社長だったが、どういうものか、社員にも石村さんと呼ばせて、社長と言われるのを嫌った。もと陸軍の退役中佐だったが、終戦当時から中佐と言われるのを嫌ったのと、同じ意味合だったらしい。そして時間を守ることは几帳面で、社長室に来客があっても、社員には遠慮なく退出さした。もっとも、十人に足りない小さな会社なのである。
ちょっとというのが、三十分あまりかかった。石村は廊下まで来客を送り出して、それから事務室へ顔を出した。
「待たして済まなかったね。」
青木に声をかけて、それから室内を一通り見廻した。
「宮崎君、君はもう帰ってよろしい。」
宮崎は直立不動の姿勢をした。
青木は石村について社長室にはいった。
中央の大きな円卓をかこんで、長椅子や安楽椅子が並んでおり、壁には大小数枚の油絵があった。卓上には、ウイスキーの瓶や水差やピーナツが出ていた。石村が来客と一杯やっていたものらしい。
「さあ掛け給い。」
石村は青木に安楽椅子を指し示し、自分は長椅子にかけようとしたが、ちょっと小首を傾げて、事務室のとは別な扉を開けて出て行き、ウイスキーの新たな瓶を持って来た。そこの室には、女秘書の小島がいる筈だったが、それももう帰って行ったらしかった。この女秘書は、石村を直接訪れて来る客を取次いだり、茶を出したり、タイプライターを叩いたりする役目だ。石村はタイプの文書が好きで、それを叩く音がこの室にはのべつにしていた。
青木は石村と全く二人きりなのを知り、石村の応対が懇切なのを見て、これはいつもと違った用件だと悟った。
「引止めて、迷惑じゃなかったかね。」
「いえ別に……。どうせ酒を飲むぐらいな用しかないんですから。」
「ははは、うまいことを言ってるぜ。」
石村は二人のコップにウイスキーをついだが、なにやら憂鬱そうだった。煙草の煙の合間に、ふっと眉間に皺を寄せたりした。だが、彼のそういう表情は、何等かの行動的決意に依るものであることを、青木は知っていた。
石村は青木の顔をじっと見た。
「実は、君に少し頼みたいこともあるんだが、なにか、特別な情報はないかね。」
「情報と言いますと……。」
「いや、そうむつかしく考えんでもいいがね、つまり、日本は今、ひどく緊迫した状態にあるから、各方面の情報を集めておく必要がある。一般與論の動向なんかは、どうでも宜しい。各方面の特別な個々の動き、それを掴んでおくことが大切だ。ところでこの情報というやつは、君も知ってる通り、重大だと見えるものが案外何の役にも立たなかったり、下らないと見えるものが案外に深い根を持っていたりするんだから、よほど細心に取扱わなければならん。むしろ、下らないと見えるものを、注意深く蒐集しなければいけない。現内閣の意向だとか、国警本部の方針だとか、左翼運動の新企画だとか、そういう大まかなものでなく、巷の声、ちょっとした聞き込みが大切で、そういうことについて、何か君が知ってることはないかね。」
青木は考え込む風を装いながら、内心では、いよいよ来たなと思った。近頃、石村証券の商売の方は至って閑散で、各会社の内情調査が主な仕事となっていたが、その代り、石村のところへの直接訪問客が目立って殖えていた。日本再軍備の問題が各方面で論議されるようになってから、それが殊に甚しかった。石村の室へは、廊下から、事務室の方の扉と女秘書室の方の扉と、二つの出入口があって、直接の訪問客はたいてい後者から出入したので、どういう人物かよくは分らなかったが、主として旧軍人の類であることは想像に難くなかった。第一、ここの主な社員たちにしても、もとを糺せば旧軍人か或は旧軍属だったのである。
青木が考え込んでるのを見て、石村は話の調子を変えた。
「君に思い当ることがないとすれば、まあそれでいいさ。酒場での酔っ払いの話なんかは、これは情報とも言えないからね。
石村は社長室で、来客と話し込んでいた。前の石村商事、今の石村証券の、彼は社長だったが、どういうものか、社員にも石村さんと呼ばせて、社長と言われるのを嫌った。もと陸軍の退役中佐だったが、終戦当時から中佐と言われるのを嫌ったのと、同じ意味合だったらしい。そして時間を守ることは几帳面で、社長室に来客があっても、社員には遠慮なく退出さした。もっとも、十人に足りない小さな会社なのである。
ちょっとというのが、三十分あまりかかった。石村は廊下まで来客を送り出して、それから事務室へ顔を出した。
「待たして済まなかったね。」
青木に声をかけて、それから室内を一通り見廻した。
「宮崎君、君はもう帰ってよろしい。」
宮崎は直立不動の姿勢をした。
青木は石村について社長室にはいった。
中央の大きな円卓をかこんで、長椅子や安楽椅子が並んでおり、壁には大小数枚の油絵があった。卓上には、ウイスキーの瓶や水差やピーナツが出ていた。石村が来客と一杯やっていたものらしい。
「さあ掛け給い。」
石村は青木に安楽椅子を指し示し、自分は長椅子にかけようとしたが、ちょっと小首を傾げて、事務室のとは別な扉を開けて出て行き、ウイスキーの新たな瓶を持って来た。そこの室には、女秘書の小島がいる筈だったが、それももう帰って行ったらしかった。この女秘書は、石村を直接訪れて来る客を取次いだり、茶を出したり、タイプライターを叩いたりする役目だ。石村はタイプの文書が好きで、それを叩く音がこの室にはのべつにしていた。
青木は石村と全く二人きりなのを知り、石村の応対が懇切なのを見て、これはいつもと違った用件だと悟った。
「引止めて、迷惑じゃなかったかね。」
「いえ別に……。どうせ酒を飲むぐらいな用しかないんですから。」
「ははは、うまいことを言ってるぜ。」
石村は二人のコップにウイスキーをついだが、なにやら憂鬱そうだった。煙草の煙の合間に、ふっと眉間に皺を寄せたりした。だが、彼のそういう表情は、何等かの行動的決意に依るものであることを、青木は知っていた。
石村は青木の顔をじっと見た。
「実は、君に少し頼みたいこともあるんだが、なにか、特別な情報はないかね。」
「情報と言いますと……。」
「いや、そうむつかしく考えんでもいいがね、つまり、日本は今、ひどく緊迫した状態にあるから、各方面の情報を集めておく必要がある。一般與論の動向なんかは、どうでも宜しい。各方面の特別な個々の動き、それを掴んでおくことが大切だ。ところでこの情報というやつは、君も知ってる通り、重大だと見えるものが案外何の役にも立たなかったり、下らないと見えるものが案外に深い根を持っていたりするんだから、よほど細心に取扱わなければならん。むしろ、下らないと見えるものを、注意深く蒐集しなければいけない。現内閣の意向だとか、国警本部の方針だとか、左翼運動の新企画だとか、そういう大まかなものでなく、巷の声、ちょっとした聞き込みが大切で、そういうことについて、何か君が知ってることはないかね。」
青木は考え込む風を装いながら、内心では、いよいよ来たなと思った。近頃、石村証券の商売の方は至って閑散で、各会社の内情調査が主な仕事となっていたが、その代り、石村のところへの直接訪問客が目立って殖えていた。日本再軍備の問題が各方面で論議されるようになってから、それが殊に甚しかった。石村の室へは、廊下から、事務室の方の扉と女秘書室の方の扉と、二つの出入口があって、直接の訪問客はたいてい後者から出入したので、どういう人物かよくは分らなかったが、主として旧軍人の類であることは想像に難くなかった。第一、ここの主な社員たちにしても、もとを糺せば旧軍人か或は旧軍属だったのである。
青木が考え込んでるのを見て、石村は話の調子を変えた。
「君に思い当ることがないとすれば、まあそれでいいさ。酒場での酔っ払いの話なんかは、これは情報とも言えないからね。
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